第2話
「Goede morgen iedereen! Ik heet Waka Madzuru Aangenaam. Ik kom uit Leiden……」
まだエアコンの冷気が回り切らない残暑の日差しに蒸した教室で、真剣な面持ちの転校生が話し始めた瞬間、クラス全体の時間が一瞬止まったような気がした。俺は一年B組の窓際最後尾の座席に座っているから、クラスメイト達みんなが驚いている様子がよく見える。
英語が苦手な俺だけが理解できていない訳ではないということはやっぱり英語じゃないんだな。転校生は長く流れるような艶のあるストレートの黒髪に、夏休み明けだというのに白い肌、そして明らかに日本人の顔ではあるが目鼻立ちはくっきりとした少し大人びた容貌をしている。夏服ブラウスにリボンタイとタータンチェックのプリーツスカートを組み合わせた帝東の女子制服も着こなしていて見かけは普通の日本のJKだ。そんな和風の美少女が自己紹介で耳慣れない言語を話しだしたのだからびっくりするのも仕方ないか。
転校生の隣で自己紹介を聞いていた担任の式部清子(しきぶせいこ)先生も慌てた様子で自己紹介を止める。小柄で童顔だからたまに見せる慌てぶりがかわいらしい。
「ちょっ、ちょっと待って真鶴さん! あー、Wait! Please wait! えっとー、Would you introduce yourself in Japanese? One of the class doesn't understand even English.」
おお、先生は古文担当なのに英語話せたんだな。うちの学校は帝東国際学園中学校高等学校なんて大層な名前がついていると思っていたけど本当にすごかったのか。
転校生はと言えば、先生から英語で話しかけられたことで、クラスの連中にクスクスと笑われていた。さすがに英語が嫌いな俺だってジャパニーズくらいは分かるから、先生が「日本語で!」と言ったんだろうなということくらいは想像がつく。何名か俺の方をチラチラ振り返りながら笑っているが、何がおかしいのだろう。変な言葉で話しておかしいのは転校生だろうに。転校生も悔しいのか先生に何やら言い返していた。
「but you told me I can introduce myself freely!(でも『自由』に自己紹介して良いって言ったじゃないですか!)」
「あ、あー。I'm sorry. I didn't mean that you can speak any languages you want. Would you introduce yourself in Japanese again?(ごめんなさいね。好きな言語で話して良いって意味じゃなかったの。日本語でもう一度自己紹介してくれる?)」
何やら先生から説得されると、転校生は羞恥からか顔を赤くしながら、「あ、う……」と声にならない声を上げていた。そんな様子を見ると俺も自然と心中で応援してしまう。
クラス中から笑われる悔しさは俺もよく分かる! がんばれ!
俺の応援が届いたのか、彼女は羞恥と動揺が入り混じったような表情から一転して瞳に再び気の強そうな光を灯して話し出した。
「おはようございます。私は真鶴和歌(まづるわか)です。はじめまして。私はNetherlandsのLeidenから来ました。私はみんなと友達になりたいです。どうもありがとう」
真鶴さんが自己紹介を終えると、桜に例えるならば六分咲きといった程度の拍手が起きる。
「真鶴さんありがとう。みんな聞いて。真鶴さんはずっとお父様のお仕事の都合で海外生活していて最近日本に帰って来たの。まだ慣れない事もあるから優しくしてあげてね! 席はね……、米沢英紀(よねざわひでき)君手をあげて! ほら、あの手を挙げた彼の隣よ!」
先生に促されて手をあげた俺の方に脱力した歩みで真鶴さんがやって来た。最後方の席は俺と真鶴さんの二席しか無いから、自然と視線が俺に向いた。疲れた表情をしているな、と彼女の表情から俺は思った。先生が手際よく来週からの予定について確認していく傍ら、俺は同じ言語を通じたトラウマを抱える者として励まそうかなと思いついた。席に着いた真鶴さんに重苦しくならないように、あえてちょっと茶化した感じで話しかける。
「ねえねえ、真鶴さん、あれ最初なんて言ってたの? もしかして自分の意思に反して右手が話しちゃったみたいな中二系のオリジナル言語? エルフ語?」
まさか話しかけられるとは思っていなかったのか怪訝そうな顔で俺を見た。
「何? ちゅうに? 分からない……」
真鶴さんは連絡事項を話す先生を気にしながら小さく答えた。
「ほらさっきの自己紹介だよ。うがいしてるみたいな音出してたじゃん。あの発音自分で考えたの? そこまで考えんのすげぇよ。俺も中学の頃にラノベの影響で自作のルーン文字を作ったことがあるけど流石に発音までは考えなかったよ」
「らのべ? るーんもじ? ごめんなさい……。私、分からない……」
「え? あぁごめん、流石に中二病でもそこまでやんないよね。そこまでの邪気眼がいたらマジでドン引きだよな。ごめんごめん。で、あれ何語だった――」
「Ruhe! Ich verstehe gar nicht was Du sagst! Sprich mir langsamer!(ドイツ語・黙って! 何を言っているか分かんないの! もっとゆっくり話して!)」
机を叩いて立ち上り、ついに真鶴さんは大声を上げた。
「米沢君、女の子からかうんじゃないの! HRは終わってないんだから話を聞きなさい!二学期初日からこんな注意させないで! もう高校生でしょう!」
こちらに気付いた先生がすかさず俺を注意する。
