第2話 本文冒頭

プロローグ『作戦決行』

「こちら実行部隊、作戦位置についた。……そっちの準備は大丈夫だよな?」

 

 耳につけたイヤホンに手を当てながら、俺は通信機の向こうにいるであろう人物に呼びかける。すると、ほどなくして酒焼けした声が返ってきた。どこか人生に疲れているような、しゃがれた声だ。


「ああ、こっちもお前たちの姿を観測できてる。……しつこいようだが、無理だけはするんじゃねえぞ?」


「その話はもう耳にタコができるくらい聞いたよ。それよりもオッサンは自分の肝臓を心配したほうがいいんじゃねえの?」


 オッサン、ほっとくといつも飲んでるしな……作戦前だってのに二日酔いしてたし、ちょっと自覚ってやつが足りないんじゃないだろうか。


「オッサンはこれが無いとやってけない性質なんだよ、休肝日も作ってるし許してくれや。―—それに、任された仕事はちゃんとしてるしな」


「……まあ、それに関しては否定できねえな。毎度助かってるよ」


 それでも俺がこいつを信頼しているのは、誰にもまねできない技術力の高さがあるからだ。曰く『絶対に傍受されない通信機』も、オッサンが作ってくれた俺たちだけのものだからな。今まで何度もその技術に救われてきたし、これからも助けられることになるんだろう。


 それをオッサン自身もちゃんとわかってるから、こうやって悪びれることもなく二日酔いできるし拠点で酒も飲んだりしているってわけだ。そう表現した瞬間オッサンが滅茶苦茶タチの悪い奴に見えてきたが、まあそれはいったん置いておくことにしよう。


「今回の試作品も自信作だし、まあうまく使いこなしてくれ。お前さんは勘がいいし、説明書は適当でも大丈夫だろ?」


「まあ、あれだけあれば十分だな。要は俺の魔術を支援してくれる器具、ってことだよな?」


「大正解。お前さんもいい意味で雑になってきてくれたようで何よりだ」


「誰のせいだと思ってんだか……」


 この二年で俺が雑になったんだとすれば、それは間違いなくオッサンのせいだろう。まるで他人事みたいに言ってるが、その認識は絶対に正しくない。


 やっぱり酒癖を叩きなおしてやろうかと俺が真剣に検討していると、俺の服がちょんちょんっと控えめに引っ張られる。それに気づいてふと振り返ると、俺の肩位の背丈の少女―—綿貫詩乃が俺たちの目指す目的地の方を指さしていた。


「どうした詩乃、もうそろそろか?」


「うん。……多分、もう二分もしたら最初の人が外に出てくるかも」


 軽く屈んで目線を合わせると、詩乃は小さくだがしっかりと頷く。まるでルビーのような紅い瞳が、真っ黒な装束に身を包んだ俺の姿を反射してきらめいていた。


 長く伸びた白髪にその紅い目が合わさるとまるで白蛇みたいな印象になってしまうが、詩乃は引っ込み思案の女の子だ。……どこにでもいるとは、口が裂けても言えないけれど。


「よしよし、教えてくれてありがとうな。詩乃は準備できてるか?」


「うん、いつでもいけるよ。泰輔お兄ちゃんの手助け、頑張るね」


 その綺麗な白髪をぐしぐしと撫でてやると、詩乃はまんざらでもなさそうに目を細める。まるで本当の兄に対してするように、詩乃はこちらに体を預けていた。


 それだけ見ればほほえましい状況だが、詩乃という少女の背景を思うと俺は感傷的にならざるを得ない。もう詩乃みたいな境遇の子供は表れてほしくないと、そう思う。


 詩乃は俺の事をお兄ちゃんと呼んでくれるが、本当に血がつながっているわけじゃない。俺の苗字は『森崎』だし、俺は正真正銘の一人っ子だからな。だけど、こんな妹ならば悪くないなと思ってしまう。詩乃の頼みはできるだけ無碍にしたくないし、そうやって意思を表明してくれるだけでもうれしくなるくらいだ。初めて会った時に比べたら、これでもかなり積極的になった方だしな。血縁的になんの繋がりもなくたって、詩乃が大切な妹分なのは揺るぎない事実だった。


