エトのみた星

micco

エトのみた星

 警報――避難指示――警報――

 けたたましい電子音サイレンと同時に、天窓が金属板に覆われた。三分後にはシェルターが自動施錠、部屋は橙の非常灯色に沈んだ。霧だ。

 数日前の音声配信ラジオで「冬が来ます」と言ったのは本当だったらしい。

 面倒な。僕はため息を吐き、再びカンヴァスを眺めた。薄暗がりに浮かぶ線や濃淡。


(もっと目元を印象的に……)


 模写絵を描くのが僕の仕事だ。

 小さな一番安いカンヴァスには、これまた一番安い素描デッサンで半裸の女が描かれている。元の写真は擦り切れて顔が分かりづらくなっているし半裸は依頼主の希望だから、これはもはや想像画。それでもただ捨てるのは惜しかったのだろう、僕の絵も安くはないが写真は貴重品だ。文明を失った人間に残された、昔の豊かさの象徴、証だ。

 ――百年前。突然、微量の毒を含む霧が立つようになった。

 普通の霧と同じ条件で発生する毒霧に気づいたときには、人口が半分になっていたという。もう詳しい奴はいないし、更に人口も減った。僕たちは昔作られたシェルターにしがみついて暮らし、生まれたところで死ぬ。霧からは逃げられない。

 僕は絵を仕事にし始めてから集合住宅ビルを出て、この狭い地下シェルターで暮らしている。ひとりの気ままな生活だ。

 素描は朝までには描き上げた。みな冬の間の慰めがほしいのだろう、この季節は裸婦ばかりだから手慣れたもんだ。




「おぉい、ロウ! なんだ寝てるのか?」


 重い扉の開く音と、男の野太い声で目を覚ました。朝の解錠音の記憶がない。

 開け放った扉から乾燥した風が吹き込んで、僕の顔を撫でた。フィルター越しでない、生の空気。僕は知らず深呼吸した。自分の体が臭い。

 仲介屋ダグだ。僕の無精な性格では依頼が来ないと、集合住宅ビルや塔を回って依頼を持ってくる生来の世話焼き。いや、天性の商売人か。実際、食い扶持が稼げるので助かっているが、いつも勝手に入ってくる。止めてくれ。

 彼は僕の文句は聞こえないようで「急に冬が来ちまったな」とか「ひょーいい女じゃねぇか。齧りつきたいぜ」とか言っている。僕は渋々起き上がった。


「冬の備蓄を持ってきたぞ」

「それは助かる」

「まぁ仲介料多めにもらってるからな!」


 そうだったのか。ごつい背中に眉根を寄せたものの彼頼みの生活だ、文句はない。彼と一緒に開いたままの扉から外に出た。

 一面の青――。

 起き抜けの目では色覚がおかしくなりそうだった。抜けるような青い空と同じ色のビルや塔、乾いた大地――霧でだめになった地面。発生が分かりづらいからと、建物の外壁は鏡面になり窓がすべて取り払われた景色。

 ダグの荷台には山ほどの食糧とたくさんのカンヴァス、なぜか薄汚れた子どもも乗っていた。ぼんやりとした眼差しは僕を見ている。子どもは苦手だ。僕は目を逸らし、荷下ろしするダグに声をかけた。


「これが元の写真だ」

「あぁ要らねぇってよ」


 よくあることだった。いつか擦り切れる文明の遺産よりも新しい半裸女の絵に価値をみる奴も多い。そうか、と僕はその写真を上着のポケットに丁寧に仕舞った。

 全ての荷物をシェルターに運びこむと、中はベッドと絵を描くスペースだけになった。狭いが仕方ない。

 ダグは仕事の詳細を話すと、「じゃあ二月ふたつき後な」と運転席から手を振り遠ざかっていった。空っぽの荷台におや、と思ったものの、その違和感の正体に気づいたのは夕方になってからだった。




 警報――避難指示――

 風が冷たくなった、と思った頃合い。またしても半裸の女を描いていた僕は扉を閉めにいった。まだ青空を見せる東の空に、まるで入道雲のように立ち昇る霧が見えた。あれが全部毒だなんてぞっとしない。固く扉を閉じ灯が消える前に飯を探そうと物で溢れた室内を眺め、僕はぎくりと固まった。

 ベッドに子どもがいた。

 ――警報――警報。

 子どもは僕の掛布をかぶって壁の隅で震えていた。のぞく両目は怯えに見開かれている。「おい」混乱のまま声を掛けたとき、シェルターが施錠し照明が落ちた。ヒッとそいつが悲鳴を上げた直後、じわりと非常灯が点く。


「お前、なんでここにいる」


 なぜ気づかなかったのか。それはベッドに近づくとすぐに分かった。ベッドとカンヴァスの間にはダグが置いていった食糧のコンテナが積まれて、死角ができていた。今までうまく隠れていたらしい。

 そいつは見るからに震え、僕が寄るほど壁に後退あとずさった。橙の灯の下、顔をのぞき込むと僕の影が黒く覆いかぶさって、そいつは殊更頬を水浸しにした。僕の掛布が色を変えている。子どもはこれだから苦手だ意思疎通ができない。


「とって食いやしない。ダグの子か?」


 ダグに子がいるかなんて知らなかったが、他に宛はない。子どもはかすかに首を振るものの名乗りもしない。

 面倒な。僕は固く閉じた天窓を仰ぎ、ため息を吐いた。

 朝の霧が消えてから一番近くのビルに預けるしかないだろう。泣き顔を見下ろした。

「明日の朝、送って行ってやる」丸い目がますます丸くなった。コンテナから手探りでパンを取り出し、半分にして「食え」とベッドに放った。

「シーツと掛布はそれしかないから、ベッドで小便だけはするな。便所はそこだ」

 僕はそれだけ言って、カンヴァスの前に戻った。出来たてなのかパンはまだ柔らかかったが、食べた気がしない。このシェルターに人を泊めるのは初めてで、気詰まりだ。

 小さい咀嚼音が聞こえてきた。




 これほど朝を心待ちにした夜はなかったと、僕は解錠と共に扉を開けた。

 目を灼くような青。砂埃の風がシェルター内の空気をかき混ぜる。食べ物や画材、えた人の匂いが立ち昇った。今日はシャワーを浴びねばと鼻にしわを寄せ、僕のベッドを占領している子どもに「起きろ」と声を張った。


「来い」


 だがそいつは部屋から出ようとせず、手こずった。抱え上げて外へ出し、手首を掴んで歩かせるときには太陽は天辺てっぺんに差しかかっていた。僕たちは無言で歩いた。子どもの歩幅は狭く、歩調を緩めなければならないのにも酷く苛立った。抱え上げるか? いや重い荷物は勘弁だ。何度か悪態を吐き、もうその辺に打ち捨てて帰りたいと思う頃、ようやくビルに着いた。

 ダグはどの建物でも商売しているはずで、次に彼が来るまで置いてもらえるよう頼むつもりだった。子どもは疲れたのか、すぐ地面にへたりこんだ。

「何の用だ」赤い扉の中から厳めしい顔の男が出てきた。僕を一度睨めつけて、合点がいったらしい。


「なんだ、絵描きじゃねぇか。絵でも売りに来たのか?」


 面識のある奴で良かった。僕は「いいや」と首を振った。ダグ以外の人間とは久しぶりで少しく緊張しながら。


「この子を預かってくれ。ダグが忘れていったんだ」

「子ども?」


 男は僕の視線をたどり、「あぁこいつ」と肯いた。


「うちにも昨日売りに来たぜ。まぁここには買えるやつなんざいねぇがな」

「売り?」

「どっかの塔の捨て子だってよ」


 僕は捨て子、と顔をしかめた。次に近い塔まで行けば夕方だ、霧が出れば帰るのは明日になるし誰かがこの子どもを引き取る保証もない。男も興味がないようで「今日は絵はないのかよ」と、話題を変えた。


「今度な」

「そうかい、奮い立つようなの頼むぜ」


 短く会話する間も、頭ではこの子どもをどこに捨てようかと目まぐるしく考えていた。赤い扉が閉まり、僕はまたしても子どもと二人っきりになる。


(置いていくか? だが霧が出ればこいつは)


 僕は唸りながらその辺を歩き回った末、連れて帰ることにした。苦渋の選択だ。子どもだろうが何だろうが人を殺す趣味はないし、その辺に死体が転がっても寝覚めが悪い。だがため息が止まらない。

 帰りは歩みが遅すぎる子どもを負ぶった。夕方の霧が出ては僕も危険だからであって、決して優しさではない。

「お前、名前は」

「……エト」

 エトは一番大きなカンヴァスより軽かった。そして帰って僕が最初にしたことは、エトをシャワーにぶち込むことだった。負ぶってる最中、臭すぎて鼻が曲がりかけたからだ。




 エトとの生活は意外にも静かに過ぎた。

 僕がカンヴァスの前にいるとき、エトはベッドに。僕がベッドを使うときは――そんな風にうまく距離をとって暮らした。何か尋ねてもエトは言葉がうまく出ない。だが身振り手振りでどうにかなった。歳は八つ。

 僕は、ひとりではない空間は時間を早めるらしいと知った。ふた月はすぐに経った。

 備蓄が尽きかけた朝、ダグがやって来た。天気がよく、彼のシルエットが青空に黒々と映える日だった。

 例によって勝手に入ってきた彼は、床に座るエトの姿を見留め、ぎょっと目を剥いた。


「ここにいたのか! どこで落としたかと思ってたんだ」


 お気楽な台詞に苛立ち、僕は「早く連れてけ」と顎をしゃくった。


「大人しいから引き取り手はあるだろう」

「ないな」


 は? 僕はダグに食ってかかった。


「なんだって? ここにずっと住まわせる気か」

「……そいつ霧の朝、外に転がってたのを拾ったんだ」

「霧の」


 エトは警報が鳴ると僕の掛布にくるまって動かなくなる。霧に怯え、泣く。


「致死量吸ったらすぐ死ぬか、ひと月もたねぇって言うだろ。まだ生きてるのにはビビったぜ」


 どん、と腰に何かがぶつかってきた。混乱で回る頭を下に向けた。


「なんだ、ロウに懐いちまったのか。お前、ここにいたいのかよ」


 こくりとエトは肯いた。ぎゅうと痩せた手が僕の上着を掴む。顔を腹に埋めた。「ははっ」ダグの楽しげな声。


「じゃあ決まりだな」


 ダグはエトの髪をぐしゃぐしゃに撫で、僕の肩を叩いた。そして「ならこれも置いてく」「無線使えよ」と荷物を上乗せしてから帰っていった。彼が置いていったのは子ども服と甘い匂いの石鹸だった。