「うわー、女子いじめとかルーさんエグいわー。いくらイケメンでも意地悪だとモテないぞー」
「でもルーさん日本語じゃないと分かんないよー」
こんな時に黒歴史由来のそのあだ名で呼ぶなよ! 黒歴史記録を更新している時にそれで呼ばれたくねぇよ! こうツッコミたかったが何とか吐き出さずに飲み込む。クラスメイトがクスクスと笑う中、俺の心は怒りから後悔と羞恥心がない交ぜになった感情に塗り替えられる。真鶴さんの様子を伺ったが、HRが終わるまでついに俺の方を向くことは無かった……。
今日は始業式だけなので、俺を含めた一部の補習組を除けばHRが終わるともう解散だ。帝東では部活指導を外部委託しているため、教科指導に熱心な教師が多くて進学率も良い。つまり赤点保持者は熱心な教師による補習を受けられるということだ。俺は一言彼女に謝りたいと思っていたものの、真鶴さんに興味を持ったクラスメイト達に早くも囲まれて質問攻めに合ってしまっていた。そして無情にも補習の時間が訪れる。
「ごめんなさい……。私、分からない……」
俺にそう言った時の彼女の瞳には自己紹介のときの力強さは無かった。確かにそう感じたにも関わらず俺は軽口を続けてしまった。その後悔と罪悪感は晴れぬまま俺は補習が行われる教室に去って行った。まったくなんであんないじる様な話し方をしちまったんだろう……。
補習を終えた後、友人が待っている教室に行こうと廊下に出たまさにその時、補習用教室の向かいにある生徒指導室のドアが開く。真鶴さんだった。先ほど謝るタイミングを逸した相手が今まさに目の前に現れたので、とっさに声をかけようかと思った。しかし、言葉は喉から出るすれすれだったのに、吐き出すことができなかった。彼女は眼を腫らして鼻をすすっていたからだ。眼の周りは乾いていたので泣いているというより泣いていたという雰囲気だ。
「ちょっと!」
我に返ってさっき発することが出来なかった声をかけたが、俺の姿を見るなり彼女は顔を伏せて登校口がある一階に降りて行ってしまった……。相当嫌われたっぽいな。諦めて、俺も友達がいる三階に行こうか。と思ったその時、普段とは違って沈んだ表情の式部先生が生徒指導室から出てきた。彼女に気付くなり俺は反射的に声をかける。
「あ、先生、今真鶴さんに謝ろうとしたんですけど逃げられちゃって……。俺……、真鶴さんをからかい過ぎちゃいましたかね……」
「え? 米沢君? ああ、補習だったのね……。違うの。あなたが悪いんじゃないの。ああ、いえ、からかったのは悪いから、来週にでも真鶴さんに謝った方がいいとは思う」
「え? 違うんですか? 何があったんです?」
俺が訊ねると先生は悔やむようにため息をついて事情を教えてくれた。どうやら俺が補習の為に教室を出た後にそれは起きたらしい。HR後に彼女の席に集まっていたクラスメイト達はおおよそ俺が抱いたのと同じ疑問について質問していたそうだ。例えば――
「最初に話していたのは何語? フランス語?」とか、「英語ペラペラなの?」とか、「ルーさんにキレた時に話していたのって何語?」とか、「何か国語話せるの?」などなど。
真鶴さんは知らない言葉があればその都度必死に聞き返して、「あれはオランダ語です」とか、「ペラペラは何の意味? ……そう、私は英語で生活ができます」とか、「キレるは何の意味? ……そう、彼にドイツ語で怒りました」とか、「私はオランダ語と英語とドイツ語とフランス語と日本語と、あと少しだけイタリア語とスペイン語を話します」 などと懸命に答えていたそうだ。しかし、「米沢君程じゃないけど英語は苦手だから英語が上手でいいな。今度教えてくれる?」と女子から褒められた時に激しく動揺し、挙句泣き出したというのだ。ふと疑問を感じた俺は思わず先生の話に口をはさんだ。
「えっ? 褒められたのに泣いたんですか?」
「彼女ね、実は一学期は京都の女子高に通っていて、その頃を思い出しちゃったみたい。京都の人は皮肉屋でね、他人を褒めるときは内心では憎たらしいと考えているものなのよ」
「本当ですか? でも俺らは京都人じゃないですよ」
「彼女にとっては私達も京都人も同じ日本人よ。はぁ……、先生ダメね。最初に日本語で自己紹介してって言っておけば良かったのに……。転校初日に生徒を傷付けるなんて……」
「いや、もう起きちゃったんだし仕方ないじゃないですか。これからどうするか考えましょうよ。まあ、まず真鶴さんに謝らないといけない俺が言うのもなんですが……」
俺がそう言うと自嘲気味な表情をしていた先生の表情が少し和んだ。
「そうね、米沢君の言う通りね。米沢君は短気にさえ気を付ければ明るくてみんなからも親しまれやすい良い子だと思ってる。期待しているから真鶴さんと仲良くしてね」
「はい……。では、また来週……」
そう言って俺は先生と別れた。普段は満ち溢れる明るさと自信でその小柄な体が一回り大きく見える先生だったが、今の姿はむしろ現実よりも小さく感じられたのだった。
その後、教室でオタク友達数人と合流して久しぶりに渋谷のゲーセンに繰り出したが心から楽しむことはできなかった。俺とは違って教室で一連の出来事を目の当たりにしていた友人達も気持ちは同じだったようで、ゲームを数度プレイしただけで俺たちは解散して帰路についた。
渋谷から歩いて自宅に着く頃には空は茜色に染まりつつあった。とはいえまだ残暑がひどい九月上旬。俺は歩きながら制服のネクタイを外して酔っ払いの様な格好で自宅の門を開ける。
あー、麦茶飲みたい。風呂入りてぇ。そんな欲求を内心で愚痴りつつ玄関に入ったとき、ふと靴の多さに気付いた。そしてリビングからは女数人の話し声が聞こえる。声からして母だけでなく姉もいるみたいだ。それに、来客だろうか……?