「……それじゃ、手伝ってくれる詩乃のためにも頑張らないとな。カッコいいとこ、見せてやらないと」


 それと、ちょっとだけオッサンの試作品のテストのためにも。魔道具なんて使わないに越したことは無いが、機会があったら試してみることにしよう。


「うん、たくさん暴れてくれていいからね。泰輔お兄ちゃんのじゃまは、だれにもさせないから」


 腕をぐるぐるとまわして気合を表現する俺を、詩乃は楽しそうに見つめている。俺に追随するようなその宣言は声色もあって冗談のように聞こえるが、俺にとってこれ以上信じられるものもないってくらいに頼もしかった。


「お、二人とも気合十分って感じで非常によろしい。お姉さんが最終確認するけど、準備はできてるよね?」


 俺が決意を新たにしていると、通信を繋いでいるイヤホンから軽快な女性の声が聞こえてくる。さっきの酒焼けした声とは違う溌剌とした声は、作戦開始前だというのに楽しそうなことこの上なかった。


「ああ、準備万端だ。あとは突っ込むだけだな」


「それは結構。セキュリティとか見張りの類もないし、一人目が出てきたら迷わずに突っ込んじゃって大丈夫だよ。森崎君、そういうのは得意でしょ?」


「それしかできないみたいに言うんじゃねえよ。三好の方こそ、そんな大雑把な情報しか得られないんじゃ張り合いがないんじゃねえのか?」


「全く以てそのとーり。もっと重要な情報の一つでも隠しててくれなくちゃ、あたしがこの組織にいる意義の八割くらいなくなっちゃう」


 売り言葉に買い言葉、とはまさにこのことだろう。俺の問いかけに、声の主―—三好は大げさにそう答えて見せる。大きく腕を広げて椅子に倒れ込んでいる様子が目に見えるくらいには誇張した表現ではあったが、八割という数字だけは誇張でも何でもなさそうなのが恐ろしいところだった。


「相変わらず、好奇心が服着て歩いてるみたいな奴だな」


「何を今更。あたしから好奇心を取ったらなーんにも残らなくなっちゃうよ?」


 半ば冗談のような発言だったが、さも当然と言わんばかりに三好は笑って見せる。それこそが三好がここにいられる理由でもあるのだと、俺はつくづく彼女の末恐ろしさを痛感させられた。


「ま、暴れる君たちをオペレーティングするのも悪くないけどね。できるだけ状況が混乱してくれた方がやりがいがあるからさ、盛大にやっちゃってよ」


「当然だろ。そうじゃなきゃなんでここまで準備してんだって話になるからな」


 三好の煽り文句にそう返して、俺は改めて作戦対象を見下ろす。情報が正しければあと三十秒もしないうちに敵が出てくるところだが、そうとは思えないくらいに辺りは静かだった。ただ風の吹き抜ける音だけが、さわさわと俺の耳に届いてくる。


 今俺と詩乃がスタンバイしているのは廃ビルの屋上、大体地上から二十メートルはあろうかというところだ。相手の情報は筒抜けだが、そんなことも知らない奴らには決して視界に入らないであろう絶好の位置。ここから作戦を開始すれば、俺たちは絶対に先手を取れるって寸法だった。


