偏屈に与ふる書

苫澤正樹

偏屈に与ふる書

 カクヨムはじめ小説投稿サイトでは、長いこといわゆる「テンプレ」にはまった作品が大流行し、それらがランキング上位やトップページの作品紹介を占拠するという状態が日常的に続いている。

 またそれを右に置いても若者向けの作品が集まりやすいこともあってのことか、どちらかというとライトノベルに近い作品を投稿する場所として認識されているきらいがある。

 しかしこれらのサイトは「無料で小説を投稿する場」として運営されており、ジャンルや内容を特に限定しているわけではない。規約を守り社会常識をわきまえさえすれば、どのようなものでも書いていいのだ。それこそ中間小説も純文学も全てありである。文章作法も別にとらわれることはなく、従来の小説のような手法でも何も問題はない。

 ところが何でも投稿出来るからといって、それが読まれるかどうかの保証はない。やはり流行の題材を扱った作品に人気が集中し、他の作品は目を向けられない傾向が強い。なかんずく中間小説や純文学、またはそれに近い作法をしている作品では、「見た目が取っつきづらい」ということから閑古鳥が鳴いているなぞという光景はあちこちで見られる。

 もっともそういう目に遭いつつも、大抵の作者は取り立てて気にせず書いていることが多い。主流ではないゆえに変に急かされることもなく無理をする必要もないので、かえって余裕を持ってやれるということだろう。

 その一方で、このような状況にもの申さんとする人々も少なからずいる。「テンプレ」満載の作品に対する流行が異常なほど過熱していることに疑問を持つとともに、その余りの多さと粗製濫造ぶりに大きな嘆きを抱き、誰にでも作品の発表と読まれる機会を与えるというサイトの理念が事実上名ばかりになっていることを憂える作者たちだ。

 流行に乗った作品だけが偏愛されるようでは、それだけで道がふさがって他の作品にたどり着く道がなくなってしまう。これでは作品の内容や傾向によって理不尽な格差が生じてしまい、作者の努力が報われなくなってしまう。なされて当然、妥当な批判と言えよう。

 だがそのように日夜批判を繰り広げる人々に、ここであえて筆者は問いたい。

 あなた方は「偏屈」に陥っていないか、と。



 どんなものをするでも、こだわりを持つ人間というのはいるものだ。そしてそれを強く前に出して譲らずに自分の矜恃とし、流行に流されることを拒む人も多くいる。

 人は彼らを「頑固」もしくは「偏屈」と呼ぶが、これは実は同じものではない。使用者によって定義が微妙に異なって来るので本来は難しい言葉なのだが、本稿では筆者の経験に照らし合わせてその違いを説明することにする。

 まず「頑固」とは「今の世間には間違ったことが多いと思うし自分にも合わなくて好きになれない。自分で選んでこの方法でやってるんだから御意見無用だ」というものだ。合わないものや好きになれないものに対しては「自分はやらないし関わりたくない、持ち込まないでくれ」と不快を示した程度であとは無視するという態度を取る。

 一方「偏屈」とは「今の世間のものは自分が気に入ったものや価値を見出したもの以外は下らないものばかりだ。それが分からないやつの話なんか誰が聞くか」というものである。合わないものや好きになれないものに対しても、「そんなものは絶対許さんぞ、この世から消せ!」と拒絶反応を通り越して烈しい存在否定を行う。

 実際には一部重なることもあるのでここまできれいには分かれないが、イメージとしては分かるだろう。要するに「頑固」はまだ自分に合うものや好きなもの以外をとりあえず存在だけは認めて多少は人の話を聞こうとする余地を残しているのに対し、「偏屈」は自分に合うものや好きなものが全て「正義」であって他は存在を認めず人の話を聞く気もないということである。

 「頑固」な人がそんな簡単に人の話を聞くだろうかと思う人もいるだろうが、こういう人は本当にいいと思えば、気に入れば意外と素直に折れる。最初は否定的だったり嫌がったりしていても、最終的に価値を見出して取り入れようとする人が存外にいるものだ。

