本文
――安楽死福祉法 第一章 総則――
(目的)
第一条 この法律は、すべて国民が基本的人権にのつとり、人としての尊厳を維持する安楽死の原理を明らかにするとともに、必要な援助を図ることを目的とする。
【プロローグ】
「おめでとう」
傷ひとつないジュラルミンケースを開けると、目の前に立つ男の喉仏が上下に動いた。
「……これが、死ぬための道具なんですね……」
震える呟きには、僅かな昂揚感が混じっていた。
ベンチの上に置かれたジュラルミンケース。整然と並ぶのは、毒入りの小瓶。ナイフが数種類。拳銃は、当然ながら本物だ。
それ以外の道具については見て判るものではないし、詳細を説明する必要はない。
殺し方は何でもいい。
重要なのは、命が尽きる瞬間に安らかな気持ちでいてもらうこと。
この小さな空き地は歓楽街から離れているからなのか、喧騒とは無縁の閉ざされた世界だ。
毎年秋になると小さな花を咲かせる街路樹の独特な香りが漂っているが、目の前に立つ依頼主同様に名前は知らない。
「これまでの人生で一番穏やかな気持ちになって死んでもらうのが、俺の仕事だ」
俺の台詞を
会話を遮るようなビルの隙間風はまるで断末魔のようだった。
秋の日はつるべ落とし。こうしている間にも、黄昏の空色はだんだんと闇へ近づいていく。
コンタクトレンズを外すと、途端に夕暮れの光を眩しく感じた。
俺の瞳の色は、黄金。
一般的な日本人とはかけ離れた金色の虹彩は、世界の解像度を否応なしに上げてくる。
普段は組織の用意した特殊なコンタクトレンズで黒目に偽装して、かつ、長い前髪を下ろしている。だが仕事の時はコンタクトレンズを外さなければならないし、前髪は整髪料でオールバックにしている。
「黄金の瞳……!? すごい……まるで満月みたいだ……」
ゆっくり顔を上げると、初めは虚ろだった依頼主の瞳に光が点っていた。
頬は痩せこけ、瞳は窪み、その下には深い隈。手の甲には血管が浮き出ている。貧相な体格に似合わないスーツを着ているということは、食事も睡眠もまともに取れていないのだろう。
そんな状況において、死ぬために生気が生まれるなんて皮肉な話だ。しかし最後のエネルギーを、男は己の最期のために使おうと燃やしている。
「黄金の瞳。喪服にジュラルミンケース。あ、貴方があの【マザーグース】なんですね」
「よく知っているな」
さらに男の瞳が潤み、口角が上がる。
どうやら
「よかった.......。これでぼくは安らかな死を迎えることができるんですね.......」
非公式安楽死組織【ギフト】の構成員、
俺の二つ名は幸か不幸か都市伝説として世に出回っている。
子守唄。非公式安楽死執行人という役目とは対極にある単語だ。
「望む場所で、望む死に方ができる人間なんてごく僅かだろう。きっと宝くじに当選するよりも難しいんじゃないか? あんたが
だから、「おめでとう」。
この男について、司令官からは高校教師だと聞いている。それ以上の情報はないし、知ろうとも思わない。
俺は掌に収まるサイズの小瓶を持ち上げた。褐色の瓶の中で液体がとろりと揺れる。
「一番人気は毒。体内で分解される特殊な成分でできていて、解剖されたとしても死因は決して暴かれない」
「じゃあ、それで。.......あのっ」
食い気味に男が声を上げた。
「マザーグースさん。最期に少しだけ、ぼくの話を聞いてもらっていいですか」
「聞こう」
――ぼくが、【ギフト】へ安楽死を依頼した理由です。
男はそう前置きをして、語り始めた。
「お恥ずかしながら僕はこれでも高校教諭なのですが、どうも頼りないみたいで、生徒からも同僚や上司からもよく思われていないのです。教室にも職員室にも僕の居場所はありません。幸いなことに美術担当なので、美術準備室で過ごすことでなんとか日々をやり過ごしてきました。そんな僕でしたが、唯一、ぼくを理解してくれる女性が現れました。……あぁ、なんと罪深いことでしょう。僕は彼女を、生徒を愛してしまったのです。恐ろしいことに、彼女もぼくの気持ちに応えてくれました。彼女と共に過ごす時間は至上の喜びでした。愛とは、彼女とぼくの間に湧き出てくる感情でした」
堰を切ったようにとめどなく溢れる、感情という名の告白。
大半の人間は身の内に荒れ狂う罪を贖いたいと思って死ぬことを決意する。ただ誰にも知られないのは死ぬことより辛いのだと口を揃えて彼らは語る。