俺の母、米沢法子(のりこ)は人付き合いが上手いのか、よく自宅に友人が集まってお茶をしている。だからおば様方の来客には慣れている。今日もそうだと思い、俺は挨拶をしながらリビングのドアを開けた。
「こんにちは――――って、えっ?」
そこには予想外の人物がいた。真鶴さんだ。彼女も俺を見て驚いた表情をしている。
「あら英紀、寄り道するって聞いてたけど早かったわね」
母が俺に何か話しかけたが、俺は思考がついていかずハニワみたいな顔をしていたと思う。
「お前なんでここにいんの?」
「あなたも!」
「あら、あなたたちもう会ったの? あなた、友達は多いんだから和歌ちゃんを助けてあげるのよ」と既に顔見知り同士だと察した母が俺に声をかける。
「てかあんた女の子相手にお前呼ばわり? そんなだから告白された女子にすら振られんのよ」
続いて治姉(はるねえ)と呼んでいる医大一年の姉、米沢治佳(はるか)がトラウマをメスでえぐる様な発言で割って入る。
「あら、あなたが英紀君? 大きくなったわねぇ」
もう一人の中年の女性はよく似た気の強そうな雰囲気から察するに真鶴さんの母親だろうか。なんだか俺を知っている様な口ぶりだ。俺が誰か分からない様子を察してか、母さんが紹介をしてくれる。
「英紀、こちらは和歌ちゃんのお母さん、真鶴競子さんよ。オリンピック出場経験もある体操選手だったのよ」
「あ、はじめまして。米沢英紀です。真鶴さんとは今日同じクラスになって会いました。オリンピック出場ってすごいですね。プロのスポーツ選手と話すのは初めてですよ」
「はじめまして。まあメダルは取っていないし、今は教えてもいないからプロでもないのよ。英紀君が小さい頃によく和歌と遊びに来ていてね、治佳ちゃんは覚えてくれていたみたいだけど……、でも四歳だったし覚えてないか。今日は和歌が初日から失敗したって泣くもんだから法子さんと治佳ちゃんに相談しに来たのよ。英紀君も同じクラスならちょうど良かったわ」
「ママ!」と娘が羞恥の声をあげて制止しようとするが競子さんは構わず続ける。
「なんだってオランダ語で自己紹介したんでしょ。バカねぇ、そんなの通じる訳ないじゃない。ここは東京! 長崎の人だってもう話さないわよって話をしてたのよ」
呆れ笑いをしながら話す競子さん。
「それはパパが今度の学校は外国語ができる生徒がたくさんいるって言ったから!」
「まったく、あの人に説明させた私がバカだったわ。日本で外国語って言ったら英語なのよ。あげくからかってきた男の子にドイツ語で怒ったんでしょ。あっはっはっ! こら面白いわ!」
「競子さん、和歌ちゃんは気にしてるんだからそんなに笑わないで」
治姉が普段俺には見せない慈愛に満ちた表情で競子さんを落ち着かせる。
ここで会話の間を察した俺は、謝る機会を逃すまいと割って入って競子さんに話しかける。
「あの、そのからかった男子なんですけど、それ俺です……。すみません」
そして今度は真鶴さんに向き直って続ける。
「あの最初のオランダ語だったかな? 自己紹介のときに真鶴さんが笑われているのを見て、気分を紛らわせてあげたいと思ったんだ。俺も英語ができなくてよくバカにされるからさ、言葉で失敗する人の気持ちが分かるんだよ。でも、真鶴さんが俺の言うことを分かってないと気付いたのに悪ノリを続けてしまって……。緊張していたんだろ? なのに……。ごめん……」
そう言って俺は頭を垂れた。するとお世辞にも好意的には見えない態度で俺から視線を外していた真鶴さんがきょとんとした表情でこちらを見た。見開かれた長いまつ毛の目にドキリとしてしまう。
「ん? どうした? 俺変なこと言った? 一応まじめに謝っているつもりなんだけど……」
彼女の態度に釈然とせず俺が問いかけると、真鶴さんはハッと何かを察した様子で口元に右手を当てると話し出す。
「あ、あの時クラスメイトが笑っていたのは多分私じゃない。あなたよ」
「へ? なんで?」
「あの時先生は『Would you introduce yourself in Japanese? One of the class doesn't understand even English』って言ったの」
英語の部分が意味不明で俺の顔はハニワと化す。真鶴さんの表情が疑問から確信に変わる。
「だから! 先生は『日本語で自己紹介してくれますか? クラスの一人は英語さえ分かりません』って言ったのよ! だから私のことじゃない」
そこまで聞いた時点でその場に居た年上女三人が吹き出した。特にご満悦な様子なのが弟の心をメスで切り刻むのが大好きな治姉だ。
「ぶっ、あっはっはっはっはっはっ! あっ、あんたっ! 自分がバカにされているのに気付かずに他人の心配をしていたの? 何それ! 面白過ぎる!」
「ぷっ、くっふふふっ、治佳、笑っちゃだめよ。でも『言葉で失敗する人の気持ちが分かるんだよ』って言って全然分かってないわね。ふふふっ」とは言いつつも傷心の息子を笑う母上。
「あああっ、家の女どもはうるせえな! 治姉だって大学に入っても英語やんなきゃいけないのって愚痴ってたじゃねえかよ。母さんも洋画借りる時は絶対に字幕版を拒否るくせに!」
「笑ったって良いじゃない。嘲笑う門には福来るっていうでしょ?」
「笑う門だろ! 人様を嘲笑って福来るなんて性悪すぎだろ!」
「そりゃそうよ。だから私の辞書にもただし弟に限るって注釈されてるのよ」
「編集に悪意しかない!」
大爆笑で乱れたセミロングの髪を手櫛で整えつつ余裕の笑みで俺をあしらう治姉。俺も負けずにつっこむとまた家族の女二人が笑い出す。
「ぷっっ、くっあはははっ。あなたがクラスの一人だったなんて。あはははっ!」
つられてついに真鶴さんも笑い出した。
「ちょ、おま、真鶴さんまで笑うなよ。人が心配してたってのに!」
「はぁはぁはぁ、ふっふふっ、ふぅ……、ごめんなさい。笑ったのは謝るけど、からかってきた時のあなたは意地悪だったからこれでお相子ね。謝ってくれてありがとう」
真鶴さんは安堵した表情をして瞳に溜めた涙を拭ったかと思うと、ふと小悪魔じみた笑みを浮かべて再び話し出す。やだ、この表情治姉そっくりだ。
