喪女の婦警に魔王はいう「永久凍土でも追っていこう。契約に従って」

玉椿 沢

第1話「数年がかりの小さな事件」

「ごめんください」


 すぐに相手から返事がある訳ではないのに、チャイムを鳴らしながら挨拶してしまうのが、その婦警の癖だった。


 147センチと女性としても小柄で、ショートボブの黒髪という婦警の名は、甘粕あまかす亜紀あきという。防犯課少年班の警官である。


 そして亜紀の隣にいるのは、対称的な男。


「聞こえてないぜ?」


 襟元を気にしながら意地の悪そうな笑みを浮かべている男は、ベクターフィールドと名乗っている。真偽の程は分からないとしても、日加にっかハーフ――カナダ人の父親と日本人の母親から生まれた――というベクターフィールドは189センチと背が高く、肩幅が広いのだからスーツが似合う。それでも、亜紀の相棒に化ける時しか着ないのでは、ネクタイを締めると窮屈に感じるくらい慣れないらしい。


 化けるというのだから、ベクターフィールドは警官ではない。


「癖なの」


 亜紀が溜息交じりに答え、程なくしてインターフォンから「はい」と中年女性の声が聞こえてくると、もう一度、繰り返す事になるのだが。


「ごめんください。甘粕あまかすです」


 名乗れば、玄関から女が顔を見せる。


 女に対して亜紀は一礼した後、両手に抱えていた花束を持ち上げて見せた。白、黄、紫、ピンク、赤の5色を選んだ花束は二つ。


「どうぞ」


 邸内へ招き入れる女に対し、亜紀は「失礼します」と一礼した。


 ベクターフィールドと共に通されるのは



 亜紀が花を手向けるのは、そこにある仏壇だった。



 ロウソクに火を灯し、線香を立てた後、チンと一度、お鈴を鳴らす。


 手を合わせて報告する相手は、仏間に掲げられている遺影の中で、唯一、セーラー服を着ている少女だ。


「改めまして――」


 居住まいを正して女と向き直った亜紀は、深々と頭を下げた。



「起訴まで持って行けたそうです」



 それは自分が初めて担当した事件の結末だった。



***



 亜紀が奉職したのは高校を卒業した直後の18歳の時。2年に及ぶ警察学校での研修の後、配属されたのは県都の所轄しょかつ警察署。


 県警本部などという事はないが、刑事ドラマに憧れていた亜紀にとっては所轄に配属される事は望むところだった。


 ただし警察学校を出たばかりの新米の配属先が刑事部などという事は有り得ず、今と同じく防犯課少年班。


 そして最初に担当した事件が、この親子が持ってきた相談だった。


「ネットのなりすまし……ですか……」


 高校生の娘と、その母親が手渡してきたプリント用紙を見ながら、亜紀は首を傾げさせられていた。



 SNSの画面を印刷してきたもので、そこには炎上しているアカウントがあった。



 内容は主にバイト先での事。


 ――ハゲがアイスなんて買いに来るんじゃねーよ。クサいんだよ、オヤジ臭が。


 その書き込みと共に、黒ずんだコーンに載せたアイスクリームの画像が張られている。スレッドを進めてみると、コーンの黒ずみは床に擦りつけたからだと書いていた。


「酷い内容ですね……」


 亜紀も眉をひそめさせられた。


 一言だけを見ての事ではない。



 第三者の一言から始まった罵詈雑言の応酬だ。



 ――流石にやり過ぎだろ。


 第三者が書き込んだのは善意と正義感からだったのかも知れないが、善意や正義感は往々にしてする。その暴走は燃え上がった感情に端を発するのだから、油を注ぐのも簡単だ。


 感情をヒートアップさせてやれば、簡単に炎上を招いてしまう。


 そのヒートアップを最高潮に達させるのは、一言。



 ――お前それ面と向かっていえんの?



 その一言を発したのは相談者の成り済ましであるから、亜紀はゾッとした。


 ――だったら来いよ。一高いちこうの2年だよ!


 成り済ましは名乗ったのだ。


 そこからは、もう見ている事すら辛くなる惨状が広る。


 すぐさま高校が特定される。


 2年である事、そしてバイト先が判明しているのだから、絞り込みは簡単だ。


 生徒を絞り込み、特定が開始される。


「酷い……」


 亜紀は吐き捨てるようにいった。


 そして意を決したように顔を上げると、相談に来ていた女子高校生の手を握り、


「自分は、全力を尽くします。きっと、絶対、この成り済ましを見つける」


「本当ですか!?」


 被害者の高校生が声を弾ませたのは、亜紀以外に、こういってくれる者がいなかったからだ。


「でも、時間はかかります。一週間や二週間じゃない……もっと一ヶ月とか二ヶ月とか、かかると思う。でも、自分は全力を尽くします。だから――」


 亜紀は女子高校生の手を握る力を強めた。


「負けないで!」


 精一杯の激励だったのだが――、


だ」


 相談を持ちかけた係長は、亜紀に対して眉間に皺を寄せた。


「でも、現実に被害が――」


 親子から聞き取りをした事柄を纏めた報告書を示す亜紀であるが、係長の手は書類を受け取るのではなく、苛立たしそうに髪をなでつけた。


「今、起きている被害は何だ? 危害を加えるという予告か? 住所や氏名、電話番号のような容易に個人を特定できる情報が書き込まれたか?」


 その問いへの答えは、亜紀自身、自ら作った報告書を見るまでもなくわかる。


 ――ない。


 聞き取りでも、また自分でSNSでの遣り取りをチェックしたが、この問いに対する回答は数文字。



 該当せず。



「でも、個人を特定するには十分なものが書き込まれています。学校も、学年も、アルバイト先も――」


「いいか? 容易に、だ。それらは全て、容易に個人を特定できるものじゃない」


 係長の声には明確な苛立ち。


「……」


 その苛立ちに対し、亜紀は沈黙して答えた。


 ――明確に傷ついている人がいるのに……。


 それが理由。頭に来ようと腹を立てようと、十分、事件に発展する可能性があるのだ。


「警察は簡単に暴力装置になる。警察が個人の判断で事件になるかも知れないから、として、容疑者の個人情報を抜く訳にはいかん」


 職権乱用になりかねないと釘を刺されるのだが、それで納得できる亜紀ならば、相談に来た親子へ「絶対」という言葉は使わない。


「……」


 係長は手を下ろし、何かを振り払うように溜息を吐くと、


「そのSNSの管理者に連絡を取って、コメントを削除してもらえ。相談でも、それくらいはできる」


 逆にいうならば、それくらいしかできないという事だ。

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