後編 雨と珈琲

 好きな物はなに?


 そう訊かれたら、私はしばらく考えて、思いつく限り好きな物を挙げると思う。


 じゃあ、嫌いなものはなに?


 そう訊かれたら、好きな物よりもたくさん、頭を使わなくたって言えると思う。真っ先に思い浮かぶのは、家族の顔と、自分が育った町のこと。職場の面倒臭いおつぼねさん。コンビニの横で煙草を吸う人。夏の暑さ。月曜日。そして、今日の朝からずっと降っている雨。


 私は、お気に入りの喫茶店のカウンター席に座って、灰色の窓をぼんやりと眺めていた。


千歳ちとせちゃん、今日は一段と浮かない顔をしてるわね」


 女性のマスターがそう言って、目の前にマグカップを置いてくれた。コーヒーの香りと白い湯気が、ふわりと立ち上ってくる。


「今日は雨だから」


 普通に答えたつもりだったけれど、自分でも分かるほど素っ気ない声が出てしまった。


「雨は嫌い?」


 そんな私の言い方にマスターは気分を害した様子はなかった。大人の女性だな、といつも思う。


「うん、大嫌い。嫌なこと思い出すし、考えなくてもいいこと考えちゃうし。髪だってまとまらなくなるもん」


 天然パーマの私に、雨は大敵だ。湿気を吸った髪は、自由気ままにあっちこっちに跳ねてしまう。子どもの頃、「毛玉」と呼ばれたことを思い出す。ほら、また嫌なことをひとつ、思い出してしまった。


 マグカップを取ってコーヒーを飲んだ。苦すぎず渋すぎない温かいコーヒーが、ゆっくりと喉を通り抜けていく。思わずため息が出た。


「こんな日でも、マスターのコーヒーは美味しい」

「あら、ありがとう」


 お店にいるのは、私とマスターのふたりだけだった。普段よく見る常連さんもいない。雨が窓を叩く音と、小さなジャズピアノの曲だけが、お店の中で響いていた。朝から降り始めていた雨は、時間が経つごとに強くなっていた。お店に入った瞬間、ドアの後ろでバケツをひっくり返したように雨足が強くなった。


 私は窓の外を見て、最近アパートのそばに棲みついた黒猫のことを考えていた。


「心配事がありそうね」


 言い当てられてびっくりする。マスターは続けて、


「顔に書いてあるわよ」


と言った。


「最近ね、住んでるアパートの近くに黒猫がみついてるの。トトって呼んでるんだけど。あの子、この雨で濡れてないかなって」


 ちょっと汚れた毛並みの、青い目をした黒猫の姿が頭をよぎる。


「きっと大丈夫よ。猫は、水に濡れない天才だから」


 マスターはそう言いながら、自分にもコーヒーを淹れ始めた。


 なんとなく、初めてマスターと二人きりになった日のことを思い出した。このお店に通い始めて、半年くらい経った頃だったと思う。あの日は、職場と市役所以外で、初めて自分の名前を言った日だった。


 コーヒーを淹れ終わったマスターは、ふと思い出すように私を見た。


「そういえば、千歳ちゃんが来る前にも、よくその席に座っている子がいたわ」

「そうなの?」

「えぇ、そう。男の子でね、いまのあなたとよく似た表情をしていたわ。考え事が多くて、いつも何かに悩んでる子だった」


 マスターは懐かしむようにそう言うと、コーヒーを一口飲んだ。


 不思議な気持ちだ。いま、私が座っているカウンター席。ここに、私が来る前にも、マスターが言う「浮かない顔」をした男性が座っていたという事実が。


「その人は、どんな人だったの」

「そうねぇ……、無口な子だったわ。今の千歳ちゃんと、同じくらいの歳だった。何度もお店に来てくれるから、たぶんここを気に入ってくれていたんだとは思うけど。結局、最後まで名前も言わなかった。ただ、複雑なご家庭だったということは教えてくれたわね。特に、母親との関係に悩んでいたみたい。ある日からぱったりと来なくなってしまったけれど」


 元気にやっているかしらねぇ、とマスターは呟いた。


 私はなんとなく、自分の手元を眺めた。マグカップを包む自分の手。自分で言うのもなんだけど、ほっそりしていて綺麗な手だと思う。爪の手入れも毎日していて、割れていないし先端は丸い。昨夜、マニキュアが綺麗に塗れたから、指先を見ると気分が良くなる。


