ピンクベージュを、下唇に。
池田春哉
ピンクベージュを、下唇に。
彼女の物心がついたのは四歳の頃だった。
――おとうさん。
彼女は、ソファに座ってテレビを見る父親に呼びかける。
父親は振り向かない。
――ねえ、おとうさん。
彼女は呼びかけるが、父親は動かない。
……どうして?
何故父親は自分を無視するのか、彼女は意味が分からなくて涙が零れた。膝から崩れて、尻餅をつく。
すると、父親が振り向いた。
「どうした
慌てて駆け寄る父親の心配そうな声が響く。テレビの中で笑い声がする。
――自分の泣き声は、聞こえなかった。
***
先天性総合失声症。
彼女は生まれつき、声が出せなかった。
通常、人間は声帯を震わせることで声を出す。
けれど彼女は脳からの信号が声帯へ届かない体質だった。声帯を動かすことができないため、声が全く出ない。
しかし五歳の理香はそのことをあまり気にしなかった。
声が出ないなら他の方法を探そう。違うやり方でおとうさんに話しかけるんだ。
様々な窮地を知恵と努力で乗り越えていく冒険アニメにハマっていた彼女のモチベーションは高かった。
まず彼女は文字を覚えた。綺麗な文字を速く書けるように練習を重ねた。
漢字もたくさん覚えた。少しだが、英語も分かるようになってきた。
それから、よく使う言葉のストックも作った。
「はい」「いいえ」「わかりません」「どっちでもいいです」「たすけてください」「おかしはありますか?」
他にも数語を単語カードにまとめて、すぐ使えるようにいつも持ち歩いた。
「これも入れとけ」
父親がそう言うので、しぶしぶ「おとうさんだいすき」も入れておいた。
***
しかし速く書くにも限界があった。
決められた文章なら話すスピードで書けるが、会話の場合はまず何を言うか考えるところから始まるのでやはり遅くなる。
書くのが遅いせいで、会話のリズムを止めてしまうのが嫌だった。
十歳の理香は悩んだ。
どうすればもっと速く書けるようになるだろう。
その悩みを父親に相談すると。
「じゃあこういうのはどうだ」
そう言って取り出したのは父のスマートフォンだ。
彼女はこのとき初めてスマートフォンのフリック入力を知った。
これは画期的だ、と彼女は感動した。
予測変換という便利な機能で入力時間も大幅に短縮できるし、文字も読みやすい。しかも電池の続く限り文字を書き続けられる。
鉛筆の芯が折れて困るということがないのだ。これはすごい。
「じゃあ来週の誕生日プレゼントだな」
その言葉に理香は喜ぶ。
そして同時に父親の頭に数本の白髪を見つけ、おとうさんは何歳だったかな、と思った。
***
理香は地元の中学校に入学し、十三歳になった。
彼女の事情を知る担任は、理香のスマートフォンの常時使用を許可してくれ、周りの教師や生徒にも説明してくれた。
おかげで理香は虐められることもなく、学校生活を送ることができた。
ただ、ひとつだけ彼女には嫌なことがあった。
声が出なくてかわいそう。
ある女の子からそう言われたのだ。
理香にとって、声とはスマートフォンと同じだった。
それがあれば確かに便利そうでいいな、とは思う。でもそれを持っていなくても悲劇と嘆くこともない。
それなのに、私をかわいそうと言ってくる。
初めから持っている人から見たら、そう見えるのかもしれないけれど。
それが彼女は気に入らなかった。
***
これまで声が欲しいとは思わなかった理香だが、十六歳のとき、一度だけ思った出来事がある。
クラスメイトに告白されたのだ。
「返事はゆっくりでいいから」
彼の言葉に頷いて家に帰った理香は、その夜「好きです」と「ごめんなさい」の紙を机に並べて悩んだ。
正直に言えば、彼のことは悪く思っていなかった。
普段の様子を見ている限りでは、彼はみんなに分け隔てなく心を配れるいい人だ。頭も良くて話もうまい。隣にいれば、きっと楽しいだろう。けれど。
「好き」は声で伝えたい。
理香はそう思ってしまったのだ。
後日、彼には「ごめんなさい」の紙を渡した。