最後の承認欲求なのか、それともまったく別の何かなのかは分からない。
ただ、この男もこれまでの依頼主と同じように独白を続けた。
俺は坊さんでもなければ、神父や牧師でもない。ただの人間だ――というには己を把握していないかもしれないが。
しかし、この最期の告白も含めてひとつの依頼なのだと、組織からは言われている。
「ですが、ぼくと彼女は教師と生徒。このままではお互い不幸になると思い、ぼくはこの世界から消えることを決意しました」
依頼主は錆びたブランコに腰かけると、しっかりと鎖を掴んだ。軋ませながら少し揺られてみるものの、大人では中途半端に足が地面についてしまう。
やがて顔を上げた男の表情は、すっきりとしたものに変わっていた。
「最期に誰かに聞いてほしかったんです。ありがとうございます」
どうやら男は語り終えて満足したらしい。
「もう思い残すことはありません。よろしくお願いします」
俺は小さく頷いて、小瓶を手渡す。
躊躇いは一切なかった。男はすぐに蓋を開けて、中の液体を一気に飲み干した。小瓶は空になり、地面へと滑り落ちる。
――ここからが、彼の最期の時間。
俺は花の香りが混じった風を吸い込む。
「♪~」
口笛で奏でるのは、子守唄だ。
俺が【マザーグース】と呼ばれる
裸眼状態で口笛を吹くと、聴いた相手に幻覚を見せることができるという能力。
「♪~」
マイナー調のメロディはどこか郷愁を誘うようにできている。
男の表情から、緊張がゆるゆると解けていくのが伝わってきた。
「あぁ……ぼくの最期を見守ってくれるんだね。ほんとうに優しい子だ。ぼくには君しかいない。愛してる。愛してるよ……」
男が両腕を虚空へと伸ばした。
そして、まるで人間を抱きしめるような仕草をする。
能力者である俺は、ある程度どんな幻覚を見せるかコントロールは可能だが、相手が何を見ているかは分からない。
所詮、音というのは振動の一種だ。その振動が脳の特定の部分に作用するのではないかと組織の研究員からは言われたが、詳細は不明のままだ。
しかし、
「どうかぼくのことは忘れて幸せになっておくれ。ラ――」
男の体から力が抜けて前のめりに倒れる。
どさり。
大きな音と共に静かに舞い上がる砂埃。そのまま、二度と動くことはなかった。
じじじ、と音を立てて外灯が弱々しく点滅し、男を照らす。
俺はしゃがみ、男の脈が止まっているのを確認する。スマートフォンを取り出し、組織の処理班へコール。
然るべき場所で処理された遺体は、第三者によって交通事故の被害者として発見されることになっている。
「お疲れ様です」
どこかで見ていたと思えるくらいすぐ、黒い乗用車が空き地の前に停まった。
降りてきたのは、喪服の俺とは違ってラフな男たちだ。私服姿なのには理由がある。彼らはあくまでも自然に、まるで荷物のように遺体を運ぶのだ。
「……ふぅ」
コンタクトレンズをつけると、ようやく視界が落ち着いた。
これで今回の任務は完了した。
空き地から出たところでぽつりと雫が落ちてくる。もう少し雨足が強くなるようならコンビニで傘を買ってもいいかもしれないが、とりあえず濡れながら帰ることに決める。雨で整髪料を流したいという気持ちもあった。
花の香りを打ち消すように、雨のにおいが地面から立ち上ってきた。
【1章】
朝目覚めてすぐ窓を開けたとき、空気の冷たさに気づいた。数日前の雨を境に、季節は冬へと進んだらしい。
前髪は下ろしたまま。コンタクトレンズの上から黒縁眼鏡をかける。度の入っていない伊達眼鏡だ。
服装は喪服ではなく一般的なグレーのスーツ。今回の任務用に組織から与えられたアパートの一室で簡単な支度を済ませて外へ出た。
「
それにしてもあくびが止まらない。朝から活動するのは久しぶりなのだ。
道中に駅前を通りがかると、大型ビジョンでは朝のニュースが流れていた。
『……安楽死装置【ウィル】の最新式が発表され、資産家の××氏が……』
無機質に読み上げているのは合成音声だ。カプセル型安楽死装置と、それを利用したという老人の画像が表示される。続いて、老人の生前の功績を称えるダイジェストが流れた。
安楽死福祉法。
他国に倣って成立した法律だ。
日本国民が公的に自死の権利を得て、もう何年になるだろうか?
