第5話「鷲獅子の主」

「車で来たんですか?」


 石狩市に入って合流した北海道警の刑事は、亜紀あきはとベクターフィールドが乗ってきた白いクーペを見てギョッとした顔をした。本州から北海道まで車で来たとは思わないが、そもそも私用車の使用は、基本的に禁止されている。公務には公用車を使用する事が適法だからだ。


 ただベクターフィールドはヘラヘラと笑いつつ、


「こっちで足が必要だから、運んできてもらいました。使い慣れた車が一番、いいですから」


 そんな事がいい訳になるはずもないのだが、そこは魔王と呼ばれる存在だ。


「そうですか」


 北海道警の二人から追及はない。


「どうですか? 北海道の道は。どこまでも真っ直ぐで、ドライブに最適でしょう?」


 刑事の言葉は社交辞令というものだろうが、ベクターフィールドは思わず苦笑いしさせられていた。


 その苦笑いが意味しているものは、ずっと助手席で一緒だった亜紀がよく知っている。


 ――不満があるんでしょうね。


 北海道警の警官は最高道路だというが、ベクターフィールドは欠伸を噛み殺しながら運転していた。


「いえ、ドライブを楽しみに来たのではなりませんから」


 答えたのは亜紀。


 そういわれれば刑事も「そうですね」としかいえなかった。


 亜紀が上手く仲裁してくれても、ベクターフィールドから消えたのは不満そう表情だけ。


 ――道は微妙にブレているし、似たような風景ばかりだし、ドライブが楽しい訳ねェだろ。


 内心で舌を出している事が、ベクターフィールドの顔から愛想笑いを消していたのだが、それも仕事のスイッチが入れば気にならなくなる。


甘粕あまかす、頼む」


 ベクターフィールドにうながされた亜紀は、ショルダーバッグから書類を取り出す。


「逮捕状が出ているのは、明津あくつ一郎いちろう。1976年生まれで、道内の警備会社で契約社員です」


 その書類に道警の刑事はさっと目を通すと、


「案内できます」


 事前に亜紀が来るという連絡は受けていた。


「お願いします」


 ベクターフィールドの愛車に乗り込みながら、亜紀は北海道警の警官に一礼した。



***



 ニシン漁で財を成した、通称・ニシン御殿が建ち並ぶ一角に明津一郎の実家はあった。道西は古くからニシン漁が盛んな地域であり、明治時代には年間100万トンが水揚げされたという記録がある。


 北海道警から提供された資料に目を通しながら、亜紀は「ふーん」と間延びした声を出していた。


「ニシンの加工場を持っていたそうですね」


 資料の中にベクターフィールドが嫌いといっていた魚を見つけたからだ。


「けど、そのニシンも漁獲量は年々、下がって、今じゃ3000トンも揚がってないんじゃなかったか? そんなだから、この明津って奴も、実家のニシンの加工場を継いでないんだろう」