「気持ちを伝えられただけでも良かったよ」
両手で「ごめんなさい」を受け取った彼は、そう笑って去っていった。
嘘だな、と理香には分かった。自分に気を遣ってくれたのだろう。
やっぱり彼はいい人だった。
***
理香は十七歳になるとバイトを始めた。
市役所の会議の議事録を取るバイトだ。人の話す速度で正確に読みやすい文字を書き、会議中は無言を守る。
幼い頃から文字でコミュニケーションを取っている彼女にうってつけのバイトだった。
初めての給料日はそれはそれは嬉しかった。
ほうら見てごらん、声が無くともお金は稼げるのよ。
中学からのトラウマに終止符を打った瞬間だった。
あまりに嬉しかったので、父親をファミレスに連れていき、一番大きなステーキをご馳走してあげた。
「世界一うまい」
そう言ってガツガツ肉を頬張る父親を見るのは悪くなかった。
***
高校を卒業し、十九歳になった理香は国立大学の工学部に進んだ。
彼女は世界を驚かせる発明がしたかった。初めてスマートフォンを知った時の、あの感動が忘れられなかった。
自分も、誰かにあの時の感動を与えられるようなものを作りたい。
それが彼女の夢だった。
理香の選んだ大学はここからかなり遠方にあるので、入学に伴って一人暮らしを始めることにした。
それを報告したとき、父親はとても心配そうだった。
「大丈夫か、一人で」
昔よりも随分白髪が増えたな、と理香は父親の頭を見る。
「おまえは化粧映えする顔をしてるから心配だ」
「それ褒めてるの?」と入力したタブレットを見せながら彼女は苦笑した。
***
二十四歳の理香は研究室の白い机に突っ伏していた。周りには資料や文献が乱雑に散らばっている。
理香は大学を卒業後、他校の大学院に進んだ。彼女が大学で進めてきた『声』の研究分野に特化した大学院に入り、より高度な研究をするためだ。
しかし研究は思ったように進まず、彼女はここのところ徹夜続きだった。
半分眠ったような意識の中で、ふと実家の父親を思い出す。
一番に頭に浮かんだのは、自分を心配そうに見つめる顔。思い返せば、父の心配する表情ばかり見てきたような気がする。
それでも、思い出す父親の顔はいつも正面だ。
今までずっと父は私を見てくれていたのだろう。
そしてそのおかげで、私は今ここにいる。
理香は揺れる頭を持ち上げてパソコンに向かう。光る画面が眩しい。
笑ってほしいな、と彼女は思った。
***
「記念すべき『第一声』は誰に贈りたいですか?」
美麗なドレスを纏った司会の女性が笑顔で言う。
大学院卒業後も研究員として働きながら研究を続けた理香は、三十二歳で『吐息を声に変換するルージュ』を開発した。
そのルージュには空気振動を音声に変える微細なAIが多数埋め込まれており、使用者の会話時の吐息を読み取って合成音声に変換するというものだ。
この発明は世界中の多くの賞を受賞し、たくさんの失声症で悩める人たちを救うことになると各界で絶賛された。今後はノーベル賞へのノミネートを約束されている。
そして、今日。
アジアを代表する科学賞の授賞式。
その壇上で、理香はマイクを自分の口に近付ける。
「おとうさん」
柔らかな声が会場に響く。
彼女に呼ばれて、新調したての黒いタキシードを着た父親は立ち上がった。
AIによって変換される声質は『ルージュの色』と『唇への塗り方』で変わる。
ピンクベージュを、下唇に。
それが理香の好きな組み合わせだ。
そのお気に入りの声で、彼女はやっと伝えられた。
「――だいすき」
会場が静まり返る。
スポットライトが父親を照らす。
総白髪の父は、ぼろぼろと大粒の涙を流していた。
「あれ、……そうじゃないんだけどなあ」
これから歴史に名を遺す彼女は、そんな第二声とともに苦笑した。
(了)
ピンクベージュを、下唇に。 池田春哉 @ikedaharukana
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