実際には申請に時間がかかる上、多額の費用や五人以上の親族同意などが必要になってくる。また、本人や親族に対する面接も繰り返し行われる。そして、逮捕歴のある人間はそもそも利用することができない。
いくつもの壁があり、制度を利用できる者はごく僅か。生きることだけでなく、痛みなく死ぬのにも選別は行われるのだ。
だからこそ、安楽死を普及させたいと考える輩も存在する。
交差点の端では、ペストマスクを被った団体が声高に訴えていた。
「金持ちだけが使える安楽死制度は意味をなさない!」
「善良な市民にも等しく死の権利を!」
「死の権利を!」
胡散臭い団体は腐るほどある。叫んでいるだけなら随分と穏健なものだ。
俺の所属する非公式安楽死組織【ギフト】は実際に一般市民を安楽死へと導く。世には表立って出てこないが、最も過激だと言われても否定はできないだろう。実際に話題に昇るときは激しい賛否両論が繰り広げられている。
【ギフト】は安楽死福祉法と同様に他国の自殺幇助団体を真似して結成されたというが、真偽については興味がない。物心ついた頃から世話になっている割に、知らないことの方が多かったりするのだ。
大型ビジョンに老人の遺族とやらが映し出され、涙ながらに訴えはじめた。
『祖父は公正証書遺言で、自らの遺産を安楽死装置の研究施設へ遺贈すると記しておりました。これは我々遺族には全く知らされていなかった内容であり、公平ではないと考えております。このようなことが起きるならば、公的安楽死は推進されるべきではありません』
つまり、せっかく公的安楽死を承認したのに、遺産を相続できないのが不満ということだろう。金が絡むと、大声を出していなくても不穏な場合もある。
その後大型ビジョンに映し出されたのは、そもそも安楽死に反対する政党の代表だった。
『安楽死とは非人道的行為に他なりません。つまり、我々日本国民は今こそ考えなければならないのです。死の権利は、誰が有するものかということを! 我々は安楽死福祉法の廃案のため……』
混沌とした朝の風景に、思わず髪をかきむしる。
大概の人間はどちらにも興味を示さない。今も昔も、この国の人々にとって無関心は美徳だとされているらしい。
「めんどくせぇな」
背中を丸めて歩くのは寒いからだけではない。
するとスクランブル交差点を渡り終わるタイミングで、女の悲鳴が耳をつんざいた。
「……ちゃんっ! 止まって!」
トンッ!
俺は振り返るのと同時に地面を蹴る。
歩行者信号が赤に変わっていたにもかかわらず、幼児が飛び出したのだ。そこへ向かうように走るタクシーの運転手。目を見開きハンドルを大きく切ろうとしている。
「悪く思うなよ」
ガッ!
幼児を右脇に抱き抱えタクシーのボンネットを革靴で蹴って空中で回転、母親の前で着地。タクシーこそ急ブレーキを踏んでいたようだが、周りの自動車が距離を取っていたおかげで何事も起きていない。
一瞬の出来事。周囲の人々は何が起きたかすら分からず、ぽかんと口を開けていた。
膝を折り、きょとんとしている幼児に目線を合わせる。
「赤信号は止まれの合図だぞ」
幼児自身も何が起きたか気づいていない。それでもこくこくこく、と頷いてくれた。
頭を撫でてから立ち上がると、母親が何度も頭を下げてくる。
「あの、ありがとうございます。お名前を」
「大したことじゃない。しっかりと手でも繋いでおくんだな」
礼を振り払ってのろのろと歩き出す。ありがとうございます、という声が繰り返し背中に届いた。
万が一今の出来事を撮影している人間がいたとしても、組織の力で俺の動画や画像がインターネットに出回ることはない。
非公式安楽死執行人なんてものをやってはいるが、俺は殺人狂ではない。殺すのはあくまでも相手が望んだ場合のみ。
すべての人間に、生か死か選ぶ権利がある。
死にたい奴は死ねばいいが、生きたい奴は生きるべきなのだ。
だからこそ理不尽な死は、あってはならない。俺はそう思う。
そして、今日は新たな任務の初日だ。
*
私立ぺトリコール女学院。
宗教系の一貫校で、幼稚園から大学までのエスカレーター式になっている。
校訓は「清く正しく誠実に」。主体性のある人間を育て、海外並みの女性の社会進出を目指しており、OGには企業のトップも多い。
実際に目の前にした第一印象は、学校というより宗教施設のような外見だということ。
「おはようございます」
玄関でスリッパに履き替えて職員室に入ると、小太りの中年男性が声をかけてきた。少ない髪の毛を無理やり伸ばして頭頂部に貼りつけているが、整髪料なのか、独特の臭さが鼻につく。事前資料に載っていた顔と照合して、教頭だと理解する。
「おはようございます。今日からお世話になります、山田タロウと申します」
「山田先生、よろしくお願いします。今から講堂で朝礼が始まりますので案内しますね。詳しい説明は後ほど」
「はい、分かりました」
山田タロウというのは当然、偽名だ。戸籍上の名前は、
当然ながら教員免許なんて持っていない。義務教育だって中断したまま、今年二十歳を迎えてしまった。
幸いなことに組織で一通りの社会常識は学ばせてもらったので、それなりに一般市民と同じような振る舞いはできる……と、思う。
というか今回のように数日間特定の社会に属さなければならない場合もあるので、一般市民のような行動は必須なのだ。
今回の依頼主は、教師に首を絞められて殺されたいらしい。
そのために、俺は教師の真似事をしなければならないと説明を受けている。
劇場のような講堂には女子高校生たちが集められていた。白い襟のセーラー服に結ばれているリボンは色が違い、それで学年を判別するようになっているのだという。
代理で担任となる二年A組の生徒については、教頭同様に資料で把握してある。気客席を見遣ると、ちょうど中央に固まって着席しているのが確認できた。
重たい鐘の音が響いた後、教頭が登壇する。
『大変残念なお知らせがあります。二年A組の担任であった△△先生が交通事故でお亡くなりになられました』
ざわつき、顔を見合わせて生徒たちが動揺を見せる。
唇の動きを見ていると、やはり、といった感想が多そうだ。どうやら元担任の死は生徒たちにとって特段驚くようなことではないらしい。そして、悲しまれていないことも同時に伝わってきた。
『私語は慎むように。本日は後任の先生をご紹介します。山田タロウ先生、お願いします』
偽名を呼ばれた俺は、上手からゆっくり舞台の中央へと出て行った。