 ハンドルを握っているベクターフィールドは欠伸混じりだった。アクセルに足を乗せているだけでの、ドライブといえない状況は、北海道の道はつまらないといっていた通り。


 亜紀は欠伸を噛み殺さなければ


「ああ、確かに。警備員の契約社員ですね」


「オッサン警備員が女子高校生と、何の繋がりがあったっていうんだろうな」


 そこまでは調べていないベクターフィールドは、ハッと鼻を鳴らした。


 接点がまるでない。


 ベクターフィールドの力で捜査はトントン拍子に進んでいるが、この事件の動機や、動機に至るまでの事情は皆無だ。


「それも自白させられますか?」


 それらもまとめなければならない、と亜紀が訊ねれば、この返事は決まっている。


「そりゃ勿論」


 ベクターフィールドは退屈そうな表情に、若干の笑みを見せた。


「明津に自供させるんだ。全て吐かせてやるぜ」


 ベクターフィールドが持っている能力は、人の思考すら思うままにする。明津に黙秘権はない。


「……」


 亜紀も方法は聞かなかった。説明されても分からないし、合法非合法という分け方のできない手段に違いないとだけ分かっていれば十分だから。


 そうしている内に前を走っている北海道警のパトカーがスピードをゆるめた。


「着くみたいだな」


 ベクターフィールドもアクセルに乗せているだけだった足を、漸く少しだけ動かせた。


 見えてくるのは、ニシン御殿という言葉から受ける印象からは外れてしまっている古民家で、併設されている工場も「年季が入っている」と括弧書きできるくらいの佇まいだった。


 玄関先に車を停める。


 呼び鈴を押すと、ややあって母親らしい老婆の声がカメラ付きインターフォンから聞こえた。


「道警です」


 カメラ付きのインターフォンに警察手帳を広げて示した北海道警の二人は、いつも通りに事を進めていく。


「玄関先までお願いできますか?」


 静かな声であるが、いい知れぬ強さがある。仕事に大切なのは、スポーツマンシップにも通じる態度だ。話は常に聞く体勢を取る。しかし交渉には耳を傾けず、決して自分は暴力を振るわないと態度、姿勢、顔つきと、自分の全てで示す。


 一言でいうならば毅然な態度という事になり、それを見てベクターフィールドは笑ってしまう。


 警察の姿を笑うのではない。


 この明津家へ来る羽目になった、明津一朗を思い出して笑った。


 ――そういや、こいつ、やたらとSNSやブログでは、毅然って言葉を使いたがってたな。


 明津が毅然とした態度をとった事がないのは想像に易いが、まさか眼前で毅然とした態度を取られる事態になるとは、明津本人は想像だにしていなかっただろう。


 玄関を開けて姿を見せた女が恐る恐るという様子だったのは当然なのだが、ベクターフィールドが北海道警の警官二人を押しのけたのは当然ではない。


「調査令状です。明津あくつ一郎いちろうさんは在宅ですね? ネット上での一連の行動は、信用毀損罪、侮辱罪などなど、様々な犯罪の可能性があります」


 ベクターフィールドの言葉こそ、本当の意味で有無をいわさない。


「は、はい?」


 混乱した表情になる明津の母親であるが、そんな表情は一瞬だ。不信感の塊となった被害者遺族に信用させ、本来、降りるはずのない命令を亜紀に降ろさせるベクターフィールドの言葉なのだから。


「はい、それならば……」


 邸内に招き入れるように身を引く母親に対し、ベクターフィールドは大股に玄関を潜った。


 その騒動は自室にいる明津一郎の耳にも届いていたのだろう。


「いや、こっちじゃないな」


 ベクターフィールドが邸内に入ったのは一歩だけだった。


 きびすを返すと、既に亜紀が外へ走っていた。


 バタバタと邸内でも足音が起きたのは、明津一郎が裏口から逃走を図ったからだ。


 ――自覚があった!


 裏口へ回ろうとしながら、亜紀は最後に見たSNSの書き込みを思い出していた。


 ――あの一言、犯行声明だったって自覚してるんでしょ!


 逃がすものかと身をおどらせる亜紀であったが、勝手口から続く裏庭からは甲高いエンジン音が襲いかかってきた。


「!」


 思わず亜紀に息を呑ませて立ち尽くさせるのは、加速していく原付バイク。


 激突しようと知った事かとばかりに原付を加速させる明津は、門扉もんぴから文字通り飛び出した。


「甘粕、乗れ!」


 愛車の運転席に乗り込むベクターフィールドが怒鳴る。


「ごめんなさい!」


 亜紀が助手席に飛び込むまでの数秒でも、明津の原付は加速を続けている。


だな、ありゃ」


 エンジンを始動させながら、ベクターフィールドが毒突いていた。原付が出せるのは精々、時速40キロというところだが、勢いよく飛び出していった明津の原付は、時速40キロを超えて加速していった。


