火傷するような関係

 夫は妻のワガママを許し、次の日から妻は週末、休日の旅行プランを立てた。

「ねえ、軽井沢なんてどうかしら」

妻は夫にそう問いかけると、

 夫はソファーに腰掛けてテレビを見ていた。ニュース番組では行楽地の紅葉の様子を話題をしており、申し合わせたように軽井沢の様子が映し出されていた。妻は夫の側に寄り、

「紅葉楽しんでお買い物して、グランピングなんかどうかしら。外で星空見ながらなんて素敵じゃない」と夫にせっついた。

「悪くないね。でも軽井沢、夜は寒いだろうな」と寒がりな妻を気にかけた。

「そうだけど、ダウンのジャケットはこの間クリーニングに出したし、たまにはそういう贅沢も良いじゃない。ね」夫の肩をも揉みながら甘えた。妻が今までは他人にところを見たことがなかった。今までこういった要求がなかったので、夫はそんな妻の姿を見るのが嬉しかった。

「よし、でも今から取れるのかい。グランピングできる施設って」夫は心配したが、

「大丈夫、仮予約しておいたから」

先回りに夫は呆れて笑顔の妻に苦笑いを送った。

 思い返してみれば、屈託がない笑顔の妻を見るのはいつ以来だろうか。そもそも笑顔なんて見たことがあっただろうか。彼女はいつも何かに苛立ち、気を張っていたように見えた。それが普通だと思っていた。最近、妻はよく笑い、泣いたりもするが、泣くのは悪い意味ではない。つい先日も一緒にテレビで放送していた映画を見て、感動するところで泣いていた。観ていた映画は“トイ・ストーリー”

 夫は妻しかを知らないから他人と比べようがないので分からない。果たして他の女性はこういうものだろうか。しかし妻のこの変化は嬉しい。決して情緒が不安定というわけでもないのは長年一緒にいればそれくらいはわかる。そして、今まで自分に一切甘えてこなかったが、角が取れた妻が急に愛おしく思えた。だからこのくらいのワガママはワガママの内に入らないと思った。

 

 妻の言うのには、「全部ホテルで用意してくれるから大丈夫よ」

 そうして休日、最低限の旅行の準備をしてふたりは秋の紅葉で彩られた軽井沢へ車で出掛けた。

 軽井沢はふたりと同様に紅葉を楽しむために訪れた観光客で賑わっていた。

 まず、ふたりは軽井沢レイクガーデンで今シーズン最後の薔薇と花木を楽しんでから、塩沢湖畔の紅葉を楽しんだ。

 少し強い風が吹く度に紅葉は落ち葉となって風にまかれ、さらりと舞い上り、はらはらと落ちた。妻はそれを遠い目で眺めては、

「こんなにもきれいに色付いているのに、なんで物悲しいのかしら……」と言って涙を流していた。夫は黙って自分の肩に妻を抱き寄せた。

 ランチはおしゃれに気取っても良かったが、長野と言ったら信州そば。蕎麦屋に入って天ざるを頼んで舌鼓を打った。東京のそば店で食べてもきっと同じだろうとふたりは目配せをしたが、それを口に出すと折角の旅行が台無しにると思って黙って食べた。お互いの目で何を言いたがんとしていることがわかり、それも滑稽と思えた。

因みに味は決して悪い訳ではないということはそば店の名誉のために記しておこう。

 午後はアウトレットモールへ行き、この二年半を取り戻すように服を買った。特にテレワークが当たり前になり、外出を滅多にしなくなった妻は狂ったように買物をした。

 そして夕方、これが軽井沢へ来た目的と言っても過言ではない。

 高給リゾートホテルのような入り口でカードキーを受け取り、一通りの説明をフロントウーマンから聞くと、テント式のドームに案内された。中に入ると屋根が半円状の透明になっておりそこから空を見上げることができる。その下には大きなベッドが二つ並んでいた。夜空を見ながら寝られるという贅沢な時間が味わえる。ふたりはネットの写真以上の情景にときめき、感動した。