ライトが眩しい。重たい前髪とコンタクトレンズがなければ目を開けらていられないだろう。
マイクの高さを調整して、咳払いをひとつ。
『えー、今ご紹介にあずかりました山田タロウです。前任の先生の分まで頑張りますので、お手柔らかにお願いします』
本当に、お手柔らかにしていただきたい。
期間限定とはいえこんなにたくさんの女子生徒なんて相手にできる気がしない。
*
南館の端にある二年A組の教室へ向かうと、廊下まで大声が響いていた。
「山田先生、もさかったよね」
うるせぇ。早速俺の値踏みかよ。
「△△先生みたいに教頭からいじめられないといいけど」
「そうだよね。っていうか絶対、△△先生って教頭先生のパワハラに耐えられなくて死んじゃったんだよね」
「もしかして【ギフト】に依頼してたりして」
「ありえるー」
きゃはは、という無邪気な笑い声が響いてきた。自分たちが大人に属せると信じている子ども特有の強い感情だ。
その推測が当たっていることに、皮肉を覚えずにはいられない。
「哀川はどう思う?」
「可能性は大いにあると思いますっ。安楽死とは一般的に不治の病の方々への救済措置と言われていますが、それは公的な安楽死の場合に限られています。そこで社会的弱者……いじめや虐待、パワハラ、村八分。死にたいけれど自分で死ぬのは怖いと考えた人々へ救いの手を差し伸べる存在が登場しました。それが正義の味方【ギフト】なのです! 非公式安楽死組織【ギフト】は決して表に出てくることはありませんが、△△先生みたいな弱者の味方だと言われていますからねっ」
ハスキーな声が熱弁を
哀川、という名前を脳内の情報で確認する。
哀川アサキ。成績は中の上。
オカルト研究会に所属しているとはあったが、【ギフト】へ傾倒しているという情報も今後のために追加しておこう。
「出た、【ギフト】オタク!」
「今どき村八分って何、村八分って」
常習者かもしれないが、だからこそこのまま思想を語らせておくのも問題だろう。
中断させるためにも扉を開けようとしたときだった。
――ふわっ。
風が吹いた、廊下の奥から。
背筋を真っ直ぐに伸ばした小柄な生徒が、こちらへ大股で歩いてくる。
意志の強そうな大きな瞳が印象的。それが第一印象。俺の黄金の瞳よりも、もっと強い光を放っているようだと思った。こんな人間には、大人でもなかなか出会うことがない。
彼女は俺を一瞥すると躊躇うことなく教室の扉を開けた。
ガラッ。
「みんな、廊下の外まで響いてる。山田先生がびびってるよ」
教室内の空気を鎮める、完璧な発声だった。
「え、俺?」
突然巻き込まれて素で困惑する。俺はびびっているように見えていたのか。
「おかえり委員長。ちょうど哀川の【ギフト】トークが始まるところだったんだよ。先生も聞くー?」
カースト上位とおぼしき派手めの生徒が机に乗ってひらひらと手を振ってきた。声からして、前担任がパワハラで死んだと推測していた生徒だろう。
しかし空気を読んでいるのか読んでいないのか、登場したばかりの小柄な生徒は教壇に立っている赤縁眼鏡の女子へ語り掛けた。
「哀川さん。オカ研会長としての熱意は尊敬するけれど、今、他のクラスはホームルーム中なの」
硬い制止に、笑い声がトーンダウンした。蜘蛛の子を散らすように生徒たちは各々の席に戻る。哀川女史も特に文句を言うことなく教壇から降りた。
派手めの生徒が肩をすくめる。
「委員長は真面目なんだから」
すげぇ。
一瞬にして、教室内の熱が静まった。
隣に立つ委員長と呼ばれた生徒――資料によると名前は
全員が着席したところで、小鳥遊は俺をじっと見上げてきた。
「山田先生。簡単に自己紹介をして、ホームルームを進めてもらえませんか? 一限は教室移動なので手短にお願いします」
「あ、あぁ」
それにしても圧の強い委員長だ。前担任の苦労が想像できる。
