紅玉の指輪 3
彼女は4500円で指輪を買い、5000円払って釣りを受け取ると店を出ていった。
床に散らばった紙屑を小太郎は箒で履き片づける。
その日の客は彼女だけだった。
4500円は師匠の晩酌代になった。
鮎を塩焼きにしたものと、山椒魚の黒焼きと、度数の強い濁った酒である。
黒焼きを分けてもらって頬張りながら、小太郎は訊いた。
「石の中にいたもののこと、教えてくださいよ」
あの赤い石の中には、確かに何かがいた。
それが持ち主の願いを叶えるのだろうか。そういう都合がいいものの存在を小太郎は知らなかったから、後学のために知っておきたかったのだ。
僕は酒杯を傾ける師匠に何度もお願いしたが、「内緒」とはぐらかされた。
今、小太郎の目に見える師匠は黒い髪の20歳くらいの青年で、あの石と同じ赤い目をしていた。
「小太郎。客と言えど、礼節は大事だということだよ」
切子細工の盃に注いだ酒を師匠は飲み干した。
響子がまた店を訪れたのは、それから5日後だった。
3日降り続いた雨がようやく止んで、木々の緑も埃をすっかり洗い流されたようなすがすがしい午後だった。小太郎は木でできた面を磨いていた。古い祭りで使われていた神さまの面で、いまでも取り出してきれいにしてやらないと小さな障りを起こす。今朝店の戸を開けようとした時に躓いて転んだ上に、頭に烏が糞を落としていったのでそういえば最近構ってやってないなと思い出したのだった。おかげで朝からずっと磨いてやる羽目になった。
その面が、怯えるようにカタカタ鳴った。
「こんにちは」
店の外から聞こえたのは朗らかな声だった。
僕に会釈した彼女は、「先日はありがとうございました」と礼を述べた。
前髪が少し短くなっている。眉の少し上で切られた前髪は、彼女の丸顔によく似合っていた。小太郎はその時、響子が意外にも快活そうな顔立ちであることに気が付いた。まっすぐに背筋を伸ばす立ち姿は何だかまぶしい。
だからだろうか。ほんの数秒、小太郎は店の前の道に立っているのが誰だったか思い出せなかったのだ。
彼女は店には入らず、土間と外を分ける扉の前に立ったままだった。
「今、師匠を呼びます」
小太郎が師匠を呼ぼうと立ち上がりかけると、響子はそれを制した。
「いいんです。ありがとうございますってお伝えください」
「あ、いえ。こちらこそ」
「この間は、ティッシュをお借りしたのに、片付けもしなくてごめんなさい」
響子はまた頭を下げた。
僕は内心驚いていた。師匠が、彼女は数日のうちにまた来ると言っていたからだ。
「意外と簡単なことだったんです」
彼女はその場を動かずに言った。
「変わるって、そんなに難しいことじゃなかったんですよ」
「え?」
何のことだろうか。
「あたし、距離の取り方が下手だったんです。仲良くなるって、何でも言っていいって思っていたんです」
「あの?何のことですか?」
「店主さんならわかると思うから伝えてください。私、店主さんに考える時間をずいぶんたくさんもらったんです。気が付いてよかった。友達ともうまくやれるようになってきました。あの子たちと仲直りできたんです。最初は何でこんなことになっちゃったんだろうって恨んだんですけど、でも、あたしにはこのくらいの時間は必要だったんですね。店主さんにありがとうとお伝えください」
彼女は鞄の中から紙袋を取り出した。
「この間はお世話になりました。お返しします」
響子は腕を伸ばして小太郎に袋を手渡す。なぜか彼女はこちらに入ろうとはしなかった。
思わず受け取ってしまって気が付く。
袋の中に箱ティッシュと
小箱の中には、あの赤い石の指輪が入っている。
「待ってください!やっぱり師匠を呼んできます。中でお待ちいただいて……」
「私はお客さんじゃないので店には入れません」
彼女はきっぱりと言った。
「役目が済んだら指輪はお返しする決まりなんです。ありがとうございました」
有無を言わさない威圧感を、その目から感じて小太郎は一瞬だけ竦んだ。
勘定台の上の木の面が、ガタリと音を立てて怯えた。
袋から漂い始めた気配で、小太郎はそのことにやっと思い当たった。
小太郎はもともと目があまりよくない。獣の例にもれず、近視である。
だから、人を識別する時には匂いを手掛かりにしていて、人の姿を取るようになっても、その癖は抜けなかった。
記憶力には自信がある小太郎が、彼女の姿に最初気が付かなかったのもそのせいだ。匂いが違った。
あの子は響子じゃない。
そして、小太郎の手の中にある小箱からは、間違いなく響子の匂いがした。
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