紅玉の指輪 4
「返ってきたか」
師匠は言った。
石に耳を近づけると、響子のすすり泣く声がした。
それに肉体はなく、それでも響子といえるものだった。
──出して。ここから出して。
「人格という言葉で括るのがわかりやすいか」
小太郎と師匠は店の奥にある座敷に座っていた。
黒い艶のある毛並み、枝分かれした琥珀色の角、瞳孔が縦に割れた金色の目、美しい牙、尖った耳。僕に目に映る師匠は黒い獣だった。
これも師匠の姿の一つで、彼が取りうる姿の中で小太郎は最も好きだった。
8畳ある座敷を大きな獣が占拠している。
「お前もそんななりをしていないでいいのに」
師匠が牙の並ぶ口から人の言葉を発してからかってくる。
「師匠がその姿をしているとあまりの違いに悲しくなるんですよ」
小太郎はため息をついた。残念ながら小太郎には美しい角も、師匠ほど鋭い牙もない。
「おまえは毛玉のようでかわいいよ」
「傷つきました。絶対に元の姿にはなりません」
師匠は牙を見せてケケケと笑った。邪悪な笑いだ。
ふさふさとした尾が小太郎の背中に回され、小太郎はその中に沈み込む。
麝香のような香りがした。
師匠は鋭い爪で石をそっと弾いた。
「この石から出るには順番があるんだ。この中から出るには一人連れてこなければいけない。だから石が呼ぶ。過去の自分に近い者が現れると、それを引き寄せる。そしてなり替わる」
美しい赤の石が、急に魔性の輝きを帯びたような気がする。
小太郎の脳裏に浮かんだのは七人岬だった。成仏するためには誰かを水の中に引きずりこまねばならない怪異。だからずっと七人が揃っている。
「可哀そうですね。響子さん」
「いいや。変われたんだからいいだよ。願いは叶った」
「でも、彼女は悪いことしてないじゃないですか。学校でうまくいってなかっただけで……」
僕はうつむいた。師匠は修行だというけれども、この店で売ったもので無辜の人が不幸になるのはやるせないというのも事実だ。
「人の物言いをそのまま信じるもんじゃない。小太郎」
美しい黒い獣がほんの少し厳しい声を出した。
三又に分かれた尾が、小太郎の頬をくすぐる。
「彼女は被害者じゃない。言われたままを信じるなよ。彼女は加害者でもないが、無害じゃないぜ。俺はこの石をずっと前から知っている。響子となり替わった者が響子に近い人格だとしたら、こいつもなかなか困った奴だ」
「どこまでが嘘で、どこまでが真か。それとも響子にとってはすべてが真なのか、どう思う?小太郎」
いつしか師匠は石よりも深い深紅の瞳の青年の姿となった。
師匠は小太郎の手を取ると、石の上にそっと誘導する。
湾曲した石の表面は人肌のように暖かかった。
辺りの景色が滲み、揺れて、いつしか小太郎は人間の子どもがたくさんいる空間にいた。
教室だ。知識としては知っていたし、これは現実でないことが分かっていたから、小太郎は落ち着いて近くの机へと腰掛けた。
「私たち友達だよね」
はしゃいだ調子の響子の声が聞こえる。
別の少女の手を握り、大きく振っている。
手を握られた少女が困惑した顔をしていることには気が付かない。
また場面が転換する。
ひどく明るい。どこかの店だ。
店中にキラキラした装飾品がずらりと陳列されている。店内には少女たちがひしめき、並んだ装飾品を試着したり、商品を見比べて友人たちと笑い合ったりしている。
響子の声が響いた。
「そんなのもえちゃんには合わないよ。あたし友達だからわかるよ」
響子の隣に並んだ、すらりとした蝶さんの少女は、棚から選んだ銀色の耳飾りを俯いて棚に戻した。
「ねっ!私の言う通りでしょ?こっちの方が似合うよ!」
曖昧に笑う、もえちゃんと呼ばれた少女の目が曇ったことに、やはり響子は気がつかない。
また辺りの景色が歪み、新たな場面が現れる。
部屋の中が橙色に染っている。