「リミッタ解除、10馬力って所か」


 エンジンに火が入ったところで、ベクターフィールドはアクセルを踏み込んだ。空転させて白煙を上げさせるようなミスはしない。


 280馬力を絞り出す愛車は、すぐさま追跡体勢に入る。


「直線で単車が勝てると思うなよ」


 気持ちの悪い道である事に変わりはないが、ベクターフィールドも順調に加速させていく。


 原付に追い付く事は難しくはない。


 しかし亜紀は、頬を引きつらせていた。


「追い付いて、止めさせられますか?」



 追い付いた後、止める術をベクターフィールドが持っているのか――その心配だ。



「追い付いて、引っ張り上げてやるさ」


 窓から手を伸ばして掴み上げてやる、とベクターフィールドは鼻を鳴らした。危険きわまりないが、魔王ベクターフィールドは、それが可能な怪力を備えている。


「あまり、手荒なまねは――」


 避けて下さいという亜紀だったが、そう言っているうちに追い付いた。


「さぁ!」


 併走させるためハンドルを切ろうとするベクターフィールド。


 しかし次の瞬間、とんでもない光景が二人の目に飛び込んできた。


 バイクを横に倒してしまうくらい傾け、アクセルを捻って回転数を上げた明津一郎は、アクセルターンを見せたのだ。


 ――く!


 咄嗟とっさに亜紀はそう思った。ベクターフィールドにできる事は、急ブレーキと急ハンドルで避けるしかない。しかし直線だからとスピードを上げているのだから、安全とは無縁だ。


 亜紀には、どうハンドルを切ろうともスピンしてしまう未来しか見えていなかった。


「チィッ!」


 そんなベクターフィールドの舌打ちを亜紀が聞かされたのは、強引に肩を掴まれて引き倒されながらだった。


「!?」


 突然の事に目を白黒させられる亜紀は、ベクターフィールドに膝枕されているような体勢になっていたのだが、膝枕というには余りにも激しくベクターフィールドの膝が頭に当たる。


 亜紀を引き倒すが早いか、ベクターフィールドはギアを落として急ブレーキを踏み、一拍いっぱくを置いてハンドルを切った。


 当然、急ブレーキと急ハンドルが起こした加重移動は愛車を前方へ傾ける。それは引き倒されて前が見えていない亜紀には、明後日の方向へ吹き飛ぶしかない事を予感させられた。


 だがベクターフィールドは自殺などは考えていない。


 傾きが深くなった瞬間、アクセルを踏み込む。


 それは再び後方へ、しかも急激に加重移動させ――、


「何ィッ!?」


 避けようと急ブレーキを踏み、スピンしてしまうはずだと思っていた明津一郎も、思わず大声で叫んでしまった。



 ベクターフィールドの愛車は、左のタイヤを跳ね上げ、になったからだ。



 ――ジャンプ台なんてないのに!?


 亜紀も不意に襲いかかってきた浮遊感にギョッとさせられた。亜紀の身体を引き倒したのは、人が助手席に乗っていたのではできなかったからだ。


「驚くな」


 冷静なベクターフィールドは、魔法を使った訳でも何でもない。荷重移動と車体の傾きを利用してサスペンションをきしませ、もう一度の荷重移動で跳ね上げたのだった。ただし理屈はそうでも、エンジンの死点を見極めての荷重移動は、何万分の一秒というタイミング。それを全て揃える事は、奇蹟に等しい神業である。


 明津一郎のバイクを避けたソアラは車体を戻し、続いてスピンターンした。


 180度旋回した先に見たのは、逃走車輌というよりも事故車――片輪走行したクーペに恐怖し、転倒した明津一郎の原付だったが。


「これは公務執行妨害だな」


 ベクターフィールドに言葉を向けられた亜紀は、まだ自分が膝枕されている形になっている事に慌てさせられた。

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