「……いいえ、やっぱり違う。あなたが私にどんな言葉で意地悪したか私は分からないから、その意味が分かるまでお相子じゃない」
「そうね和歌ちゃん、こいつにしっかり落とし前つけさせてやって。英紀くん良かったでちゅねぇ。こぉんな可愛い子に自分がどんなにゲス野郎か説明できるんだから」
「治佳お姉ちゃん、落とし前って? ゲス野郎って何?」
「え? あー、落とし前つけるは責任を取ることで、ゲス野郎は……えーと、サノバビッチよ」
「ふふっ、お姉ちゃん、それ、自分のお母さんもバカにしているわ。ほら、こう書くから」
真鶴さんが鞄から付箋を出して治姉に書いて見せる。
「えっ? マジで? Son of a bitch? あぁ! お母さんごめん! って、おい弟! 何ニヤニヤしてんのよ! 解剖するわよ!」
治姉が怒気半分、冗談半分といった表情で失態を、小ばかにする俺に突っ込むとまた笑いが起きた。俺がリビングに入った時よりも雰囲気はずいぶん明るくなって姦しくなっていた。ひとまず謝罪は成功したと感じ、汗を流したいと口実を伝えてリビングを去ろうとする。
「待って英紀君。さっきはごめんなさい。でも久しぶりにこの子が笑ったのを見られて良かった。どうも私はアスリートとしての癖が抜けなくて根性論しか話せなかったのよ。ありがとう」
去り際に俺を呼び留めた競子さんも幾分安心したような表情になっていた。
「ただいまー! 英紀いるか?」
俺がシャワーから上がって脱衣所で部屋着用のスウェットを着ていると父である米沢文明(ふみあき)の声がした。俺は何事かと思って髪も乾かぬままリビングに向かった。
「父さんどうかした?」
父さんに呼ばれてリビングに行くと父さん以外にもう一人、面子が増えていた。父さんと同じか少し上くらいに見える中年男性だ。
「おお! 英紀いたか! こちら、言語学者の真鶴教英(のりひで)先生だ」
興奮気味に来客の紹介をする父親と自分の感情の温度差に多少戸惑いを感じながらも俺はその男性に向き直った。
「はじめまして。米沢英紀です。真鶴、ということは和歌さんのお父さんですか」
「競子さんにも同じことを言われました。真鶴さんの家族とうちってそんなに付き合いが長かったんでしょうか」
「ああ、そうだよ。十二年前に私がオランダの大学に行くまではよくお付き合いしていたよ。文明君とは教育関連の仕事という点で共通していて話題も合ったしね」
「そこでだな、英紀! 父さんがさっき教授に頼み込んで、今後毎週土曜日にお前に英語の特訓をしてもらうことになったんだ。外国語習得法研究の実績をヨーロッパで積み上げて来た方だ。これで苦手な英語を克服できるぞ!」
「おいおいおい、父さん! なに勝手に決めてるんだよ。教授ってことは大学の偉い人なんだろ? 俺みたいな落ちこぼれよりも英語が好きで得意な人に教えた方がいいだろ」
「私は全然構わないよ」
「ええっ、なんで? 俺は英語嫌いなんですよ。教授が好きな外国語が嫌いなんですよ? あ、すみません。失礼で申し訳ないんですけど父さんにいくらで頼まれたんですか。前にも高い個人家庭教師を付けられたけど全く続かなかったんですよ」
「英紀! お前は本当に失礼なことを言うな。先生、すみません」
「問題ない。英紀君、お金はとらないよ。好きな人に教えるのもいいけど、嫌いな人を変えるのも面白そうじゃないかい? それに私も文明君から相応の対価を貰うから公平な取引だよ」
「えっ? 無料なんですか? それで父さんは何をするんですか?」
「君のお父さんには和歌の日本語の先生になってもらうんだよ。旧知の仲で信頼しているし国語の教員免許も持っているからこれ以上ない家庭教師だよ。法子さんも司法試験合格者で論理的な説明に長けているしもう非の打ち所がないよ」
「ということで英紀、毎週土曜日の夜に教えて頂くことになったから頑張るんだぞ。早速今日からどうだ? 晩飯の後にでも行ってこい!」
「はぁ? 晩飯の後って、もう今六時だぞ! いつも通り七時に飯食ってから行ったとしたら時間遅くなんないか?」
「それは大丈夫だ英紀。隣だから」
またハニワ顔になった俺の口から「へ?」と間抜けな声が漏れる。
「ほら、毎朝軒先を掃除しているお隣のおばあちゃんがいるだろう? あのお宅だ。九時にレッスンを終えても補導の対象にはならないから安心だ! はっはっはっ!」
「なん……だと……?」
思わず俺は呟いた。小学生の頃から母親に「ほら、ご挨拶しなさい」と言われ続けてきたから疑問を持たずにやってきていたが、そういうことか、付き合いがあったのか……! 反論をするタイミングを損なった俺は束の間の現実逃避のために二階の自室へと上がっていった。
真鶴一家と出会った翌朝、まだ俺の心は晴れていなかった。結局昨日はレッスンを受けなかったからだ。教授が娘から転校初日の話を詳しく聞きたいと望んだので初回のみ日曜日にすることになったのだ。言語学教授による直々の英語レッスンを控えた最後の朝食を粛々と終えると、厳かな態度で合掌しながら母に告げる。
「お母さま、最期のお食事、おいしゅうございました」
「出撃前の特攻隊みたいな挨拶するんじゃないの! あんた歴史は得意なんだから同じ要領で英語も覚えればいいのよ。ほら真鶴さんのお宅に行く準備なさい」
「では逝って参ります。どうかお元気で……」
尚も毒を孕んだ冗談で絡む俺を母は手でシッシッと払いのけて俺に出撃を促した。俺はやむなく出撃の時を待つために自室に戻る。とはいえ素直に嫌いな英語の勉強の準備などできるはずもなく、俺はプレイヤーステーションの電源を入れた。サッカーゲームなら時間を超過しないだろうと考えて、一試合だけオンライン対戦をしようと思ったのだ。しかし、現実を見ない者にこそ不運は続くもの、今回対戦した相手がめっぽう強くて大差で完敗してしまった。
「くそっ! ゲームでも俺は負け犬なのかよ!」
ゲームにすら負け犬の烙印を押されてしまった。そう感じてボヤいたその時だった。自ら発した言葉の意味を自覚して俺はふと閃いた。時間もぼちぼちちょうどいい、俺は急いで思いついた秘策の準備をすると、補習セットが入った鞄を持って自宅を出た。
