client.4‐6
朝刊の一面にはビル火災の様子が大々的に取り上げられていた。記事によると火元の五階と六階を全焼し、火元の廃墟に出入りしていたと見られる男性一名が大火傷を負ったそうだ。男性は連続誘拐殺人事件への関与を認めており、警察が捜査を進めているという。
恐らくあの男は洗いざらい話すのだろう、と京介は新聞のページを
八景坂は忽然と姿を消した。あの爆発に巻き込まれ無傷では居られないはずだが、骨や肉片のひとつも見つかってない以上、どこかでしぶとく生き延びているのだろう。これに懲りて諦めてくれたのなら良いが、と探偵は読み終わった新聞を畳み、机に放った。
その頬には絆創膏、左手には手首から指先まで白い包帯が痛々しく巻かれていた。手の傷はコンセントで意図的に起こした感電による火傷だった。昨夜の逃避行を改めて思い返し、我ながらよく死ななかったものだ、と掌を見つめしみじみと思う。恐らく痕に残るだろうが、今更傷のひとつや二つ増えたところで、と気に留めないことにした。
屋根裏部屋から、階段を雑に駆け下りる音がする。相変わらず朝から騒がしい足音だった。
「ふわ……おはようございます。相変わらず早いですね」
欠伸混じりに客間へ降りてきたあとり。机の上の紙面には目もくれず、起き抜けから溜まった食器を洗っている。
どうせ読まないだろうから、あとで掻い摘んで話してやろうと彼は溜息を吐いた。
「何か、日常に戻ってきた感じしますね」
大量に重ねられた泡だらけのマグカップを、ひとつずつ手際良く水で流していく。器が受け取った水が、泡と共に排水口に流れていく音だけが客間にしていた。
「そうだな」
京介はソファーからやおら立ち上がる。窓辺に立ってガラス戸を開けると、新緑の風が朝の清涼な空気を連れて柔らかく吹き込んだ。
傍の森は静かだった。
ひとつ呼吸をして、始まったばかりの空を見上げる。
それは紛れもない平穏な日常だった。
シンク横の戸棚の前に移動して、片手でマグカップを二つ取り出す。黒手袋の右手がおよそ一日ぶりに冷蔵庫を開き、ペットボトルのコーヒーを取り出した。
「あ、もうそうやって目の前で洗い物を増やす――まあ良いですけど」
二つのマグカップにコーヒーが注がれる様を見つめながら、あとりは呆れる。彼はペットボトルを冷蔵庫に仕舞いながら、
「屋根裏部屋はもう片付けたのか」
そう聞いた。洗い終わったマグカップを拭いていた彼女は急いで京介に向き直り、
「もしかして追い出す気でいます?」
怪訝な表情で見つめ、目を細める彼に堂々と宣言した。
「残念でしたー! もうここで働くって決めたんですから!」
べー、と舌まで出した。だから何で、雇用するしないの権利が雇い主にないのだろうか、と京介は少々理不尽に感じた。それにしても言葉が足らなかったようだ。まあ彼女の早合点は今に始まったことではないが。お互い様か、と小さく嘆息する。
「出てけったって出て行きませんから――」
「……お前を追い出すのは半分諦めている」
「え」
あとりはきょとんとして、思わず両手で受け取った。カップの中で、丸い瞳が瞬く。
彼は包帯だらけの手で自分のマグカップを掴み――彼女のマグカップに軽くぶつけた。
小気味のいい音が響いた。
少女との噛み合わなさはきっとこれからも続いていくだろう。嘘に辟易する日々もきっと、変わらないだろう。悔恨に苛まれる日も……完全になくなりはしないだろう。揺れる液面を見つめる探偵の瞳は、考えるように一旦伏せられた。
しかしそうした日常を、愛して受け入れていこう。
差し伸べられた手を取ったあの夜から彼はそう、決めていた。
顔を上げ、マグカップを両手で包むあとりの瞳を真っ直ぐに見据える。
「これから、よろしくな」
京介は、新しい相棒と乾杯した。
【了】
幸運少女と笑わない探偵 ―古小烏探偵事務所の事件簿― 月見 夕 @tsukimi0518
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます