或る弟の話
月見 夕
或る弟の話
ああ、この日々は一体いつまで続くのだろうか。鉛のように重たい足が、冷たい病棟の床を
「あら、来てくれたのね、
だから、俺はいつものように返すのだ。
「……身体の調子はどう、姉さん」
清水優香は不慮の事故に遭い、
「今日は良いお天気ね。外は、もう暖かいのかしら」
薄手のパジャマに袖を通した姉さんは、身体を起こして枕に背を預け、その白い顔を窓の外に向けた。もう随分と切らずにいる、のっぺりと長い黒髪が、その横顔を隠す。
「……そうだね、もう、三月だ」
俺も同じように外を見
「お散歩に行きましょう、連れて行って、薫」
と俺にせがむのだった。
車椅子を押しながら、ゆっくりと院内の並木道を散策する。散歩に出ようと提案した本人は、その何ともいえぬ温い風が頬を撫でるのを気に入ったらしく、暖かいわね、と表情を緩ませ、景色のひとつひとつに目を遣った。
「早く怪我を治して、歩いて散歩したいなあ」
彼女は無邪気にそう言った。俺はその様子を後ろから、
「姉さん…………事故の時の事、覚えてる……?」
車椅子を停車させ、少しかがんで姉と目を合わせようとする。しかし彼女は、じっと前方のどこか一点を見つめ、空気が固まったかのようにその表情を強張らせた。
「事故のことは……思い出したくないの」
とても痛かったから、と彼女は自らの
また次の日の昼下がり、俺は姉さんを訪ねた。昨日は無かった白い花束が、ベッド脇の机に飾られているのが目に入る。
「……昨日、あなたが帰った後にね」
姉さんは唐突に、ぽつりと口を開いた。
「三島が、来たの」
枕を背もたれにして座っている彼女は、布団の端をぎゅっと握った。その手元を見つめる瞳には、明らかな憎しみが滲んでいる。
三島浩二。それは、清水優香を暴走運転で
「今更、謝罪のつもりかしらね」
その細い指が、ゆっくりと花瓶の花を一輪、
姉さんは俺の胸を借りて泣き崩れた。俺の服を掴み、顔をうずめる。俺は、その背を抱いてやることもできずに、ただ立ち尽くしていた。
前回の訪問から数日空いた昼下がり、いつものように院内を歩いていた俺は、向かおうとしている病室から叫び声がするのを聞いた。何事かと病室へ駆け込むと、男が姉さんの肩を掴み、何かを必死に語りかけていた。彼女は男に対し、泣きながら激しく拒絶の意思を示している。嫌だ、触るなと、男の手を振り払おうとしている。
「思い出して……本当に覚えてないの!?」
男はまだ二十歳前後だろうか、
「……薫!」
姉さんが俺の存在に気付き、助けを求めるような視線で
「薫、お願い……早くこいつを、……三島を、追い払って!!」
三島と呼ばれた男は驚愕を持って彼女を見つめる。
「早く!」姉さんが急かした。俺は仕方なく重たい腕を持ち上げ、男を後ろから
「は、離せ、離せ!」
大の男が暴れるのを押さえるのにはかなり骨がいったが、それでも何とか姉さんから引き剥がす。
「違う、違うんだ……僕は……!」
訴えかけるように目を見開き、必死の表情でもがく。そして、ようやく病室の外へ引きずり出し、扉を閉める直前に、彼は叫んだ。
「…………姉さん!!」
薄暗い廊下に出る。取り押さえていた男は俺の拘束から脱し、
清水薫。それが彼の本当の名だ。この男こそ、清水優香の実弟なのである。
「お前の……お前のせいで、僕たちの家族は滅茶苦茶だ……お前さえ、いなければ……!!」
殴られて床に倒れ伏した俺の胸倉を掴み、憎悪の念に満ちた言葉が吐き掛けられる。だが、それは当然のことなのだ。
俺が、清水優香に一生の傷を負わせた張本人、三島浩二なのだから。
清水優香は、事故の際に両脚に致命的な怪我を負った。それだけではない、事故のショックか、それとも頭の打ち所が悪かったのか、彼女は重度の記憶障害を
彼女が事故後の昏睡状態から目を覚ましたという知らせを聞き、謝罪のために病室を見舞ったとき、彼女は俺に笑顔でこう言ったのだ。
「あら、薫、お見舞いに来てくれたの?」
彼女は俺を弟、そして本当の弟を加害者だと認識してしまった。原因はわからない。来る日も来る日も、彼女は俺を薫と呼ぶ。何度真実を告げようと思ったか。俺は貴女の愛する弟ではない、貴女が憎むべき加害者なのだと、そう、叫びたくなることさえあった。しかしその現実も、実の弟の言葉をもってしても、彼女は受け入れることができないのである。最愛の声は忌避する対象へと変わり、彼女は永遠に動かない脚と偽りの弟を手に入れてしまったのだ……。
薫は去り、俺は冷たい床に打ち捨てられた。殴られた左頬だけが、じわりと痛みを伴って温かかった。ああ、彼女が俺を薫と呼ぶ限り、俺はこれからも、ずっと〝薫〟でいなければならない。姉が最愛の弟を欲する限り、弟はそれに応えねばならないのだ。それがどんなに心折ることであっても、それが、俺の彼女に対する贖罪となり得るのだ。
腹に力を込めて、身を起こす。早く部屋に戻らなければ。姉さんが、俺を呼んでいる……。
部屋に戻る直前に見た、リノリウムの廊下は、どこまでも暗く平坦に続いていた。
或る弟の話 月見 夕 @tsukimi0518
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