 ゆっくりと温かいコーヒーを飲んでから、私はふぅ、と一息ついた。


「ねぇマスター。私の話、聞いてもらってもいい? ほとんど愚痴みたいな感じだけど」

「えぇ、いいわよ」


 マスターはそう言って微笑んでくれた。


「えっと、ね」


 断りを入れるようにそう言ってから、私は言葉を探した。


 何から話そうか。


 どこから話そうか。


 どれくらい話そうか。


 どう話したら誤解なく伝わるだろうか。


 またこう考えて、私は上手く話し出せない。昔からそうだった。しばらく悩んで、思い切って最初から全部を話すことにした。


「前に、マスターに話したっけ。私の地元はここじゃなくて、東北の方だって話」

「えぇ、聞いたわ。大学進学で上京してきたって」

「うん。でも、地元を出た理由って、他にもあるんだ。それは、話してなかったよね」

「そうね、聞いていないわ」


 マスターは頷きつつ、でも決して先を急がせたりしない。私が話し始めるのを、ただ待ってくれていた。私はゆっくりと、何を言いたいか、考えながら話すことができた。


「私ね、家族が嫌いだったの。ううん、今も嫌いだと思う」


 ずっと誰にも言わなかったことを、私は思い切って言った。ちょっとだけ声が震える。


「たぶん、世間一般的には、うちって良い家族だったと思う。両親と、お姉ちゃんと私。みんな元気だし、そんなに貧乏じゃないし。お姉ちゃんも私も、大学まで行かせてもらったし」


 そこまで話して、またコーヒーを一口。喉の奥が、微かに震えているのが分かった。


 怖い。私は怖かった。自分のことや、自分の家族のことを話すのが怖かった。コーヒーの温かさが、ほんの少しだけ、その怖さを和らげてくれる気がした。


「私、子どもの時から、いろんなことが下手だったの。自転車に乗るのも、字を書くのも。勉強も運動もダメで、習い事だって続かなかった。それに、人と話すことも下手で……。ほら、今も、どう話したらいいか、すごく考えながら話すから、すごく話すのが遅いんだ」


 頭の中に、両親の顔が浮かぶ。地元の同級生の顔が浮かぶ。


 下手だねぇ、と笑われる。ダメだねぇ、と言われる。もっとちゃんと話せと急かされる。ひとつ思い出す度に、胸の奥がきゅう、っと苦しくなった。


「……お姉ちゃんは私と違って、なんでも上手だった。テストは当たり前のようにクラス一位だし、陸上部でキャプテンだってやってた。お姉ちゃんが努力してたのは知ってるし、それは素直に凄いと思う。それに、お姉ちゃんは、私の事を悪く言ったことは一度もなかった」


 姉のきりっとした顔を思い出した。パッと見はハキハキしてて、私とは正反対な人だった。でも、いつだって私には優しかった。


「でもね、親は違ったし、友達も違った」


 またコーヒーを飲む。少しだけ温くなって、酸味が強くなっていた。マスターは口を挟まず、ただじっと私の話を聞いてくれていた。目が合うと、小さく頷いてくれた。


「でも、色々と下手な自分が悪いと思って、私なりに頑張ったんだ。今よりも、色々なことが上手くできるようになれば、親も、同級生も、地元のことも好きになれるかも知れないって思った。たぶん、最初にそう考えたのは、小学校四年生くらいの時。でも、頑張っても、全然みんなを好きになれなかった」


 周りの事が嫌いなのは良くないと思って、どうにか好きになろうとして、子どもなりに必死だった。頑張ってみた。でも、誰にも伝わらなかったし、みんなを好きになれなかった。


 子どもなりに、それが悲しかった。胸がチクリと痛くなる。


 ゆっくりと息を吸って、私は続けた。


「高校生のとき、このまま一生、地元にいちゃダメだ。ここにいたら幸せになれない。上京しようって思ったの。地元を離れれば、今よりも幸せになれるって信じてた」


 高校生だった私は、理由もなくそれを確信していた。


 勉強すれば、家を出られる。


 勉強すれば、この街から離れられる。


 そうすれば、きっと幸せになれる。


 盲目的にそう信じていたからこそ、受験勉強を頑張れた。


「でもね、全然そんなことなかった。大学に入ってからだって、嫌なことの連続だった」


 田舎町しか知らない私にとって、都会の大学生は外国人みたいなものだった。カルチャーショックと言っても、過言ではなかったと思う。


「ウェーイ、っていう大学生ノリには付いていけなかったし、仕送りもあまりなかったから、生活の為にバイト三昧ざんまい。気付いたら手も髪も荒れ放題だし、同級生と遊びに行ったり、飲みに行ったりすることもできなかった。生活するのに必死だったもん」


 もちろん、学生の本分が勉強なのは分かっているし、勉強そのものは嫌いじゃなかった。でも、周りですごく楽しそうにしている同級生を見ていると、いつも不愉快な気持ちになった。