窓の向こうで夕陽が沈もうとしていた。
整然と机が並んでいる教室に、声が響いた。
人影は5人。
「なんでそんなこと言うの?」
それはヒステリックな響子の声だった。
響子は長い髪を振って、少女たちに食ってかかる。
「ひどい。最初から私のことなんて友達だって思ってなかったんでしょ!」
他の4人の少女たちは、冷めた目で響子を見ていた。
「友達?」
もえちゃんと呼ばれていた少女が、呆れた声を上げた。もう耐えかねたという、怒りもそこにこもっていた。
「友達だからって何やってもいいと思ってるわけ?」
それが始まりの合図だったように、他の面々もため息を漏らした。
「わたしたち、我慢してきたんだよ。響子、わがままなんだもん。だめだよ。友達だからって言っていいことと悪いことあるって」
「これ、最終通告だから」
響子がまた叫ぶ。
「あたしが何したって言うの!」
その目に滲んだ涙を通したように、景色が滲む。
淡いクリーム色の壁紙が貼られた部屋だ。
レースのカーテンが窓にはかかり、白い枠のついた姿見が窓の隣にある。
チェック模様のベッドカバーが掛かったままのベッドに響子がうつ伏せに寝転んで嗚咽していた。
「誰もわかってくれない」
「あたしばっかり損をする」
独りよがりの怨嗟が赤い色となって、ドロドロと流れ落ちていく。
小太郎はその姿を見ながら、そうだったのかと呟いた。
響子のやりとりは独りよがりなのだ。自分の欲求や思いを何も考えずに言葉に載せ、それをただ相手にはなっていく。
一方的な雪合戦のようなものだ。
互いに雪球をぶつけ合えば楽しいが、一方的に当て続けられれば体は冷え惨めなだけだ。そんなことを続けられたら当たり前のように人は去っていくだろう。多くは何も言わずに彼女の前から去る。
しかし、稀に助言をしてくれる者もいる。
だが、それを受け入れるには彼女の自己愛が許さない。助言を聞き届け、変わろうとすることを、歪んだプライドが阻むのだ。
その裏で劣等感が育つ。
うまく生きていけない。どうしてなのかわからない。
特別にならないと。特別になれば、きっとみんな自分を好きになってくれる。
原因がわかっていないのだから、それが解決することはなく、また焦燥だけが募り、彼女の元から人は離れる。
小太郎は石から指を離した。
石の中に詰まった記憶は響子のものであり、また響子によく似た少女たちのものでもあったのだろう。
石は似ているものを呼び寄せる。
そして、なり代わり、今度は上手くやる。それは巡り巡って、彼女たちの変わりたいと言う願いを叶えたことになる。
「要するに、この石に呼ばれやすい奴は自分が見えていないんだ。昨日店に来た時もそうだっただろう。紙屑を散らかして、片付けもせずに帰った。自分が可愛い割に、自分がやってることに対する意識が希薄なんだよ。そう言う奴が、この中で頭を冷やすことになる」
「次の交代まではどのくらいかかるんですか?」
「この前は20年かかった」
師匠はまた獣の姿をとり、ごろりと横になった。
座敷全体が黒い毛並みに埋め尽くされる。
「人間が自分の非に気がついて、それを認めて生き方を変えるにはそのくらいかかるってことだなあ。まあ、前のは20年で変わったんだから、めでたしさ」
小太郎は思わずため息をついた。
「人間は複雑ですね。自分でも自分のしていることが見えてないなんて」
「その未熟さが古物を引き寄せるのさ。達観してしまっては、古物に惑わされてもくれない」
小太郎は指輪をケースに戻した。
次にこの蓋が開けられる時、ぼくは客にこの箱を上手く売ることができるのだろうか。
そう思いながら、小太郎は小箱の蓋を閉じた。
紅玉の指輪 完
四辻骨董店の商い いぬきつねこ @tunekoinuki
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