第3話「缶ジュース一本分の義理」

 きっと一週間は長すぎたのだ、と亜紀あきは思い知らされた。


 相談者の少女が自宅マンションの屋上から身を投げたという連絡を受けた時、目の前が真っ暗になった。


 13階から飛び降りた少女は即死。遺書もあり、自殺である事は明白。


 遺書はネットの成り済ましから始まった事件をつづり、最後にこう結ばれていた。



 ――どうしてあれを信じるの?



 亜紀が書き込みの削除を申請するために駆けずり回った一週間は、事態を急変させるには十分だった。十分過ぎた。


 容易に個人を特定できないといわれた断片的な情報は、困難であっても個人を特定できる情報であり、その困難さはSNSに集まったがカバーしてしまう。


 学校名と学年、バイト先から名前が特定され、次に部活、出身中学、友好関係が明らかにされた。


 ネット上には、卒業アルバム、友人のSNSから保存された写真がバラ撒かれ、次に髪と瞳の色を変えた写真がチャットサイトに掲載され、顔だけを挿げ替えた動画がアダルトサイトに載った。


 こうなれば亜紀だけでは手が回らない。


 亜紀がチェックしたSNSの書き込みもヒートアップしていった。


 相談者の少女がヒートアップさせたともいえる。


 ――変なサイトにスクショが悪用されちゃった! 誰か助けて。


 少女の書き込みに対してついたコメントは、まず一件。


 ――大丈夫ですか? 変なサイトって?


 このコメントをしてくれた人を、少女は覚えていなかった。1000人を超える相互フォローを、全員、覚える事など困難だと言い訳するだろうが、覚えていなかった。


 結果、事態は訪れる。


 ――悪用ってエロサイトだろ。そういうリスク知っててさらしたかまってちゃんかな?


 ――ざまァ。


 ――自業自得でしょ、


 ――晒したお前が悪い。


 ――安易に晒しちゃ危ないってルールにも書いてあるだろ。それとも日本語が不自由な方? 在日ですか?


 ――天誅~。


 少女の心を折るのに、一週間は十分な時間だった。


「もう事件ですよ、これ!」


 係長に亜紀はねじ込んだ。


 有り得ない誹謗中傷で、高校生の女子が一人、自らの命を絶ったのだ。


「事件じゃないなら、何なんですか!?」


 上司に対し、無礼は承知の上だ。


 だが――、


は、出してもらえるのか?」


 壁があった。


 出すならば、自殺した少女に代わり両親が出すという事になるが、一週間、ろくに成果の上がらなかった亜紀を、両親は信じるか?


 ――動いたけど……。


 亜紀は言葉を失う。動いたけれど動けていなかった、が正しい。だが娘を失った両親に「なら仕方ないですね」といわせられる状況では、断じてない。



***



 その夜、亜紀は時間を持て余してしまう事になるのだから、自殺した少女の両親とはアポイントすら取れない状況だった。


 ――もう結構です!


 電話を切られた一言が、いつまでも亜紀の耳の中で繰り返されていた。


 一週間。


 その時間は亜紀が足掻あがくには短すぎ、しかし少女の心を折るには十分すぎた。



 そして娘を失った両親にとって、短すぎるはずもなかった。



 ――野球選手なら、3割打てれば良い。でも警察や医者は、10割打者でなきゃいけない……。


 俯き加減に歩く亜紀は、そんな考えが頭の中を旋回しているのだから、今後の動き方を考える余裕などなかった。


 そんな中で動けた理由は、本能でしなかったのかも知れない。


「!」


 うつむき加減の亜紀の視界にも入ってきた蹌踉よろめく足取りの男。


「大丈夫ですか?」


 亜紀は一も二もなく飛びついた。


 胸を押さえている男は出血していたが、それを確認するよりも早く肩を貸す。服が汚れるのなど気にしている場合ではない。


「え……いや……」


 困惑した顔をする男こそ、女死神から命辛々、這々ほうほうていで逃げてきたベクターフィールドだ。


「救急車を――!」


 片手でベクターフィールドの手を支え、もう片方の手でジャケットの内ポケットを探る亜紀だったが、携帯電話に手が届いたと同時に、ベクターフィールドが出て来た裏路地に女がたたずんでいる事に気付いた。


 その手に赤く染まった剣を持っているのだから、尋常な事態ではない。


「あなた、その手のは!」


 声を荒らげるくらいの事しかできなかった亜紀だったが、の追撃を制するには十分だった。死神とて怪力乱神かいりょくらんしんに属する。生者を敵に回して闘う事はできない。ましてや亜紀は、この場で死ぬ運命にはないのだから。


「ッ」


 舌打ちが聞こえた気がした次の瞬間には、女死神の姿は亜紀の眼前から消えていた。死神の持つ隠れみのだ。


「……」


 姿を隠してとどめの一撃を入れてくるのではないかと思っていたベクターフィールドは身体を硬くしたのだが、それは心配する程の事ではなかった。


 生者を巻き込む攻撃を、死神はしない。


「何……?」


 状況が理解できないと目を瞬かせる亜紀だったが、肩に感じる重さが現実を教えてくれる。


「あ! 大丈夫ですか?」


 ベクターフィールドの顔を覗き込む亜紀。


「いや、俺は大丈夫。肩、ありがとう。放してくれていい」


 身体を離すベクターフィールドは、押さえていた胸から手を放した。死神の剣で傷つけられた場が修復されるに十分な時間が経っていた。


「でも、怪我を――」


「そうね。ジュースでもあれば嬉しいくらいかな」


 ベクターフィールドが冗談めかしたのは無事だとアピールだった。


 だが亜紀は「はい」と返事をすると、丁度、そばにあった自販機から缶ジュースを買い、また「大丈夫ですか?」と問いかけて手渡してくる。


「……ありがとう……」


 グッとあおるベクターフィールドは、顔は上へ向けつつも、目だけは下へ向けていた。


「けど、大変な事になりますよ、あなた」


 言葉を向けられた亜紀は、何の事か分かっていなかったはずだ。


 路地裏から逃れてきた者を保護するなど経験した事がなかったし、ましてやその男がなどという存在であろうなど、想像もしていない。



「悪魔に貸しを作るなんて……ね」



 ベクターフィールドが口にした言葉は、どこをどう聞いても出来の悪い冗談だ。


 だが亜紀は――どうでもよかった。


 亜紀は後に思い出しても、ベクターフィールドが魔王であった事など、どうでもよかったという。


 亜紀にとって必要だったのは、自分に力をくれる存在だった。


 契約を司る悪魔であるベクターフィールドにとって、貸し借りは絶対だ。缶ジュース一本の事であっても。



 ――私の捜査に、力を貸してください。



 亜紀が望む事は、それしかない。

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