教壇に立つと、二十九人の女子高生たちが俺へ視線と興味を向けてくる。事前情報通り、ひとりは欠席しているようだ。
「山田タロウだ。まぁ、適当によろしく。以上」
ぱらぱらとまばらに拍手が起こる。
「それだけですか?」
ところが、難癖をつけてきたのは小鳥遊だった。
「それだけだな。教室移動があるんだろ?」
「信じられない……今度はしっかりした先生が来てくれるって信じていたのに……」
「ドンマイ委員長。あんたの苦労は永遠に尽きないのよ」
がっくりと小鳥遊が肩を落とした。
隣の席の女子が小鳥遊の背中を叩いてにやにやしている。小鳥遊はどうやら真面目すぎていじられる立ち位置にあるようだ。
数人が席を立った。皆、教科書類を手に抱えている。一限目は化学なので東館一階まで移動しなければならない。どんなに早足で歩いても十分はかかるだろう。
すると、出て行く生徒たちと入れ違いで、三十人目の生徒が入ってきた。
資料によると、彼女の名前は
真っ先に、というか唯一反応したのは委員長だった。
「結伊さん! おはよう」
小鳥遊はいったん出て行ったのにわざわざ教室へ戻ってくると、結伊の目の前に立った。
「五日ぶりだね。今日の一限は化学に変更になったんだけど、教科書ある? なかったらわたしが見せるから」
「要らない」
ぴしゃり、と空気を打つような拒絶。
「私は授業を受けるために学校へ来たんじゃない」
「えっ?」
小鳥遊の頭上に大きなクエスチョンマークが浮かんだ。
一方で、結伊は小鳥遊を見ようともしない。
「私に話しかけないでちょうだい」
「……」
口を開けたまま反論できない小鳥遊を、やはり見ることもなく、結伊は鞄だけ置いて教室から出て行った。
教壇から一部始終を見ていた俺は、ひとり取り残された状態になっている小鳥遊へ会話を試みる。
「ドンマイ、委員長。ほら、お前も早く化学室へ行けよ」
「先生」
「何だ?」
「学校へ、授業を受ける以外に登校する理由があるんですか……?」
心底不思議そうに、小鳥遊は俺を見つめてきた。
「まぁ、本人がそう言ってるんだから、あるんだろ」
「教師たるもの生徒に学びの機会を与える存在なのに、その発言は許されるんですか? 教師としての矜持はないんですか?」
「生徒っつっても、ひとりの人間だからなぁ」
「哲学的なことを言っているようにみえて答えになっていませんからね」
睨みつけ、吐き捨てるようにして小鳥遊は小走りで教室から出て行った。
ようやく一人になった俺は、天井を仰ぐ。
「……やっぱりめんどくせぇ、女子高生……」
*
「青っ」
美術準備室の扉を開けると、まるで青い絵の具で塗り潰されたような空間が広がっていた。視覚に対してこんな表現をするのはおかしいが、むせ返るような青色。
すべての壁、すべての道具は濃淡様々な青色に塗られている。石膏像ですら、青かった。
窓際まで歩いて行き、埃を軽く払ってから窓を開ける。
ここは四階。
ぺトリコール女学院は丘の上に建っているので、見晴らしがいい。しかしここから見れば、どんな晴れ空も薄く感じてしまうだろう。
人間の近づく気配がして、数秒後に扉が開いた。
「驚いた。ほんとに【ギフト】って、望みを何でも叶えてくれるの」
現れたのは、結伊ラピスだった。
気だるそうに両腕を組んで入口に立っている。
「その名をあまり口にするな。さっさと中に入れ」
「はぁい」
結伊を招き入れ、内側から鍵をかける。
まるで部屋の主のように勝手知ったる様子で彼女は木製の椅子に腰かけた。当然のように椅子も青く塗られている。
長い黒髪をかきあげると、甘い香りが広がった。
結伊ラピス、十七歳。
教師に首を絞められて殺されたい、今回の依頼主だ。
【ギフト】は依頼主に対して、死ぬまでの七日間を自由に使うことを許可している。勿論、猶予期間なく安楽死を希望する人間もいるが、今回のように接触を希望するケースもある。