 つまり、俺たちは情報的にも位置取り的にも有利を取っているということになる。それだけ条件がそろっていれば、戦闘がどう進むかなんて明らかなわけで――


「……お兄ちゃん、来たよ!」


 展開の予測をしていた俺の袖を、今度は強く詩乃が引っ張る。それにつられて視線を下に向けると、俺たちの作戦対象が意気揚々と建物を出発し始めるところだった。


「よし、行くか詩乃!」


「うん、後ろはまかせて!」


 お互いにうなずき合って、俺はビルの屋上から一気に飛び降りる。十年前までは自殺行為と呼ばれるような行動だったらしいが、今となっちゃあもう日常的に起こりうることだ。


 何の恐怖心もなく、俺は近づいてくる地面を見つめる。あと二秒もすれば地面に墜落してしまうというところで、俺は右の手のひらを地面に向けた。


「……風よッ‼」


 俺が吠えると同時、地面に向かって突風が吹き荒れる。それが俺と詩乃の落下の速度を殺し、ケガ一つなく俺たちは作戦現場に到着することに成功していた。


「お、お前たち……ここがどこだか、分かってやってんだろうな……⁉」


 その着地のついでに吹き飛ばされた三人の男が、怒り狂った様子で俺たちを見つめている。今にも殴りかかってきそうな形相はまさにチンピラそのものと言った感じだが、生憎その挑発の類は俺たちには通用しないんだよな。


「ああ、当然分かってるさ。……詩乃、正面のハゲ頼めるか?」


「うん、分かった。じゃあお兄ちゃん、残りは任せるね」


 まるで三時のおやつを分け合うかのようなノリで、俺たちは担当する相手を決定する。その様子を男たちはあっけにとられた様子で見つめていたが、ふと我に返ったかのようにその足に力を込めだした。


「てめえ、ガキだからって言わせておけば――‼」


「もう容赦しねえ! 生意気なガキには、相応の教育が必要だもんなあ⁉」


 渾身の脅しが何も効かなかったことが相当堪えたのだろう、男たちは完全に頭に血が上っている。その中でも先陣を切って仕掛けてきたのは例のハゲだったのを見るに、俺の挑発はしっかり効いたらしいな。アイツは髪ないのに。


 しかし腐ってもチンピラはチンピラ、詩乃との体格差は相当なものだ。それもあって男たちは力押しを選択したようだが、生憎なことにそれは最悪手。突っ込んでくるハゲに対して立ち尽くす詩乃の姿を、俺は助けるでもなくただ見つめていた。


「いいか小娘、これはハゲじゃねえ! スキンヘッドって立派な名前が――ごおっ⁉」


「―—おじさん、ごめんね?」


 どこからともなく引き抜かれた魔銃の一撃がハゲの足を打ち抜き、つんのめったところに強烈なハイキックが叩きこまれる。さすがに致命傷とまでは行かなかったが、吹き飛ばされた男の意識は完全に途切れていた。


 本来ならここでとどめを刺しておくべきなのだろうが、俺たちはこれでいい。俺たちの目標のためには、誰のことも殺すわけにはいかないからな。俺たちが向かい合うのがどんな屑であれ、だからと言って殺していい理由にはならないのだ。


 だが、そんな俺たちの思惑なんか敵側が知るはずもないわけで。あまりに鮮やかな処理を目の当たりにして、俺に襲い掛かろうとした二人も思わずその足を止めていた。……まあ、見た目からは絶対に想像できないもんな。これぞ完全なる初見殺し――いや、たとえ初見じゃなくても対応できないから詩乃がただ強いだけか。


「お前たち、一体何者だよ――⁉」


「男の方もビルから飛び降りて無傷だし、もう訳が分からねえ!お前たちは何が目的なんだ⁉」


 あまりに簡単に仲間が仕留められたことで完全に戦意を喪失してしまったらしい二人は、がくがくと震えながら俺たちに質問を投げかけている。その様子は愉快だったが、二人からしたらあのハゲみたいになりたくなくて必死なんだろうな。


――さて、ここで名乗るべきか否か。対抗する組織に正体を明かすのはあまり褒められたものではないが、俺の目的のことを考えると知名度はできるだけ挙げておきたいというのが本音だ。―—うん、名乗ってしまおう。どうせこれからこの組織は壊滅するわけだし。