 だが「偏屈」な人ばかりは煮ても焼いても食えない。何せ自分の価値観に合ったもののみしか認めない、言い換えれば自分の価値観が「正義」と化してしまっている状態なのだ。これでは他人が何と言おうと聞くわけもない。当然どんなものに触れようと、気に入らなければ一瞥しただけで即座に排除するか、ねちねちと陰湿に批難するか、大声で罵詈雑言を投げ続けるかのどれかである。



 投稿サイトの現状に対し批判を行う作者には、カクヨムで見た限りではあるがこの「偏屈」の方に属する人が多い。むろん属しない人もいるのだが、押されて霞んでしまっている。

 こういう人々は現在流行となっている「テンプレ」満載の作品を心の底から嫌悪し、消し去るべき存在として扱う。何かこれらについて書かせればねちねちと当てこすりや嫌味を言い出して見下し、場合によっては憤怒に身を焦がされすぎて「闇落ち」でもしたのかと思うような雰囲気で鬱々とした怨み節を連ねることすらある。

 このようなありさまでは肝腎の批判の質が気になってしまうところだが、その質は実に高く極めて緻密かつ的を射ているものが多い。

 殊に出版社が安易に人気のネット小説に頼って自転車操業をしているという指摘には、筆者も「よくぞ言った」と大いに手をたたいたものだ。また自分の作品を実験台にして読者の選択基準が作品の外面に大きく偏っていることを証明しているのを見た時には、「確かにこれでは読まれない作品が出るはずだ」と納得しながら、本気でWeb小説界どころかこの国の将来を憂えてしまった。

 このようにせっかく優れた調査や分析を行い問題提起を行おうとしているのに、先のような態度を取るというのは実にもったいない話である。

 鬱憤がたまりにたまっていろいろ言いたい気持ちは分かるが、露骨に相手を見下すような気持ちが垣間見えてはさすがに人格を疑われてしまう。さらに本来なら読んでくれる層の読者にまで「あんなこじらせた人には関わらないでおこう」と思われて敬遠され、読まれる機会を失うことは想像に難くない。自分や同志たちの居心地をよくするための活動で、自分の首を絞めては本末転倒だ。

 嫌いだ、気に入らない、苦手だという感情そのものはもう仕方のない話だ。だがよほど反社会的で有害と客観的に言い切れる相手でない限りは、それをもって相手を存在から否定するのは根本的な誤りであり、何かを批判する人間として不出来と後ろ指を指されても文句は言えまい。



 このような批判を行おうと思った理由の一つは、同じく投稿サイトの現状に対して問題意識を持つ者として、彼らの言動に強い違和感を覚えたためである。

 筆者の作品は従来の小説の流儀を踏まえたものであり、このように現状批判を行っている人々が奉じているスタイルだ。いや、むしろそれよりも堅物に見える代物かも知れない。

 だがそれに反して「テンプレ」満載の作品の存在に対しては比較的融和的な考え方をしており、頭ごなしの存在否定は一切しないことにしている。

 その理由は「別にそういうものがあったっていいだろう、自由にすればいい」と考えているからだ。それにここではないどこかへ旅立って何も考えずに爽快感を味わいたい、そういう逃避の心理は誰でも持ち得るものであり、それを否定することは出来ない。それを味わいたい人がいるなら存在まで完全否定する筋合はないという、実に単純な理屈である。

 ただ、作品のあり方となると話は別だ。流行の過熱によって読み捨てのコンテンツと化した結果、全般的に軽佻浮薄のきらいが強くなってしまい、さらに読んでもらえるからと我も我もと追随した結果粗製濫造が起こり、無駄に数が増えすぎているという弊害が起こっている。

 このような熱病じみた大流行と度を超えた類似作品の濫発により、これらの作品はいつの間にかWeb小説の「主流派」のようになってしまった。その結果、本来他のジャンルの作品にも平等にあってしかるべき読まれる機会が奪われてしまうという惨状を招いているのである。

 また読者の質の低下も深刻だ。例を挙げればきりがないが、一番驚くべきは外面がそれらしければ脊椎反射でわっと寄って来るという現象が確認されたということである。中身や作者の人物像なぞまるで無視という状態だ。これを知っているのか「読者を増やすには外面で勝負」とのたまう者もおり、それに多くの読者が絶讃を送るというさすがに頭の痛い事態となってしまっている。