なお、その場合、交流をきっかけに依頼主は安楽死を撤回することも可能になっている。安楽死のための組織といえど、実施に対しては慎重なのだ。
「教員免許、あるの?」
「まさか」
「すごいね、【ギフト】って。そんなこともできるんだ」
「あんたがそれを望んだからだろ」
うん、と結伊が呟いた。
「この部屋、私と先生で作ったんだぁ……」
青い椅子を撫でると、結伊の表情が初めて和らいだ。しかしそれも束の間、眉間に皺を寄せる。ゆっくりと感情が抜け落ちた瞳の中心が空洞になる。
「……私は先生に殺されたかったのに。ほんとうの望みは、いつだって叶わない」
風が乱暴にカーテンをはためかせた。
開けたばかりの窓を閉めて俺は結伊の向かいに座る。
「私を理解してくれるのはあの人だけだと信じていた。だから、そう誤解したまま、死にたい」
「俺のことをそいつと思い込んで?」
「できるんでしょ?」
挑発するような上目遣いに、まぁな、と首肯する。
「十七年間生きててよかったことは先生と出逢えたことだけなの」
瞳は濃い灰色。異国の血が強く混じっていることが推測される、彫りの深い顔立ち。
周囲と見た目が違うということはそれだけで疎外の対象になる。俺にも身に覚えのある話だ。
さらに資料によると、結伊は母の連れ子で、母の再婚相手から虐待を受けて児童相談所に保護された過去がある。現在は父方の親戚宅に身を寄せているが、肩身の狭さは想像に
結伊が腕を伸ばして、俺の前髪に触れた。
「お願い。私に、先生を愛させて」
さらり、と前髪が音を立てる。
俺は黒縁眼鏡をデスクに置いた。コンタクトレンズを外してケースにしまう。
「♪~」
口笛を吹くと、結伊の瞳が潤みはじめた。
俺を見ているようで見ていない。彼女の視界に映っているのは、この部屋の、元の主なのだ。
たとえそれが紛い物でも構わないのだという。【ギフト】との契約時に、結伊はそう断言したらしい。
ぎし。
立ち上がった結伊は俺の前に立った。
頬を両手で包み込まれると、長い髪の毛が俺の肩に落ち、影をつくる。近づかれたことで甘い香りをいっそう濃く感じた。
「会いたかった」
冷たい指先に反して、声には熱がこもっていた。
結伊は前屈みになると頬に当てていた両手を俺の首へと回してくる。
「どうして死んじゃったの。私が貴方を殺して、貴方が私を殺す。そして私たちの愛は永遠となる筈だったのに……」
一度口笛を吹いてしまえばしばらく幻覚は続いている。
つまり、結伊が両手で絞めているのは、俺ではなくて最愛の恋人の首なのだ。
「……先生……」
掠れた吐息は、どこか甘い響きを伴っていた。
女子高生の力で扼殺されるほどヤワな造りをしていないので、とりあえず、されるがままになってみる。
「……」
しばらくして、満足したのかは定かではないが、ゆっくりと力は弱まっていった。
次に、腹の辺りを指先でなぞられる。
肋骨を撫でられるような感触に背筋が粟立つ。
幸いなことにそれは長くは続かず、結伊は両腕を俺の背中へと回してきた。
一限の終わりを告げるチャイムが鳴るまで、結伊は俺を離さなかった。
*
偽装教師はつつがなく初日を終えた。
主要教科担当ではないおかげで空き時間が多かったおかげだ。帰りのホームルームとやらも適当に済ませ――
駅へと続く寂れたシャッター街は通勤中の人々でそれなりに混んでいたが、ほとんどの店が閉まっているのでただの通行経路と化している。辛うじて空いている居酒屋へ吸い込まれていくサラリーマンをぼんやりと眺めていたら、背後から声をかけられた。
「山田先生?」
しまった。この俺が背後を取られるとは、完全に気が抜けていた。
もしくはよほど小鳥遊に存在感がないか。
……いや、それはないな。
「小鳥遊か?」
