吉原の特殊浴場通いをきっかけに興味を持った樋口一葉のたけくらべを読み終えました。
よく文学者の論争の的となっている、主人公の美登利が活発であったのに終盤にふさぎ込むようになったのは何故なのか。昨今の結末が明確に描かれる小説に慣れている私も想いを馳せました。しかし、すごく低俗な感想も同時に持ちました。
「ああ、やっぱり男が好む物語は今も昔もエロなんだな」と。
そう感じた理由は作中で繰り返し登場する吉原遊郭界隈の風俗(エロじゃなくて、習慣とか世相の方の意味ね)にあります。作品が世に出たのは19世紀末期の明治時代中頃、まだフランスのリュミエール兄弟が世界初の映写機で映画を上映したばかりの頃で、当時最も写実的に現実を写せるメディアは写真でした。その写真も当然現代ほどには一般化しておらず、人々は身近な貸本屋で借りられる本を通じた想像に夢中でした。聞くところによると「小説ばかり読んでいると馬鹿になる」という揶揄すらされていたそうです。
この様な時代において20代前半の女性が、男性たちにとっては憧れの美女が集う遊郭を題材にした小説を描くのです。男性の助兵衛心に満ちた好奇心を惹かない訳がありません。女性に必要以上の勉学は不要と考えられていた当時において、文壇の中心を占めていたのは圧倒的に男性たちです。そしてたけくらべを絶賛したのも森鴎外を始めとする男性文豪達でした。
吉原遊郭近くの鷲神社で行われる酉の市の様子、「俺と結婚すれば遊郭から出してやる」と語りかけてくる登楼客に困り果てる遊女、これらは交通手段が未発達で気軽に吉原遊郭に行くことができない庶民男性にとっては小説からのみリアリティを感じられる情景であり、だからこそ男性の注目を集めたのでしょう。
男性の助兵衛心由来の好奇心をきっかけに注目を集めた上で、想像の余地を残した美登利の心象描写をはじめとした文学的な価値も高かったからこそ、女流作家の代表として後世に紙幣に載るほどの評価を得たのだと思いました。
ということで、私自身も低俗にエロで稼ごうと思ってエッセイを始めました。一葉と違って私のはただただ男性目線で低俗ではありますけどね。