「私、ここに来ても、人が羨ましくて仕方なかった。地元にいた頃は、なんでも私より上手なお姉ちゃん。大学では、いつもキラキラしてた女子とか、しょっちゅう旅行に行ったりしてた人。私はこんなに生活することで必死なのに、なんでみんな、そんなに簡単そうに生きてるんだって、いつも思ってた。その人たちにも、私が知らない大変さがあったかも知れない。でも、そんなの考える余裕なかったなぁ」


 当時の自分の気持ちを一言で表すなら……「みじめ」。その一言だろうと思う。


 周りと比較して自分を惨めに感じるのは、自意識過剰だ。周りはそんなに気にしていない。そういう言葉を、よく聞くようになった。


 私は、簡単にその言葉を使う人が大嫌いだ。それは、本当にごく一部の、恵まれた強者の理論だったからだ。そして、そんな人の言葉を鵜呑みにして、まるで自分の言葉のように使う、いわゆる「意識高い系」の人も苦手だった。


 そんなことを考えながら、私はまた次の言葉を探した。


「ようやくマシになったのは……、就職してからだと思う。社会人って、大変なこともあるけど、意外と悪いことばかりじゃなかった。嫌な人もいるけど、良い人も多いし。普段は自炊して、たまにちょっといいスイーツでも買う贅沢をして、帰ったらサブスクで映画とか見て。大学生の時ほど、生活も必死って訳じゃないし」


 少なくとも、今はあの頃ほど、生活に追われている感じはしない。大変なこともあるけれど、今の方がずっと穏やかだと思う。


「でも、地元を出る時に考えてた『幸せ』とは、ちょっと違う気もするんだよね。最近の悩みっていうか、考え事というか」


 それで、私の話は終わりだった。いつの間にか、手元のマグカップのコーヒーはなくなっていた。ずっと聞き役だったマスターのコーヒーは、私よりもずっと早くなくなっていた。


「そう、難しいわね」


 マスターは小さく頷く。そして、もう一度繰り返した。


「とても、難しいことよね」


 まるで、自分の実感を確かめるような言い方だった。


 マスターはマグカップの縁を撫でながら、考えるように目を伏せていた。今度は、マスターが言葉を探していた。マスターがそうしてくれたように、今度は私が、彼女の言葉を待っていた。


「違う場所に行けば、幸せになれる。私もそう考えて、必死になっていた時期があるわ。ちょうど、千歳ちゃんくらいの時だったかしら」


 マスターは伏せていた目を私の方へ向けた。綺麗な二重瞼の奥で、どこか遠くを見ているように瞳が揺れていた。目の前の私を見ながら、ずっと昔のマスター自身を見ているんだと分かった。


「でも、現実はそうじゃないのよね。ここではない、違う場所に行っても、そこではまた別の現実がある。辛いことも、逃げ出したいことも、これまでと同じように起こる。もちろん、程度の差はあるでしょうけど、どこへ行っても変わらないんだと思うわ」


 マスターが静かに笑う。その表情が、どこかすごく寂しそうでびっくりした。


「あなたも、その現実とずっと戦っていたんでしょうね。今も、その気持ちと向き合い続けてる。あなたは、とても立派よ」


 その時、ふと私の中で、何かがストンとに落ちた。


 幸せになりたい。それは確かにそうだけど、ちょっと違う。私が欲しかったものは、もう少し違う形をしていたんだと気付いた。


 私は、こんな話下手な私でも大丈夫なんだと思いたかった。こんな私の話でも、ただ誰かに聞いて欲しかった。気持ちを、受け止めてほしかった。ただ、それだけで良かったんだ。


「あら、雨、上がったみたいね」


 マスターがそう言って、窓に目をやった。雲間から漏れた光が、窓を照らしている。昼下がりの鮮やかで柔らかい光が、まっすぐに伸びて筋を作っていた。


「マスター。お勘定かんじょうお願い。それと、お話聞いてくれてありがとう。ちょっと気が楽になったかも」


 マスターは、最初と同じように微笑んでくれた。


「いいえ、私こそ。あなたを教えてくれて、ありがとう」


―――


 喫茶店を出ると、私はまっすぐアパートに帰った。エントランスの前は、あちこちに水溜りができている。濡れたブロック塀の上に、友達の黒猫の姿を見つけた。


「トト」


 私が呼ぶと、その黒猫は軽やかに地面に着地して、私の近くへやってきた。すっかり晴れた空のような青い瞳がキラキラしている。トトの顎を撫でると、ゴロゴロと喉を鳴らしていた。


 ふと、思いつきのような考えが頭に浮かんだ。


「ねぇトト、うちに来ない? 一緒に暮らそっか」


 トトは私を見て、一声だけ鳴いた。それが、「もちろん」という返事のように聞こえた。


 さて、そうなれば、まずはペット可の物件を探さなきゃ。私はトトを撫でながら、これからのことを、これまでよりもちょっとだけ、楽観的に考えていた。

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シアワセサガシ 藤野 悠人 @sugar_san010

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