或る弟の話

月見 夕

或る弟の話

 ああ、この日々は一体いつまで続くのだろうか。鉛のように重たい足が、冷たい病棟の床をり、堂々巡りの思考で、いつもの病室へと向かう。ああそうだ、この感情は巡っている。何も解決などしない、厄介な悪循環で、同じ感情が同じてつを踏むのだ。ひとりの人間の下を訪れることとは、こんなにも気の滅入る事であったか、だがしかし俺はそれでも行かねばならない。真っ白な壁に沿って整列した扉の中から、彼女の部屋を選び出す。慣れた事だ。冷たい取っ手を回すと、ベッドの彼女はいつものように、微笑とともに告げた。

「あら、来てくれたのね、かおる

 だから、俺はいつものように返すのだ。

「……身体の調子はどう、姉さん」



 清水優香は不慮の事故に遭い、不随ふずいの両足を得た。交通規範に逸脱した乗用車によって、二十歳も半ばという若さで、彼女は歩く機能を永遠に失ってしまったのだ。事故から数週間が経つのにも関わらず、姉さんはそうした自分の身に起こった悲劇を理解できていないらしい。現実逃避か事故のショックか、彼女は外傷が完治しさえすれば、また歩けるようになるのだと、そう、固く信じているのだ。そのような状態の彼女に真実を告げることは酷であろうし、また自分からそのような悲報を伝える役を買いたくない、と周りの誰もが、結局言わずじまいに終わっているのである。

「今日は良いお天気ね。外は、もう暖かいのかしら」

 薄手のパジャマに袖を通した姉さんは、身体を起こして枕に背を預け、その白い顔を窓の外に向けた。もう随分と切らずにいる、のっぺりと長い黒髪が、その横顔を隠す。

「……そうだね、もう、三月だ」

 俺も同じように外を見る。ぼんやりとした春霞はるがすみの空にはいくつかの羊雲が浮かび、柔らかな日差しが街を包んでいる。季節は悲劇を取り残し、その秩序に沿って無感動に流れていく。彼女が真実を知らないでいてもなお。ふとベッドの主に視線を移すと、その栗色の瞳がこちらに向けられていた。ふわりとした笑みをたたえた彼女は、

「お散歩に行きましょう、連れて行って、薫」

 と俺にせがむのだった。



 車椅子を押しながら、ゆっくりと院内の並木道を散策する。散歩に出ようと提案した本人は、その何ともいえぬ温い風が頬を撫でるのを気に入ったらしく、暖かいわね、と表情を緩ませ、景色のひとつひとつに目を遣った。

「早く怪我を治して、歩いて散歩したいなあ」

 彼女は無邪気にそう言った。俺はその様子を後ろから、暗澹あんたんたる気持ちで眺めていた。彼女は身に降りかかった不幸を認知していない。もし、あらゆる真実を理解してしまったとき、果たして彼女は、今のように移り変わる季節をでることができるのだろうか。ああ、俺には荷が重い。……しかし、その真実の伝達は俺の役目なのだ。俺は姉さんの愛する弟なのだから。どう抗おうと、避けては通れぬ道なのである。何度も、そう自分に言い聞かせてきたというのに。口は核心に迫ろうとはしない。

「姉さん…………事故の時の事、覚えてる……?」

 車椅子を停車させ、少しかがんで姉と目を合わせようとする。しかし彼女は、じっと前方のどこか一点を見つめ、空気が固まったかのようにその表情を強張らせた。

「事故のことは……思い出したくないの」

 とても痛かったから、と彼女は自らの両肢りょうしを撫でて視線を落とした。俺もそれ以上言葉を紡ぐ事ははばかられた。



 また次の日の昼下がり、俺は姉さんを訪ねた。昨日は無かった白い花束が、ベッド脇の机に飾られているのが目に入る。

「……昨日、あなたが帰った後にね」

 姉さんは唐突に、ぽつりと口を開いた。

「三島が、来たの」

 枕を背もたれにして座っている彼女は、布団の端をぎゅっと握った。その手元を見つめる瞳には、明らかな憎しみが滲んでいる。

 三島浩二。それは、清水優香を暴走運転でねて怪我を負わせ、また、歩行の自由を奪った人物、いわば加害者である。

「今更、謝罪のつもりかしらね」

 その細い指が、ゆっくりと花瓶の花を一輪、手折たおる。くしゃり、と音を立ててひしゃげた茎は、事故に遭ったときの彼女の脚のようだった。白い花弁が、ひらりと床に舞い落ちる。残っていた花も、ぐしゃり、ぐしゃりと、無残に彼女の手の中で握り潰されていく。姉さんは、泣いていた。もしかしたら、彼女は、自分の脚がこれからも治ることはないということに、本当は気付いているのかもしれない。その涙には、いつまでも動かない脚を抱えて生きていくことへの哀しみ、そうさせた加害者に対するいきどおり、将来への絶望、そんな様々な感情がとぐろを巻いているのかもしれなかった。