「お前たちのその度胸に免じて、一回だけ名乗ってやるよ。それ以降はサービスしねえから、よく聞いとけな?」


 余裕たっぷりの笑みを使って、俺は二人の目の前まで歩み寄る。俺のやろうとしていることを大体察したのか、詩乃もその半歩後ろをとてとてとついてきた。


 軽く咳ばらいをして、羽織っているロングコートの裾を大きく広げる。そこから何かが出てくるとでも思ったのか、二人は軽く腰を抜かしていた。―—これでやっと、俺が二人の男を見下ろす構図が完成する。こういう時に威圧感が出ないから低身長ってやつは困るんだよな……。


――なんて、もうどうにもならない発育の話は今は置いておくとして。


「……俺の――俺たちの名前は『フォレスト』。お前たちと同じ、悪の組織ってやつだ。―—もっとも、お前たちとは目指すゴールも、そのデカさも全く以て違うんだけどな」


 二人の目を交互に見つめながら、俺は堂々とそう宣言する。『フォレスト』として活動二年、この仕草もずいぶん様になったものだ。


『フォレスト』。最凶の悪と成るべく、そう成るに値しない中途半端な悪どもを叩き潰す、俺たち四人のもう一つの名前。俺たちは何を思って、この生き方を貫き通していくのか。


 それを説明するには、時計の針を少しだけ巻き戻してやる必要があるだろう。俺が最高の悪を目指す理由である、一人の少女の話をするためにも。


 物語は今日の朝、俺が寝坊したところまで遡る――


第一章『フォレスト』


「朝よ泰輔、さっさと起きなさーい!」


 威勢のいい呼び声とともに扉が開く音がして、どすどすという足音が惰眠を貪っている俺の下にまで近づいてくる。その声の主の正体と目的を一瞬で悟った俺は、手の高さにあった布団を頭まで被って抵抗の体勢を取った。


「んん……あと五分だけ……」


「あ、五分ね。それくらいだったら二度寝しても……とはならないからね⁉ アンタ今何分か分かってんの⁉」


 声の主は一瞬諦めたようなそぶりを見せたが、直ぐに手のひらを返して俺から布団を剥ぎ取ろうとしてくる。凡人だったらひっかかること間違いなしのフェイントだったが、生憎その一手は予想済みだった。


「ちょ、あんた力強い……どんだけ起きたくないわけ⁉」


「春の朝は眠くなるんだよ。昔の詩人もそう言ってただろ?」


 春眠暁を覚えず、というやつだ。昔の偉い人だってそう言ってるわけだし、それに従って俺がこうやって惰眠を貪っていても、まさかそれを責める奴なんて――


「ええい、相変わらずそういう方向には口が回る……‼ 口で言っても分からないなら、実力行使しかなさそうね!」


 そう宣言した瞬間、俺の上に何か途轍もなく重いものがのしかかって来る。俺の徹底抗戦にしびれを切らした声の主が、その全体重を俺に向かって乗せてきているようだった。


「ちょ……おもっ……‼」


「あんたが何と言おうとどかないからね! 分かったらさっさと起きる、分かった⁉」


 俺の反論を封殺するかのように、声の主はさらに俺に強く体重をかけてくる。その効果は絶大で、俺の体は既にあちこちが軋み始めていた。……くそ、粘れるのもここまでだな。というか、重いって言われてることに関してはノーコメントでいいのだろうか。


「分かったよ陽彩、今起きるから――ちなみに聞くけど、始業まであと何分だ?」


「あら、おはよう泰輔。ただいま八時十五分、始業まで残り二十五分しかないわよ?」


 声の主―—綿貫陽彩が発した現在時刻を聞いて、俺は布団を持ち上げた姿勢のまま停止する。……どうやら、俺の惰眠は気が付かないうちにとんでもない危機を俺にもたらしていたようだった。