自宅を出た時、ちょうど真鶴さんが我が家の玄関にたどり着いたところだった。彼女はブルーのロングスカートに白い薄手のフリル付きブラウスを合わせた服装で、左手には今脱いだばかりであろう麦わら帽子を持っている。
お互いに気付いて反射的に『あ』とハモって声をだす。俺は続いて「君のお家にお邪魔します」と声をかけた。しかし、真鶴さんは挨拶が耳に入らぬ様子で俺の胸元を凝視していた。そして視線を上げると心底哀れな者を見るような目で俺を見て、そして言った。
「あなた、その英語の意味は分かっているの? 英語で負ける為に生まれたって書いてある」
「知ってるよ! 『Born to lose』だろ? なんだって俺のあだ名のきっかけだからな」
「えっ? どういうこと?」
真鶴さんは意外そうに目をぱちくりさせる。
「ルーさんのルーはルーザーのルーなんだ。去年の体育祭の時にこのTシャツを着ていたらからかわれてさ、ルーザーって言われている内にザーが落ちてルーさんになったんだ」
「それは分かったけど……。そんなあだ名嫌じゃないの?」
「まあ嬉しくはないけど、これをきっかけに友達も増えたしな」
「えっ、どうして?」
それまで憐れむような表情でこちらを見ていた真鶴さんが、一転して真剣味を帯びて掘り下げてきたので俺も真面目に答える。
「ルーさんって呼ぶ奴が出てから少し経ってからかな。クラスのバカ三人が『ルーさんって響きが流産に似てね?』って言いだして、『流産! 流産!』ってからかい始めたんだ」
「りゅうざん?」と真鶴さんが首を傾げたので意味を教えたら途端に顔が険しくなる。
「何それ! そんな呼び方酷い!」
「だろ? 俺も当然嫌だし、真鶴さんみたいに教室にいた女子達も嫌そうだったから止めたんだよ。でも止めなかったから結局俺から殴って喧嘩しちゃったんだ」
「喧嘩したら友達なんか増えないじゃない」
「まあ聞いてよ。三対一で一方的にやられていたところでサッカー部仲間の冴上が止めてくれたんだよ。冴上遼(さえがみりょう)は今年から同じクラスで、昨日もいたんだけど分かる?」
「いえ、まだ名前を覚えたのはあなただけ」
「そうか、まあ明日にでも紹介するよ。クラスのリーダーみたいな奴だから冴上と仲良くなっとけば自然と友達もできると思うしさ」
「ありがとう、それで? その友達がどうしたの?」
「ああ、それで喧嘩を止めてくれた冴上が言ったんだ。『お前ら流産って意味分かってんのか? 人が死ぬんだぞ! そんなあだ名付けられてルーさんが嬉しいわけがないだろ! 俺がもし女だったら流産なんて言葉聞きたくもない! 自分の子供が抱けないまま死ぬんだからな!』ってさ。そうしたら女子達の冷たい視線に気付いたおバカ達が謝って解決したって話だよ」
「ふーん、いい話じゃない。でもどうしてそれで友達が増えるの?」
「冴上だよ。学年一の人気者の冴上がクラスメイト達の前で堂々とあだ名で呼んで庇ったもんだから、学年中に俺が人気者と仲が良いって知れ渡ったんだと思うよ。あいつが俺を庇ってもっと人気になったついでに、ちょっと話す人の幅が広がったって感じかな。」
「ふぅん、そんなに冴上君がいい人ならそのあだ名も止めてもらえばよかったんじゃない?」
「それなぁ、俺もヨネとかヒデみたいな名前から作ったあだ名が良かったからそう思うよ。でもむしろ冴上が俺をルーさんって呼んだことで完全に定着しちゃったんだよ。まあ俺ももう受け入れるように心を切り替えたからさ、負け人生のルーズじゃなくてゆるーく生きるのルーズだと思ってるよ。あ、ゆるーく生きるってどんな意味合いか分かる?」
「たぶんEasygoingみたいな意味かな。分かった。じゃあ私はお家に上がらせてもらうね」
そう語る真鶴さんの表情にもう憐みは感じられない。彼女が正しく意味を理解しているか確認した時の意を決した様な表情を思い出してふと思った。割と優しいのかもしれないな。
俺はお隣の真鶴家の門にたどり着いていた。徒歩一分もかからないお隣さんではある。しかし普段見かける何の変哲もない住宅の入り口が今は威圧的に立ちはだかって見える。なんたって相手はヨーロッパの大学生相手に言語学を教えていた学者だ。俺とは地球の全人類の中でも対極に位置するだろう。そんな人間とこれから対峙するのだから、憂鬱にならないハズがない。門にかけられた表札を見てみる。そこには筆記体で名字だけが書かれていた。
「そりゃあもう十年近く軒先でおばあちゃんに挨拶しているのに真鶴って名前を聞いてもピンと来ない訳だな」
筆記体の学習を放棄していた俺はしんみりと独り言を吐いた。
大丈夫だ。俺はもう既に負け犬だ。負け犬はもう一度負けても負け犬だ。今と同じだ。
ドアベルを鳴らし、そんなマイナスにマイナスを掛け算して無理矢理プラスに自分の精神を安定させようとしていると、俺の精神状態などお構いなくドアが開いた。
「おお、英紀君、よく来たね。さあ入って、書斎に案内しよう」
教授は笑顔で俺を招き入れる。書斎に向かう途中、リビングにいる真鶴さんの祖父母であろう老夫妻と挨拶を交わす。普段軒先で挨拶しているのに場所が違うだけで妙に新鮮な感じだ。
「さあ、どうぞ。入ってくれていいよ」
大学教授の書斎と聞いてさぞ本棚に大量の本が並んでいるのだろうなと思ったが、いざ入ると椅子とホワイトボードと、ノートPCとプリンターの置かれた勉強机があるだけだった。
「割とさっぱりしてますね。父の部屋よりも本がありそうだと思っていましたよ」
俺はすすめられた椅子に机を挟んで座りつつ率直に感想を述べた。
「文明君は勉強家だからね。それに私の仕事道具の大半は京都に置いて来てあるからね。ここにあるものはPCとプリンター以外はほぼ十二年前にオランダに行った時のまんまだよ」
「あれ? 教授はこっちの大学に転職……? をするんじゃないんですか?」
「いや、もう契約は交わしたからね。授業がある火~金は今まで通りに京都の大学で教えるよ」
「ええ? 大変じゃないですか?」
「まあ楽ではないだろうね。でも今はオンラインでできる仕事も増えたし新幹線内で仕事をする手段もある。何より私は娘を最優先したいからね。祖父母と一緒に和歌を見守れる東京の方がいいと思ったんだよ。ところで……英紀君はその意味を知っているのかい?」と、教授は俺のTシャツに視線を向けて言った。