動揺を隠しつつ肩越しに振り返ると、小一時間ほど前に教室で俺を睨んでいた堅物委員長が俺を見上げていた。
その小さな両肩にはずっしりと重たそうな買い物袋を提げている。両方から長ねぎが飛び出ていた。
俺の視線が向かう先に気づいた小鳥遊ははにかんだ。いや、そこで何故照れる。
「駅前のスーパーは毎週水曜日に卵一パックが税込み二百円になるんです。合成液卵ではない普通の卵を食べる唯一のチャンス」
合成液卵というのは卵白と卵黄を溶いた液体ではなく、卵の代替品だ。半透明のペットボトルに充填されていて消費期限を気にせず使うことができる。
食料品メーカー数社から発売されているが、どうあがいても本物の卵には敵わないというのが大半の評価だ。
ただ、本物の卵は一パック五百円はくだらない。庶民にとって鶏卵というのは嗜好品なのである。
この国の食糧事情は年々逼迫しているという。そこで誕生したのが口減らしのための安楽死福祉法だというのは、国民ならほぼ全員が知っている話だ。
つまり見方を変えれば、安楽死福祉法は可視化できない姥捨て山ともいえる。
「先生は自炊派ですか? それとも」
小鳥遊は俺が見つめていた居酒屋へ顔を向けた。
「自炊なんてしたことないな」
「やっぱり」
「逆にお前は家族全員の食事を作ってるのか」
資料によると小鳥遊は公務員の父親と二人暮らしだった筈。しかし本人から聞いた情報ではないので、しれっと尋ねる。
「そうですよ。とはいっても、自分と父だけですが。今日の晩ご飯はふわふわオムレツです」
「へぇ」
小鳥遊は話している相手をじっと見つめる癖があるようだ。
このご時世、大人ですらそんな人間にはなかなか出会わないので少し違和感を覚える。
「何だよ」
「先生って変わってますよね。この話を聞いた大人は大概『偉いね』みたいな社交辞令を口にしたり、興味本位に母親の所在を訊いてきたりするのに」
「あいにく、俺の辞書には社交辞令の項目がなくてな」
「やっぱり」
「お前、さっきからちょいちょい失礼だぞ?」
「失礼を承知で付け加えると、教師ならもうちょっと生徒へ興味を持った方がいいですよ」
言葉の底にある澱みを感じて、俺は眉を顰めた。
「結伊ラピスのことか?」
「はい。わたしの目にはわざと孤立しているように見えるので、心配なんです。また学校へ来たときには話を聞いてあげてください」
どうやら朝のやり取りをまだ気にしているらしい。
ちなみに、結伊は一限が終わるのと同時に帰ってしまった。小鳥遊にとってはさぞ不可解な行動にしか映らなかったに違いない。
……それにしても。
きっぱりと拒絶されていたくせに、小鳥遊にとっては心配の方が上回っているというのか。
こいつは相当なおせっかいか、悪意を浴びたことのないお人好しなのだろう。
「亡くなった前の担任も、あまり結伊さんのことを気にかけていなかったですし……」
小鳥遊が鈍感なのか、他の生徒も気づいていなかったのかは分からない。
そして、小鳥遊にとっても俺にとっても、どうでもいい話でもある。
「ということで、よろしくお願いします。それではまた明日」
頭を下げた小鳥遊は、声をかけてきたときと同じテンションで去って行った。
「卵なんてもう何年も食ってないな」
思わずひとりごちる。
【ギフト】の給料はそこそこ高いので、贅沢をしようと思えばできる。しかし栄養になれば何でもいいので、食事は合成食で済ませることが多かった。
今日だって、コンビニで適当な合成食を買って帰るだろう。
小鳥遊の指摘は正しい。
俺はとにかく、日々の生活に対するやる気がないのだ。
①マザーグースが聞こえない ~非公式安楽死組織・ギフト~ shinobu | 偲 凪生 @heartrium
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