 余談だが、のんびり向かえば学校までは一時間かかる。信号なんかもうじゃうじゃあったりするものだから、どれだけ急いでも不可抗力の足止めなんかは起こってしまう訳で――


「普通にやったらもう遅刻じゃねえか! お前、なんでそんな時間に起こしに来たんだよ⁉」


「家の前で待っててもあんたが一向に来ないからじゃない! 学級委員長の幼馴染が遅刻とかあっちゃいけないんだからね⁉」


「だったらもっと早く起こしてくれ! なんでこんなに追い込む必要があったんだ⁉」


 忙しく口を動かしつつ、俺は超高速で制服をクローゼットから引き出す。さっきまでの穏やかさはどこにやら、寝起きだってのに俺の脳みそはフル回転を強いられていた。


「それじゃ、あたしは下で待ってるから! くれぐれも忘れ物なんてするんじゃないわよ!」


「安心しろ、用意は昨日の夜に終わらせてあるから!」


 俺が着替え始めようとするのを見届けて、陽彩はどたどたと階段を駆け下りていく。その後ろ姿に俺は返事を返して、制服に袖を通し始めた。


 そう、準備自体は余裕をもって終わらせてあるのだ。――ただ少し、昨日は夜遅くまで忙しかっただけで。


「それで結局大ピンチなんだから世話ねえけどな……っと!」

  

 ズボンを腰の高さにまで上げ、ベルトを一番小さなサイズにまで締める。高校生になってからの成長を祈って大きめに作った制服のサイズは、入学から一年たった今でも変わらずにぶかぶかなままだ。半ば覚悟していたことではあったが、それでも少し余った上着の袖は憎らしかった。


「母さん、それじゃあ学校行ってくるから! 後で俺の部屋の窓閉めといてくれー!」


 下の階で作業をしているであろう母さんに向かって大声であいさつをして、俺は自室の窓を勢いよく開く。窓の先には小さなベランダしかないが、それを承知で俺は全速力の短距離ダッシュを敢行した。


 もちろんそのまま行けばベランダの壁に激突するだけだが、流石にそんなヘマは晒さない。壁の少し手前で強く踏み込み、はさみとびの要領でベランダの柵を大きくまたぎ超える。ここまでは完璧、後は着地だけだ。


「風、よっ!」


 地面が目の前まで迫って来るのを見ながら、俺は手を大きく上から下へ振り下ろす。その瞬間に突風が巻き起こって落下する俺の速度を相殺し、ついでに玄関の前で俺の事を待っていた陽彩のロングスカートを大きくめくりあげた。


「ふう、着地成功……それじゃあ行こうぜ、陽彩」


「何普通に話を進めようとしてんのよ! アンタ今何したか分かってる⁉」


 軽く汗をぬぐって陽彩の方を向き直る俺に、顔を真っ赤にして陽彩は抗議の姿勢。確かに巻き添えにしてしまったのは事実だが、誰も見てないんだし許してくれてもいいだろうに。


「こうでもしなきゃ間に合わねえから仕方ないだろ? お前のパンツの色なんかより、ずっとお前が続けてる無遅刻無欠席を保つ方が大切だろうしさ」


「なんかって何よなんかって……まあ、ヒーロー志望たるもの品行方正、無遅刻無欠席はやらなくちゃいけない事だけど」


 もにょもにょとつぶやきながらも、陽彩は俺の意見に同意する。その言葉に俺は笑みを浮かべると、まだ少し赤い顔の陽彩に向かって片手を差し出して――


「そうだろ? ……だから、ほら」


「……ん。くれぐれも、誰かに迷惑をかけることが無いように」


 少し不満そうな顔のままではあったが、陽彩は差し出された俺の手を強く握る。その温かい感触に俺は目を細めると、さっきベランダから飛び出した時と同じように力を込めた。


「わーってる……よ!」


 気合を入れて地面を蹴りだすと、俺の体が弾かれるようにして前に向かっていく。俺の足が一度地面を捉えるたびに、俺の隣を流れる景色はどんどんと目まぐるしくなっていった。