よし! 食いついた! これで俺がどんなに残念な英語無能か説明できる! 教授さえ諦めれば俺の英語塾は終わりだ! 思わずしたり顔になった俺は教授の問いに答える。
「ああこれですか。知ってますよ。去年の体育祭で同級生から散々いじられましたからね。これがきっかけであだ名ができたくらいなんですよ。LoseのLoだけ取ってルーさんですよ! これに限らず散々英語をきっかけに嫌な思いをしてきたんです」
「そうか、英紀君。さっきお邪魔したときに言っていた通り、君は英語が嫌いなんだね」
「はい、嫌いです。でも外国人好きですよ。むしろ魔法使い映画のエミリー・ワシントンは小学生の頃『結婚したい!』と思うくらい好きでしたよ。映画じゃ日本語を話してましたから」
「そうか、じゃあ外国人嫌いではない英紀君がどうして英語を嫌いになったんだい? 今日は初めてのレッスンだしまずは君のことを知りたい。教えてくれるかい?」
「いいですよ。まず中二の時かな、英語の授業で将来の夢を聞かれて『サラリーマン!』と答えたんですよ」
「ああ、和製英語あるあるだね。それで? 笑われたのかな?」
「はい、最初はクスクス笑う声が聞こえたり、先生が残念そうな顔をしているなとは思ったんですよ。みんなの様子から『何か違ったのかな?』とは思ったんですけど、その時の俺は発音が英語っぽくなかったからだと勘違いしたんです。だからめっちゃ舌を巻いて英語っぽく言ってやったんですよ。『サるラりぃーメーン!』って!」
「ふんふん、それで? どうなったんだい?」
「静まり返った教室で女子が可愛い声で『メーンって複数だし』って言ったらクラスメイトみんなに大笑いされたんです! 実はその女子、この前の週に告白してきた子だったんですけど、後で告白にYesで答えたらフラれてしまいました。『ごめん、やっぱやめとくね』って」
「そうだったのか、英紀君と一緒にからかわれるかもしれないと思ったからかな」
「それが違うらしいんですよ。後で噂を聞いたんですけど、女子グループトップの奴に『あなたリーマンに告ったんでしょ? リーマンに告るってなんか響きがウケるね』って言われたかららしいんです。せっかく初めてされた告白だったのに」
「嬉しかったなら付き合えばよかったじゃないか」
「ああ、そこには触れないで下さい……。他にも女の子絡みだと去年短期留学に来ていたイギリス人の先輩が奇麗で興味があって、『フーア―ユー』って声をかけたらぶん殴られました」
「ん? 確かにWho are you? だと不自然だけど殴られるほどの間違いかな?」
「いえ、実は発音が悪くて別の意味に聞こえたらしいんですよ。その場にいた別のイギリス人の先輩が教えてくれました。『おいおいヒデキ、その発音だと売春婦と同じ意味になるぞ』って」
「ああ、なるほど! Whore you! に聞こえたんだね。それは女性なら普通怒るね」
「俺も説明をされて納得はしたんですけどね……。その先輩男子のフォローが最悪で、いかに俺が英語無能なのかみんなの前で披露したんですよ!
俺は恥ずかしさを紛らわすためにポルトガルのスターサッカー選手を真似た短髪頭を掻きながら答えた。そして話題を戻すために尚も話し続ける。
「とにかくこれだけじゃないんです。米沢英紀って名前が残念英語力で名前負けしてるとか、十一をテンワンと読んだからウィニングテンワンとか。そうだ! 昨日は和歌さんにも早速恥ずかしいところを見られてしまったんですよ!」
「ああ、娘から聞いているよ。状況が知りたいから英紀君からも教えてくれるかい?」
愛娘の話題だからか、大人の余裕を感じさせる教授の表情に真剣味が増して感じられた。
「はい、お嬢さんも関わるお話ですから、これについては真面目に事実だけお話ししますね。昨日の始業式後のHRの時のことなんですが――――」
昨日のHRでの出来事を説明し終えた時、俺は奇妙な達成感に酔っていた。
どうだ! 俺の勝ちだ! 諦めろ! そう思い教授を見返すと……。
「あっはっはっは! 面白いね!」
頷きながら聞いていた教授は話が終わると共に笑い出した。意外だ……。教育に携わる人が思春期の中高生の失敗談を笑う訳がないと思っていたからだ。絶対に「辛かったね。でも大丈夫だ」みたいな甘言を吐いて俺を引き上げようとすると思っていた。それに対していじけて腐って返せば諦められて終わりだと思っていたのに、思惑は外れて教授は愉快そうに笑っている。そしてひとしきり笑った後に教授は語りだす。
「いや、笑って済まなかったね。でもこれで確信したよ。英紀君はまだ間に合う! 英会話が出来るようになる! むしろ英語だけで良いのかい? 他に二つくらい話せるようになるよ」
「へ? 教授? 何言ってるんですか? 俺の話を聞いていました?」
「ああ、聞いていたよ。聞いていたからこそ確信しているんだよ。英紀君、良いかい? 本当に諦めている人、可能性が無い人はそもそも自分の失敗談なんか絶対に話さないんだ。臭い物には蓋をして生涯隠そうとする。そしてそもそも話を聞こうともしないんだ」
「でも俺も前向きに教授の話を聞こうとしている生徒じゃないと思うんですけど」
「そうかい? 少なくとも英紀君が後ろ向きには見えないよ。だってこうしてまだ私と向き合っているじゃないか。どうしてだい?」
「それは……。うーん、なんだ……教授は笑ってはいたけど楽しそうで、バカにしている感じはしなかったからだと思います。多分……」
「ほう! いいね! 私が教授だからとか年上だからって理由じゃないのがすごくいい!」
くわっ! と目を見開いて教授が応えると、その想定外の反応に無言で更に引いてしまう。
「表情とか仕草とか、話し相手そのものに注目して会話している証拠だからだよ。これはコミュニケーションの基盤となる部分を感じる感性があるというだ」
「え? でも、立場とか年齢に気を使って会話するのも大事じゃないですか?」
「もちろんその通りだよ。ただし自分の立場をわきまえた会話ができるようになるのは表情や仕草を使った基礎会話ができるようになってからでいい。私たちも幼稚園児の頃から先生に敬語で会話していなかっただろう?」