 そしてディナー。グラマラスとキャンプでグランピング。外でホテルのシェフ厳選の食材を使ったバーベキュー。テントが貼られた野外で自然の音色を楽しみながらアルコールを摂り好きなものを焼いて食べる。ふたりはこの贅沢に酔いしれた。

「すごい。こんなに星空が近いなんて。素敵」妻は初めて見る晩秋の星々が煌めく夜空に感動して声を上げた。

昼間は冷たい風ではらはらと舞い落ちる紅葉を眺めては目に涙を溜めていたのが打って変わって驚きと感動を声に出していた。

ふたりで夜空の下を散歩していると、

「ごめんなさい……」妻が唐突に謝った。夫には謝られる心当たり全くがなかった。

「なにかしたっけ」夫は尋ねると、

妻は躊躇いがちに、

「私、あなたを疑っていたわ。停電があったとき以来、なにか変わったように見えて……それ以来ずっと」

「変わったって、何が」夫は笑って尋ねた。

「笑わないで、絶対に」

「笑わないよ」

「約束できて」

「ああ」

「急に男らしく感じられて……だから私、あなたが浮気しているんじゃないかって疑っていたの」

夫は先程の約束を破って声高々に笑った。

「笑わないって言ったじゃない」

妻はむくれた。

「ごめん、ごめん。浮気か、考えたこともなかった。それで証拠はあった」

「なかった。別に調べたわけじゃないけど」

「そうか、もし浮気していたらどうする」

妻は夫の顔を見つめた。妻の顔は寒さで鼻が真っ赤に染まって、寒さだろうか、瞳も悲しいのか、涙腺が切れて涙が溜まっていた。

「あなたを浮気相手から取り戻す、全力で」

重大な決心をするような面持ちでそう答えた。

 夫はその答えが意外に思えた。妻のことだ。そんな浮気するような夫とはすぐに離婚するだろうと考えていた。そもそも自分は浮気など考えたことがなかったから、そういう場面になることなんて微塵も思いもしなかった。

「買いかぶられたかな」夫はそう言うと、妻は再び謝った。

「だから、ごめんなさい。あなたはそんなことする人じゃないのは私がよくわかっていたつもりなんだけど……」

そう言うと、妻は急に元気がなくなって俯いた。

「男らしくか。今までとずっと変わらないままでいたつもりなんだけどさ」夫はそう言うと、妻の手を取った。その手は寒さも手伝って非常に冷たかった。

「相変わらず冷たいなお前の手は。ずっと握っていると低温火傷になりそうだよ」

「あなたの手はとても暖かい。このまま握られていると私は火傷しそう……」

夫は妻を抱き寄せ、

「それでどう思った」

「どうって……」

「男らしく見えた俺がさ、惚れ直したか」

柄にないようなことを言う夫に妻はしばらく黙ってから口を開いた。

「いいえ、はじめて惚れた」


冷え込んだ関係 おしまい


 妻の最後の言葉「いいえ、惚れたわ」の「いいえ」の部分ですが、「んーん」にしたいと思いましたが、語呂が悪く「いいえ」にしました。

 「んーん」は打ち消しの否定系として、使われる言葉。一般的には「ううん」として書かれることが多いと思います。なぜ「んーん」なのかは、言語学者金田一春彦氏が父親である金田一京助氏について、「自分は言語学者にはならないと決めていたが、どういうわけか父親と同じ道を選んだ。人生は打ち消しの否定系である。だから、「ん」の項目に「んーん」という言葉を入れたんです」(意訳)と、インタビュー(だったかな)で語られていたのを覚えていたからです。

 この夫婦の関係は打ち消しの否定系。互いに冷めていても愛情はある。それがあるきっかけでうまく表現できない気持ちが妻に芽生える……人生は打ち消しの否定系。冷めているが熱い関係。それが二人の関係。

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