 すぐに本格的な冬が来た、地下でも寒いものは寒い。だが、エトはダグが置いていったひらひらのワンピースを喜んだ。寒かろうと僕の靴下を履かせたり、上着を貸してやるとまた嬉しそうにする。

 エトの表情は日に日に緩み、僕の側に寄るようになった。絵を描いていれば側の床から見上げているし、週に一度の音声配信ラジオを聴くときは隣にいる。ただ同時に食欲を失っていった。


 冬の峠を越えた頃のことだ。

 僕は好きな絵を描くために写真を眺めていた。描いた絵はダグがどこかへ持って行って金にしてくれる。

 擦り切れた写真ばかりだが、かなりの量になっていた。どこかの風景、知らない植物、小動物、人の顔――。しかしピンと来ない。

 そのとき、エトが僕の前に立った。ぺたりと座り、身を乗り出して写真を覗きこんだ。珍しいと思いつつ、捲る手を遅らせる。

 天窓から弱々しい光が注いでいた。僕は薄暗い白の中でエトの青い顔を盗み見、もう長くないなと思った。腹の底が重苦しい。霧に冒された死体は硬直して腐らないから、布で巻いて春になるまで外に……いやそれではあまりに……


「ロー」


「あ?」ぼんやりしていた。エトは腹の中から何か大事そうに取り出すと、僕に差し出した。何重にも布で守られたそれは。


「しゃ、し。あげ」

「写真? お前これ」

「あげ、る」

「あげる? こんなきれいな……」


 それはまるでさっき写したように鮮やかな世界――。

 見たことのない柔らかな空、金属ではない建物は窓が開き、降り注ぐ明るい陽射しによって細かで深い陰影をつくっている。外で食事をする人間、緑の植物が風に豊かに揺れるその一瞬――今はない、昔の色づいた暮らし。

 あぁ。感嘆がもれた。何か言うエトの声もそのままに僕は両手で捧げ持つようにして写真を見つめ続けた。その間、何度も唾を飲んだ。そして段々と部屋が夕闇に沈み、手にした世界が翳っていくのに気づいたとき、僕は感じたことのない衝動から立ち上がった。


(描きたい。そうだ……これを描くんだ!)


 下地を施したカンヴァスを画架イーゼルに立て掛け、写真をポケットに仕舞った。そしてありったけの絵の具を広げ、汚れたパレットの上で絵の具をかき混ぜた。下絵など要らない、すぐに色を乗せる。

 僕は飲まず食わずで描き続けた。警報が鳴ったのもどこか遠く、非常灯で暗くとも構わずに。絵の具が乾く間もなく色を作り、乗せる。

 何度目かの警報でエトが僕の服を掴んだ。そこで初めてカンヴァスから目を離し、「パンを食え」と言った。腹が減っていると思ったのだ。だがエトは離れない。面倒な。僕はパレットを持った手を伸ばした。


「来い」


 エトは僕の片膝に収まり、僕は彼女を抱えながら絵を描いた。

 

「ロー、え。きれ、ぃ」

「あぁ」

 

 エトは僕の胸に顔を埋めたまま、何か言う。


「いき、たい」


 僕は決してカンヴァスから目を離さなかった。何としても描き上げなければならなかった。




 ――最後の白を乗せた瞬間。僕はパレットを投げ出し、エトを抱きしめた。過集中の代償か神経がぶっ壊れたか。エトの髪が僕の涙で濡れた。エトはすでに死んでいた。

 少しずつ冷えていく彼女の体に気づいていた。でも僕にできることは絵を描き続けることだけだった。

 しばらくあと、僕はその小さい体をカンヴァスを包む布で巻いてベッドへ寝かせた。微笑みを撫でると、彼女の細い糸のような声を思い出した。

 エトは「ほし」と言った。


「みた、かた」

「星を?」

「きれい、ママい、てた」


 それが最後の会話だった。


 冬の晴れ間にダグが来た。その日は天窓からはまるで春のような光が降って、エトの頬と僕の絵を白くうららかに照らした。

 ダグはエトを抱え、「責任持って預かる」と言った。僕はすっかり乾いた絵を彼に渡して、一緒に焼いてくれるよう頼んだ。


「すげぇ絵だぞ。売って……いや、とっとけよ」

「エトに描いたんだ」


 異国の建物、賑やかな暮らしを包む青空、手を伸ばす少女――輝く星。

 エトの灰が高く高く舞って、星まで届くように。


 それから僕はまたひとりになった。ただ時折、写真を眺めて微笑む少女の絵を描く。


(了)

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