「はい、多分していなかったと思いますけど……教授、おだてて乗せようとしていません? だいたい表情や仕草を見ながら会話するなんてみんなできますよ。俺は特別じゃないです」
「そう思うかい? 私はそうでもないと思うよ。例えば君がさっき話してくれた『流産』と言って君をからかった子達だ。彼らは君が怒って制止しても聞かなかったのだろう?」
「う、確かに……」
「それに対して君はバカにされた君自身の怒りを感じながら流産という不謹慎な言葉で凍った女の子達の雰囲気も感じ取ったんだろう? それはつまり、君は単に話している相手だけではなく、その周りに居る人々、状況、雰囲気も客観的に把握して会話ができる人間だということだ。これはメタ認知能力と言って実はビジネスマンなんかに求められる能力でね、大人になっても身につかない人もいるくらいなんだよ」
「そうなんですか? でも日本人同士の空気が読めても英語には関係なくないですか?」
「そこ! 日本人同士の空気が読める! それこそが英語が苦手な理由の一つだと思うよ。英紀君は客観視に長けている分、嘲りや蔑視といった悪意も拾い過ぎているんじゃないかな」
「確かにバカにされたくないってすぐに身構えますね」
楽しそうに話していた教授の雰囲気がここで一転してまじめに変わる。
「ただ冷静になって考えて欲しい。確かにからかわれた時は悔しかったかもしれないけど、英紀君はまだ十一をテンワンと読んでいるかい?」
「いやまさか! イレブンって読みますよ。発音は悪いですけどね!」
「だろう? 覚えているじゃないか! Tシャツの英語の意味だって今の君は理解しているじゃないか! 学習しているんだよ!」
「あれ? 確かにそうか……? 受けた屈辱に見合わない気もしますが……」
「そうだね。でも失敗から感じる屈辱の大きさに比例して印象に残るんだよ。だから忘れないんだ。学校で習う英語も同じように強烈な印象で記憶に残れば良いと思うだろう?」
「はい、でも悔しいのはもう勘弁ですよ! あんな屈辱を積み重ねたら流石の俺も死にますよ」
「はっはっはっ! そうだね。私も悔しいより楽しい方が好きだ」
「で、これからその強烈な印象に残る方法で俺に英語を教えるんですね。流石数か国語話すだけあって話が上手いなぁ」
巧みな話術にもうお手上げとばかりに俺は少し茶化して言ってみた。きっとここぞとばかりに英語の授業が始まるんだ。俺は観念したが教授はまたも俺の予想を裏切った。
「英語? いや、今日は教えないよ」
渋めの中年男性の雰囲気に似合わぬきょとんとした表情で彼は言った。
「え? なんでですか? あ、それはそれで嬉しいんですけど……」
「今の英紀君は英語ができないと信じ切っているからね。そんな状態の君にとって言語学者なんて大層な肩書を持った私はゲームのラスボスみたいなものじゃないか。そんな私が教えてみなさい。まるでモンスター育成RPGで、旅立って最初の草むらから伝説ランクのモンスターが飛び出すようなものじゃないか。君がゲーム開始時に博士から配布される初期レベルのモンスターしか持っていなかったら無理ゲーもいいところだろう? それと同じだよ」
俺は思わず「ぶっ」と吹きだした。まさか頭が良い人の典型の様な大学教授から小学生が大好きなゲームをネタにした例え話が出てくるとは思わなかったからだ。
「ははっ、教授! 無理ゲーって! 本当に大学で教えているんですか?」
「はっはっはっ! ウケてよかったよ。いや、これは私の信念でね。難しい事を誰にでも分かるように簡単に言い換えて説明するよう心掛けているんだよ。だから学生達のほとんどが遊んでいたあのゲームにもヒントがあるかもと思ってやってみたんだ。娘も欲しがったしね」
「意外です。教授って自分の好きな分野の研究にしか興味が無い人達だと思っていました」
「確かにほとんどはそうだよ。だから講演会でゲームやマンガのネタで笑いを取ると嫌な顔をされるよ。特に日本の学者達にね。私の講義に人気が出ると尚更だよ」
「ははっ、でもありがとうございます。さっきのゲームの例えは的を射ていましたよ。俺、ずっとどんなに難しい講義をされるのかビビッていましたから」
「やっとリラックスしてくれたね。それで、話を戻すとまだ英紀君は英語ができないと思って身構えているからね。ゲームの例えを駆使して工夫してもなかなかその牙城は崩せないだろう」
「いやぁ、それほどでもありますよ」
「ははっ、褒めてないぞ。だから私はまず君の防御を解くところから始めるよ。モンスター育成RPGに例えるならこれから君に防御力低下の技を使いまくるよ」
少年の笑顔で語りかけてくる教授に俺も悪戯っぽく微笑みを返す。
「なるほど。分かりました。でも俺は手強いですよ」
「楽しみだよ。でも英紀君が負けた方が得だよ。結果的に英語が話せるようになるんだから」
その言葉を聞いて内心今回は負けたなと思ったが不思議と嫌な気はしなかった。
教授の初レッスンが終わり、俺は帰りの支度をしようとした。といっても抜刀していた筆記用具をしまうだけだ。退出しようとすると教授が余裕の笑みで問いかけてくる。
「レッスン初日はどうだったかな」
「今日は教授と話せて楽しかったです。でも俺は自分に英語ができるなんて思ってませんよ」
俺も自然と微笑んで返事をした。
「はっはっはっ、面白い自信だね。ところで私の事は教英と呼んでくれていいよ。教授だなんて堅苦しい。君とは個人的な付き合いなんだからね」
「いや、それは流石に……。じゃあ教英先生でどうです?」
「先生か、まあまだ教授より良いかな。無理強いはしたくないから君の呼び易い方でいいよ」
「分かりました。では、また来週」
「ごめん、あと一つ」
先生はドアを開けた俺を呼び止めた。振り向くとこれまでになく真剣な表情をしている。
「英紀君、会話して君が他人の気持ちを想像しながら会話できる人間だと感じたよ。君が気を紛らわせるために自己紹介を失敗した和歌に話しかけたというのが本当だと今なら納得できる」
「ああ、あれは……、でも俺は娘さんが『分からない』と言っているのに構わず話し続けたので意地悪でもあったと思います。何で察していたのにやってしまったのか……。すみません」