 一度走り出した俺の速度は、百メートル七秒を優に切るくらいの速度はあるらしい。『あの出来事』があってから陸上競技という文化は廃れつつあるらしいが、今大会に出ればそこそこいい結果を残せるんじゃないだろうか。


「アスリートの道も悪くねえな……」


「何突拍子もない事言ってんの、そんな暇があったら安全確保!」


 風切り音もものすごいだろうに、俺の呟きを陽彩は的確に捉えてくる。地獄耳と言ってもいいその聴力に俺は苦笑しつつ、陽彩の言う通り安全確保に移った。


「よ……っと!」


 今まで前にばかり向けていたその速度を少しばかり上に向け、俺は大きく跳躍する。着地先を見誤らないように気を付けながら、俺は近くの赤い屋根の家に視線を向けた。


 瓦ぶきのそれで足首をひねらないようにだけ注意すれば、少しばかり足場として使わせていただいても問題はなさそうだ。今の瓦なんて大体は魔術加工済みのものだし、軽く蹴るだけなら傷一つつかないだろう。


「つーわけで、少しばかりお借りします!」


「ちょっとあんた、何やってんのよーー⁉」


 瓦ぶきの屋根を丁寧に蹴り、視線の先にある別の屋根に狙いを定める。忍者よろしく屋根から屋根へと飛び移るのが、俺たちが遅刻を回避するための唯一のルートだった。


「うう……ヒーロー志望が不法侵入なんて、バレたら絶対大変なことになる……」


「大丈夫だろ、何も被害は与えてねえし。……さ、もう少し飛ばすぞ!」


 ぶつぶつと何かを呟いているその言葉を軽く蹴飛ばし、俺はスピードを上げていく。すぐそこに迫った遅刻を回避するべく、四の五のと言っている暇はなかった。使える魔術は何でも使うし、使える足場はなんだって使うつもりだ。


――十年前のあの日から、世界の姿は大きく変わった。魔術という新しい概念に出会って一人の持つ力が大きくなっていって。俺が今こんな曲芸じみたことをできているのも、魔術が与えてくれた新しい発展のおかげなのだろう。良くも悪くも、俺たちに与えられた文化はたくさんの変化を与えていた。


 だけど、それが全てをまるっと塗り替えてしまったという訳でもない。魔術が新しく生まれたところ、それで俺と陽彩の日常が豹変するわけでもなかったし。退屈な学校も日常も、意外と変わらないまま世界ってのは進んでいくのだ。


「……変わらないままじゃ、それはそれでだめなんだけどさ」


「……? 泰輔、何か言った?」


 ふとこぼれた呟きに、陽彩は首をかしげる。さすがの地獄耳でもそれは拾い上げられなかったようで、俺は内心安堵の息をついた。


 変わらなくてもいいわけじゃないが、だからと言って今急いで変えなければいけないわけでもない。――そして何より、そう思ってるのを陽彩にだけは気づかれたくないしな。俺が変わろうとするのを、必ずしも陽彩が好意的に受け入れてくれるわけじゃないだろうからさ。……陽彩に嫌われるのは、出来れば避けたいところだ。


「何でもねえよ。それよりあんましゃべらないようにしとけ、舌噛むから」


「え、それってどういう……きゃあああああっ⁉」


 その話題を誤魔化すべく、俺はさらに屋根を走る速度を高めていく。それに振り回される形になった陽彩の悲鳴が、風切り音とともに朝の街に響き渡っていった。

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①君の『悪役(ヒール)』は俺のもの!―—最高のヒーローになってもらいたいので、中途半端な悪は俺が叩き潰します―― 紅葉 紅羽 @kurehamomijiba

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