覚めた関係
仕事を終えた私は、妻に帰宅する旨を伝える為にLINEを送った。妻からは既読スルーだけで返事はなかった。いつものことだから特に気にしないし、七年、いや同棲期間も入れれば九年も一緒に居ればお互い空気のような存在である。かと言って私は妻を愛していないわけではない。情はあるし、いつもそれなりに気にかけている。妻もきっとそうだろう。
妻とは五歳、年齢が離れている。私のほうが年上だ。年上だから、年上ぶったことは言わないようにしているし、妻を尊重しているつもりだ。妻が仕事に復職することも反対はしなかったし、お互いの記念日を祝わなくなっても、それについてどうこう言うつもりはない。二年前から何も妻も言わなくなった。一昨年は、妻が仲が良い大学時代からの女友達と旅行へ行ってしまい一緒にいることができなかった。何処かで埋め合わせをしなければと思っていたが、それも叶わぬまま一年が過ぎてしまった。正直いえば忘れてしまっていたからだ。妻は何も言わなかった。そして去年は私が急な出張で家を空けた。妻は何も言わなかった。
私は、別に我慢している訳ではなく、妻に嫌われたくないからという訳だもない。私には妻という存在は日常以外の何者でもないのだ。
今日は強い雨が降っていて、外はとても寒い。私は交差点の信号が赤のうちに運転する車のフロントガラスの曇りを取るために車内のエアコンを操作した。すると、先程まで煌々と点灯していた信号が消えた。それと同時に周囲の街灯やネオンも一斉に消えた。私は一瞬何が起こったのか把握できなかったが、すぐに停電があったことを理解した。
「早く家に帰らなければ……」
私は真っ先にそう思った。何故か妻のことが心配になった。妻は精神的に自立した女性ではあるが、いつも何かしら苛立って、子供のように我儘なときがある。自然現象や人知を超えた事象に対してもそんな態度を取るのが困りものだった。自然現象に対してからっきし弱い……しかし、そんな『女』であることを隠さないところが彼女の魅力でもあるのだ。ただ、私の両親、特に母親からはその態度はとても嫌がられている。これは世代の違いでもあるだろう。とは言うものの、私とて妻の全部を赦せる訳ではなく、多少の不満はある。具体的に何かと尋ねられても些末なことで私が我慢すればどうということはない。ないから夫婦でいられるのであるが。
ただ、最近顕著なのは、同棲中はまだ『女性』としての恥じらいはあっが、それが結婚してから無頓着になった。風呂上がりに裸でウロウロされ、私が同じことをやったものなら、全力で注意する。あと気になることといえば、毛を“処理”をしてくれない。誰か私以外の男に見せるわけではないのでそれは良いのだが、特にこの二年、復職して以降テレワークが増えて、家にいる機会が増えた頃からだらしがなくなった。所謂“干物女”ではないと思っていたし、同棲中はそんなことなかった。相手が私だから気を抜いているのかだろうか。器量は良いので残念である。
そんな彼女を私はいつからか真剣に抱こうと思わなくなっていた。最後に抱いたのはいつだろう。しかし結婚記念日。久々に妻は家にいる。先程、帰り道で妻が好きなイチゴのケーキと花束を買った。車内の荷物置きには前に買って隠してるロゼをクーラーボックスに入れ、厳重に保管してある。
停電になる前で良かったと思う。お互いこの二年、何も言わなかったし、なかったことになっていた結婚記念日。しかし彼女の誕生日でもあるのだ。
「忘れないように、君の誕生日を結婚記念日にしよう」と言ったのは私だから。
真っ暗の中、車のライトだけが頼りだったが、停電していた信号は非常用電源ですぐに回復し、帰宅路を急いだ。帰宅してもまだ停電は復帰していないままで、隣近所も真っ暗だった。
雨の中、まず妻の安全を確認するために、玄関を開けようとしたが鍵がかかっていた。すぐに鍵を開けて、家の中へ入った。
「おーい、帰ったぞ。大丈夫か」私は妻に呼びかけた。
「あなた、こっち、リビング」
「ちょっと待ってろ」
「早く、お願いだから」
妻の焦った声が聞こえた。
私はスマホのライトを頼りにリビングに入った。
「この強風で倒木があって送電線が切れたみたいだな」
「どうするのよ」
「どうするって言っても電気が復旧するまで待つしかないだろう」
「じゃあ、このまま……」妻の声が一層不安と焦りに包まれたように聞こえた。
「そのうちに、大丈夫だよ」と私は言うと妻の隣に腰掛けた。妻は小刻みに震えている。
「今日は冷えるな、大丈夫か、お前寒いの苦手だよな」
妻は暗がりの中うつむいて、肩を震わせている様子だった。
「どうした。泣くなよ。直に元に戻るよ」
私は私の肩を抱き寄せて髪、いや、頭を撫でた。そうして「大丈夫……」と何度も小さい子供に言い聞かせるように妻に言った。妻は黙ったままだった。
「ごめんな、今日は結婚記念日だったのに、驚かせようと思ったら、まさか停電になるなんて」
私はスマホのライトを妻に向け続けた。
「ずっと忙しい日が続いてここ何年かお祝いらしいお祝いもできなかったな。それに結婚記念日ということはお前の誕生日だもんな」
「私の誕生日……」
「一昨年は祝おうと思っていたらお前は友達と旅行に行ちゃうもんな。去年は俺が出張でさ」
妻はしばらく黙ったままでいたが、
声を出して泣きはじめた。
「おいおい、そんな泣くなよ。そんなに停電が嫌か」
妻はは暗闇の中何度も頷いていた。そして私に抱きつき、顔を体に押し付けてきた。
「おっ、電気がついた」
私はそうつぶやくと、
「ちょっと待ってろ」
と言って立ち上がろうとした。
「えっ、待って行かないで」
妻は私を必死な表情で止めた。
「大丈夫だよ。電気も復旧したんだし、だから、ちょっとだけ待っていろ、な」
私は妻を必死になだめて、車に置きっぱなしにしたケーキと花束とロゼを取りに向かった。
私がリビングに帰ると、妻は愚図る子供のような顔をして待っていた。
「誕生日おめでとう」
私はケーキと花束を妻に渡し、ロゼのボトルを見せた。
妻は再び子供のように泣き始めてしまい、
「ありがとう、ありがとう」と繰り返すばかりだった。
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