「いや、咎めるつもりはないんだ。むしろ君には和歌を助けて欲しい。娘は、和歌はまだこの国の人々の繊細で時に曖昧な態度や表現に慣れていない。前の学校では限界になるまで気付いてあげられなかった……。どうか、和歌が困っていたら助けてあげて欲しい。どうか頼む……」
そう言って先生は深々と頭を下げた。予想外の行動に俺はうろたえつつ答える。
「先生! 頭を上げて下さい! 大丈夫ですから! 俺はからかわれやすいけど、その分親しまれやすいんです。彼女がまた外国語でやらかしたらツッコミますよ。欧米かよ! って」
子供の頃に見たお笑い芸人の素振りを真似ておどけて見せると通じたのか笑ってくれる。
「はっはっはっ。頼もしいね。ただ頼みはしたけど、まだ嫁にやるとは言ってないからね。知らぬ間に一線を越えていたら娘みたいにドイツ語で罵るよ」
「怖いですよ先生、でもないから安心して下さい。確かにうちのクラスでも一、二を争うくらい綺麗だと思いますよ。でも……姉と似てるんですよ。気の強そうなところが」
「はっはっはっ! 治佳ちゃんか! 英紀君はよく人を見ているな! でも可愛いところもあるんだぞ。証拠に部屋を少し見せてあげたいところだけど、多分見せたら殺されるだろうね」
「ははっ、やっぱり似てますよ。姉も怒らせると切断するとか解剖するとか言いますから」
書斎を出て玄関に向かいながら答えた。すると死角になっている階段から冷たい声がした。
「そうね。見せないで良かった。私もパパを殺したくないし……」
真鶴さんだ。冷ややかな声と視線が相まってそのたたずまいはまるで雪女のよう。
「おっ……、和歌ちゃん早かったね……。パパに会いたくて帰って来たのかな……。ははっ」
引きつった笑みでごまかす先生。治姉にいじられる自分を見るようで妙に親近感が沸く。
「ううん、私は予定通り一時間で帰って来たの。パパ達が遅いだけじゃない?」
依然として氷点下の声で父親を論破する和歌。
「ああ、確かに……。そうだね。パパだらしないね」
レッスン中の威厳はかけらも感じられない和歌パパに会釈して俺は真鶴家を去ったのだった。
真鶴家から自宅に帰ると、リビングで出迎えたのは母さんだった。
「あれ? 父さんは?」
「父さんなら駅前までDVDを借りに行ったわよ」
「え? マジで? 珍しいな。絶対に教英先生のレッスンの感想を聞いてくると思ったのに。そういや真鶴さんのレッスンはどうだったの?」
多少なりとも興味はあったので聞いてみると、答えは他から返って来た。
「和歌ちゃん誰かさんと違ってすごく勉強熱心だったなぁ。知らない言葉はしっかり書き留めていてね。一つ一つ確認してたんだから」
ダイニングテーブルで椅子に掛けた治姉が弟への嗜虐心を瞳に宿して語りだす。
「あんたが和歌ちゃんに喋った恥ずかしい中二用語もしっかり覚えていてね、意味を聞いてきたんだけど、説明しないであなたに取っておいてあげたのよぉ」
「マジか……」
「中二語録の解説だなんて、受けなかったギャグのオチを説明するくらい寒いったらないじゃない。ああ、面白そう! 和歌ちゃんに頼んでスマホで録画しておいてもらおうかな。ふふっ」
「鬼だ。悪魔だ。姉だ……」
「コラ! その二つと並べんな! あんたねえ、むしろ私に感謝するべきなのよ。だって私のおかげで明日から和歌ちゃんと一緒に通学できるんだから」
「へ? 一緒に登校するほどまだ仲良くないと思うんだけど?」
「察しが悪いんだから。思春期の男子にしか分からない言葉だから明日通学の時に英紀に聞いてって言っておいてあげたってのに。はい、これ、和歌ちゃんが聞いてきた中二語のリスト」
「中二病、邪気眼、ルーン文字、エルフ語……こんなに? なんてことを……」
「なにがなんてことをよ! あんなに可愛い娘と一緒に登校できんのよ。あんたみたいなDDKには願ってもないシチュエーションでしょ?」
まるで大将首をとった足軽の様なドヤ顔で戦果を伝えてくる姉だ。DKは男子高校生だとして、頭のDはどうせろくな意味は無いだろうと思ったから俺は拾わなかった。
「あのな、治姉……。確かに女子と仲良く登校っていいよ。憧れるよ。でも話題が自分の中二発言の解説なんて楽しくねえよ。むしろ罰ゲームだ」
「何ウジウジ言ってんの? 機会が無ければ可能性ゼロじゃない。出だしが不利でも試合すれば勝てるかもしれないでしょ。試合しなければ不戦敗確定!」
「ああもう、分かったよ。明日試合があるって分かっただけでも良しとしとくよ。不意打ちじゃなくなるしな。せいぜいちんちんかもかも目指して頑張って来るよ」
「相変わらずなんでしょうもない言葉ばっかり知ってんだか。あんたの口からひり出ると健全な日本語でも卑猥に聞こえるのね。そんなんじゃモテないんだから」
その姉の言葉に対して……姉よ、弟の俺から見ても麗しい貴女に彼氏ができないのは、その一挙手一投足が男の自尊心をやすりのように削ぎ落すからだ。男は自尊心が満たされていないと死んじゃう生き物だと分かってあげられたら全身がジャックナイフでできた貴女にもきっと彼氏ができるよ、そう口から出かかったが止めておいた。童貞のまま死にたくないからな……。 そうか童貞か。DDKは童貞男子高校生の意味か、やれやれだ。治姉の言葉攻めから逃げ出した俺だったが、自室に戻って使い慣れたゲーミングチェアに座る頃には別の事が気になっていた。
真鶴さんがわざわざ俺と登校するために迎えに来る……? 俺は単純に喜べなかった。初日の悪ふざけの謝罪を受け入れてくれたとはいえ、さっき真鶴家で会ったときの様子を見てもお世辞にも俺に好意を持っているとは思えない。そんな俺とわざわざ一緒に登校してまで知らない日本語の意味を確かめたいだなんてものすごい執念じゃないか。それだけ真剣に確認されるからには生半可に答える訳にもいかない。俺はそう考えて始業式に彼女に吐き出した中二語録をどう説明するか想いを巡らせるのであった。
②英語なんか嫌いだ! ~美少女転校生はマルチリンガル帰国子女~ かずきー @masaki0087
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