 姉さんは俺の胸を借りて泣き崩れた。俺の服を掴み、顔をうずめる。俺は、その背を抱いてやることもできずに、ただ立ち尽くしていた。



 前回の訪問から数日空いた昼下がり、いつものように院内を歩いていた俺は、向かおうとしている病室から叫び声がするのを聞いた。何事かと病室へ駆け込むと、男が姉さんの肩を掴み、何かを必死に語りかけていた。彼女は男に対し、泣きながら激しく拒絶の意思を示している。嫌だ、触るなと、男の手を振り払おうとしている。

「思い出して……本当に覚えてないの!?」

 男はまだ二十歳前後だろうか、なだめようと困惑するその表情には幼さが残る。

「……薫!」

 姉さんが俺の存在に気付き、助けを求めるような視線ですがった。男は、姉さんの言葉にこちらを振り向き、憎々しげににらめつけた。

「薫、お願い……早くこいつを、……三島を、追い払って!!」

 三島と呼ばれた男は驚愕を持って彼女を見つめる。

「早く!」姉さんが急かした。俺は仕方なく重たい腕を持ち上げ、男を後ろから羽交はがい絞めにした。

「は、離せ、離せ!」

 大の男が暴れるのを押さえるのにはかなり骨がいったが、それでも何とか姉さんから引き剥がす。

「違う、違うんだ……僕は……!」

 訴えかけるように目を見開き、必死の表情でもがく。そして、ようやく病室の外へ引きずり出し、扉を閉める直前に、彼は叫んだ。


「…………姉さん!!」


 薄暗い廊下に出る。取り押さえていた男は俺の拘束から脱し、咆哮ほうこうとも叫びともつかぬ声を上げて、俺の左頬を力の限り殴った。その彼女によく似た栗色の瞳が、怒りと哀しみ、複雑な感情に揺れている。

 清水薫。それが彼の本当の名だ。この男こそ、清水優香の実弟なのである。

「お前の……お前のせいで、僕たちの家族は滅茶苦茶だ……お前さえ、いなければ……!!」

 殴られて床に倒れ伏した俺の胸倉を掴み、憎悪の念に満ちた言葉が吐き掛けられる。だが、それは当然のことなのだ。

 俺が、清水優香に一生の傷を負わせた張本人、三島浩二なのだから。



 清水優香は、事故の際に両脚に致命的な怪我を負った。それだけではない、事故のショックか、それとも頭の打ち所が悪かったのか、彼女は重度の記憶障害をわずらってしまったのである。

 彼女が事故後の昏睡状態から目を覚ましたという知らせを聞き、謝罪のために病室を見舞ったとき、彼女は俺に笑顔でこう言ったのだ。

「あら、薫、お見舞いに来てくれたの?」



 彼女は俺を弟、そして本当の弟を加害者だと認識してしまった。原因はわからない。来る日も来る日も、彼女は俺を薫と呼ぶ。何度真実を告げようと思ったか。俺は貴女の愛する弟ではない、貴女が憎むべき加害者なのだと、そう、叫びたくなることさえあった。しかしその現実も、実の弟の言葉をもってしても、彼女は受け入れることができないのである。最愛の声は忌避する対象へと変わり、彼女は永遠に動かない脚と偽りの弟を手に入れてしまったのだ……。



 薫は去り、俺は冷たい床に打ち捨てられた。殴られた左頬だけが、じわりと痛みを伴って温かかった。ああ、彼女が俺を薫と呼ぶ限り、俺はこれからも、ずっと〝薫〟でいなければならない。姉が最愛の弟を欲する限り、弟はそれに応えねばならないのだ。それがどんなに心折ることであっても、それが、俺の彼女に対する贖罪となり得るのだ。

 腹に力を込めて、身を起こす。早く部屋に戻らなければ。姉さんが、俺を呼んでいる……。



 部屋に戻る直前に見た、リノリウムの廊下は、どこまでも暗く平坦に続いていた。

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