 その他にも連載作品での読み飛ばしなど、小説を読む上で考えられないあさっての行動を取るという現象も見られる。しかもその理由が「鬱展開だから」「主人公の言動にいらついたから」というお粗末なものであることも少なくない。話の流れ上、そうなる必然性があると認められる場合でもだ。その作品を本当に理解して読んで来たのかと言いたくなる。

 正直、このままではいつか破綻する。その危機感は筆者もひしひしと感じるところだ。

 しかし先も言った通り筆者が問題意識を持っているのはあくまでこのような作品のあり方や読者の態度、そしてその背後にひそむWeb小説の病理であって、作品の存在そのものではないのだ。

 そのために「偏屈」に陥った人々を見るだに、その気持ちは理解しつつもこのような苦言を呈したくて仕方なかったのである。



 そしてもう一つは、これらの人々に欠けている視点があるからだ。しかもそれが、自分に引っかかっているとなるともの申さずにはいられない。

 彼らの視点を見ていると、そこには一つの傾向があることが分かる。それは二分法だ。

 「テンプレ」満載の作品であるかないか。「テンプレ」満載の作品を好むか好まないか。

 自分たちから見て好きかどうか、価値があるかないか。存在する意味があるかないか。

 基本はこういう「白」か「黒」かという考えで、作品でも人でも値踏みしているのである。

 後半はその思考自体に問題があると既に言及したので右に置くとして、問題は前半だ。

 作品にせよ人にせよ、中間が出て来たらどうするのだろうか?

 作品なら「テンプレ」要素を扱いつつも、展開や文体は中間小説や文学寄りというものも書けないことはない。「テンプレ」要素を非現実的として退けず、文学的な解釈を加えてみたり、現実的な方向から新しい解釈を与えることも決して不可能ではない。

 人なら両方好きという読者が必ず出て来る。中間小説や文学寄りの作品を書いてはいるが、時に気まぐれに「テンプレ」満載の作品を書いているという作者も出て来る可能性がある。

 人間の発想は思ったよりも自由で時に奇想天外だ。どれも出て来ないとは否定出来ないし、一番最後に至ってはそういう作者を実際に知っている。

 こういう作品や人が出て来た時、彼らはどう対応するのだろうか?

 処理に困って沈黙してしまうか?

 「そんなものはなかった」「そんな人物はいなかった」と存在を抹殺するか?

 自分たちの許せぬものを好む輩だ、裏切り者だと責め立てて攻撃するか?

 少なくとも、すんなり受け容れる姿は目に浮かばない。「テンプレ」満載の作品の存在を批判し否定し尽くすことに全力を注いでいる以上、このような「灰色」の存在が登場することはまず想定していないし、どう対応したらいいかも考えられていないと思われるからだ。

 そして彼らを見て、そういった「灰色」の存在である人や作者たちも避けて通るだろう。さもありなん、関わったら何を言われるかされるか知れたものではないからだ。自分の好きなものを攻撃しかねない人なぞごめんだし、何より面倒くさいにもほどがある。

 筆者は作品の好み自体は中間小説寄りで「テンプレ」満載の作品についてはむしろ批判たらたらなのだが、実は代表作品が異世界転移ものを独自にアレンジした「灰色」の存在である。

 該当作品では「異世界転移」という現象を「抗えぬ正体不明の力による拉致と異世界への監禁」ととらえ、その「被害者」たる主人公の心理を現実的視点から描いて行った。文体は完全に中間小説のそれであり、堅苦しい表現も多い。

 従来の「異世界転移もの」のイメージが強い人はその異様さに目が点になるだろうし、実際に「異世界転移ものが苦手」という人に「こんな作品があるのか」と驚かれたこともある。

 こういう「灰色」の作品を見て、彼らはどんな反応をするのだろうか。もっとも筆者も何をされるか言われるか見当もつかないので、関わらず遠巻きに見ているだけだが。

 それでなくとも自主企画で「転移転生ものお断り」という条件に引っかかり歯噛みをすることが多いというのに、これ以上不快な思いをしたいとは思わない。


 それに実は筆者は、全く別の場所で同じような体験をしていたりもする。

 古い音楽好きの筆者は、戦前から戦直後の流行歌を好む。具体的には昭和一桁から戦時中を通り抜け、昭和二十年代くらいまでの曲が好きなのだ。

 これらを実際に当時聞いていた人たちは、かなりの歳の人もいるが今も生きている。また当時でなくとも、後からファンに加わった人も多い。

 当然ファンコミュニティも形成され、一見するとニッチである割には人のつながりが広がりそうで、実にいやすそうな場所である。

 だがこのファンコミュニティが「流行歌以外は認めない」という「偏屈」の塊なのである。殊に演歌に対しては、親を殺されたのかと思うほどの憎しみを見せるほどだ。

 しかも困ったことに、公式の存在である流行歌手がこの「偏屈」をやらかしてしまっている。

 昭和三十年代以降、戦前からの歌手は次々と姿を消して行った。ほとんどの歌手は黙って去ったのだが、そんな中である女性歌手は芸能界に留まり続け、終生歌謡曲界を猛批難して大暴れし続けた。殊に演歌に対しては毛嫌いして烈しい存在否定に走り、一時期は追放活動まで行おうとしていたというのだから驚いた話である。

 彼女のファンには実に申しわけない限りであるが、筆者には完全に晩節を汚す行為にしか思えず、一切支持出来ない。だが一方で彼女の言い分にも一理ある部分があったこと、そして何より歌手として素晴らしい人物であったことから賛同者が多いのも事実である。これではファンが「偏屈」に染まってしまうのも無理らしからぬことだろう。

 これだけでも距離を置くに足るが、さらに足を遠ざけさせる理由があった。

 筆者は、元々昭和四十年代のフォークソングや昭和五十年代のニューミュージックのファンなのである。相手がその存在を一切認めていない、その世界から来た人間というわけだ。さらに流行歌に完全に鞍替えする気はさらさらなく、両者に股をかける気満々なのである。

 そんな筆者が「流行歌以外は認めない」と言い切る人々を眼の前にして、どうすればいいか困惑しきったのは言うまでもない。

 相手が筆者のように時代やジャンルをまたいで愛好するファンを想定していないのは、どう見ても明らかである。このまま下手に突っ込めば、どんな目に遭わされるか知れたものではない。

 このような警戒心から筆者はファンコミュニティに関わることを一切あきらめ、十何年も一人でファンを続けている状態だ。正直を言うと孤独であるが、精神的に疲労するよりいい。

 こちらは仲間を作る機会を失い、あちらは仲間であるばかりでなく後継者とまで言える存在を得る機会を失った。全ては「偏屈」という心得違いが生んだことだった、そう言わざるを得ない。



 筆者は本稿をもって誰かを挑発し、いたずらに攻撃するための弾丸とする気は一切ない。ただ感じ続けていた違和感を整理し、自分なりの異議として提示したのみである。

 苦手で合わない、嫌いだというものを無理矢理に受け容れろとも言う気もない。無理なものは無理なのだから、そればかりは仕方ないだろう。

 だが、今一度立ち止まって考えてもらいたいのである。自分のやり方を矜恃としこだわるのはいいが、それを絶対的な尺度、さらには「正義」だと思ってしまうことは暴走以外の何ものでもない。その矛先を向けられる批判対象ばかりでなく、最終的には周囲の人々も自分も幸せにならない。

 今後カクヨムを含む小説投稿サイトがどのような未来をたどるのかは、余りにも見通しがつかず誰にも分からない。利用者同士に不当な格差が生じてしまっている以上、これからも平和なまま生き残ってくれるのか、それすらも怪しい。

 だからこそその現状を憂えて変えて行こうと試行錯誤する者は、なおいっそうその言動に大きな注意を払わねばならないだろう。

 自己の価値観を至上とし、感情と衝動にはやったままでいざ革新せんと起こした行動が、真に実りある変革として実を結んだためしなぞありはしないのだから。


<了>

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偏屈に与ふる書 苫澤正樹 @Masaki_Tomasawa

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