森と白花、君との約束
実杜 つむぎ
一年目 輝石の小川
変わってしまう今を、僕らは知っていた。風の香り、夏の匂い。不変の中で、眩む日差しを見ていた。
────
雨季が過ぎ、空気が日々温度を上げる朝。
「──想い出巡りをしよう」
一葉は、前置き無くそう言った。さらさらと風葉が歌う中で、その声はとても鮮明に目の前の少女に届いた。少女──カソウは、きょとんとした顔で数拍沈黙する。
「──想い出巡り?」
「うん。もうすぐ、君の誕生日だろう?」
「ええ、そうね」
「今日から数えて七日目、君と出逢ってからちょうど七年目。だから、今日から一つずつ、思い出の場所を辿っていこう」
「……誕生日に、一葉が見せてくれた?」
「うん」
「最後の日は?」
「また新しい場所に連れて行くよ」
それが、一葉からカソウへの誕生日の贈り物だった。出逢った最初の年から、誕生日には二人で特別な場所へ行く。
そう頻繁に行くのは彼女に負担がかかるので、いつもは神社の近くで語らう事の方が多いけれど、この広く深い森には、カソウを喜ばせる風景がたくさんあるから。
想い出巡り、なんて初めて言ったけれど。
「……今年は……、もう、機会は無いだろうから」
目を伏せた一葉の表情を木陰が隠す。言葉少なな少年に、僅かに微笑んでカソウは頷いた。
「……うん。そうね、連れて行って、一葉」
そっと伸ばされた白い手を引き、軽々と少女を抱き上げて、一葉が行くよ、と声を掛ける。まずは一年目。
──君は、〈輝石の小川〉と名付けた。
────
一葉の白い素足が土を蹴る。ぐんと一歩跳ねる度変わる景色は、いつの間にか岩が増え、湿り気を帯びた土から、濡れた石が目立つごつごつとした地面に変わっていた。
一際強く吹いた風に閉じた瞼の向こうで、さわさわと流れる水音。着いたよ、と呟いた一葉がカソウを降ろしたのは、岩場を縫うように流れる小川だった。
カソウの白いサンダルが、小さな石を踏んで音を立てる。転ばないように支えられて歩く川辺は、木漏れ日が揺れる度に瞬くように光った。
この森、特にこの川には、〈輝石〉と呼ばれる石が多くある。一見何の変哲もないくすんだ石に見えるが、大小の割れ目からキラキラとした鮮やかな光が漏れるのだ。そして、この森の輝石はこの小川が一番美しく光る。
滑らないようしっかりと一葉の腕に掴まり、カソウは川岸から水中を覗き込んだ。
流れ岩に当たる水の揺らぎ。それに呼応するように、地面のものよりも強く、水底が揺れる水面に合わせて彩やかな光を放つ。絶えず揺れ移ろうその輝きは、万華鏡を覗き込んだ時に似ているとカソウは言った。
輝石は、生まれた森を出ると数日で光を失い、ただの石になってしまう。だからカソウは、本の中、僅かな文章でしか他の森の輝石を知らない。けれど、カソウにとって最も美しい輝石は、この森、この小川の輝石であるのは間違い無かった。
「……そういえば、不思議ね」
「何が?」
「川辺にある輝石は、少ないけれど暖色系もあるのに、水底に入れると、森の色にしか光らないでしょう? なんでかしら」
「……そう。僕には当たり前だけれど、カソウには不思議なのか」
よく分からないと言いたげに淡々と相槌を打つ一葉に、カソウが小さく笑う。
「ふふ。懐かしい。小さい頃から、私が不思議だって言うと、そうやって一葉も不思議そうにしていたわよね」
「そう見えた?」
「ええ」
川岸より少し離れた、さらりと乾いた岩に並んで座る。足を揺らしながら、カソウは遠くを見るように目を細めた。
「……ねえ、一葉。想い出巡りなら、想い出話をしましょうか」
「例えば?」
「そうね、まずは、やっぱり初めて逢った時」
カソウは六歳、まだ若葉が柔らかい、春の日だった。
「書き置きだけ残してこっそり来たの。まだ引っ越して来たばかりでお父様は忙しかったから、結局書き置きを見る前に私、屋敷に帰ったのだけど」
「一番森に近い家とは言え、よく小さな足で森を行き来できたと思うよ。初めて来たのに、上手に森を歩いてた」
「ふふ、ありがとう。……それで森の鳥居をくぐって、小さな拝殿まで来て。お参りしてその奥に行こうとしたら、目の前に一葉が立っていたの」
あの時は本当にびっくりしたわ、と楽しげに笑う。
「村人にしては見ない顔だな、と思ったから。それに、君はとても特徴的だったし」
「そうね、あの時もそう言ってた」
初対面の第一声が、『なんだか特徴的な気配がする。君は誰?』だ。あそこまで淡々とした声は初めて聞いたので、カソウは色々な意味で驚いてしまった。
「君の返答も中々だったけど」
『君は誰?』と聞かれて、カソウは少し考えてこう答えた。
『森に呼ばれて来たの!』
名前ではなく、来た理由。感情の薄かった一葉も流石に戸惑って、また噛み合わない返答をした。
『本名を言わないのは、いい事だね』
今思えば、二人共他者と話す経験が無さすぎたせいもあるのだろう。
二人で同じ場面を思い出して、くすくすと笑う。懐かしいと思う程時間が経ったのに、一語一句違わず思い出せる。
「あの時、一葉、笑わなかったでしょう? 『森に呼ばれた』なんて、感覚だからそうとしか言えなかったのだけど」
「そうだね、君が〝繋がってる〟のは分かってたから、納得した」
「聞き返されて、『成程』って頷いて、それだけだったから……私凄く驚いたし、嬉しかったの」
「嬉しい?」
「ええ」
揺れる踵を、とん、と岩に跳ねる。
「あの頃はまだ、どういう感覚が他人に伝わらないのか、分からなくて。お母様なら、伝わったのかも知れないけれど、お父様はどうしても戸惑いが強いようだったし、それ以外の人とはあまり話す機会も無かったし」
誰かに伝わって欲しかったの、と呟く横顔は、幼心を思い出したのか少し寂しげだ。
「一葉は、笑わなかったわ。笑って誤魔化さなかった。分かったふりじゃなくて、拙い言葉でも正しく伝わったのが分かって、本当に嬉しかったの」
「それは良かった」
「ふふ、そこで大袈裟だって言わないのが一葉らしい」
「言って欲しいの?」
「いいえ。私にとっては大袈裟なんかじゃないもの」
とても大事な事よ、と笑う横顔に、もう陰りは一つも見当たらなかった。
大切にしまっていた宝物を打ち明けるように、明るい顔で笑う。カソウはいつもそうだった。彼女は一葉の知る限り、一番過去を愛おしむ人だった。
──ふいに沈黙が横たわる。水のせせらぎと森の音が感覚を満たす。どこか居心地のいいそれを、秘密を明かすようなカソウの声が色付けた。
「──初めて、ここに来た時。一年目の誕生日。ねぇ、一葉、知っていた? 貴方はいつもの無表情だったけど、」
あの時、誕生日を祝ってってせがんだのは、貴方に困って欲しかったの。何でもいいから、感情を見せて欲しかったのよ。……小さな声に、あの日の少女が重なる。初めて彼女が願った事で、初めて一葉が贈った時間だった。
「──うん、知っているよ」
あの日、春から通いつめる少女が初めて願った言葉に、どれだけ勇気を込めたのか。きつく握りしめた手も、揺れる大きな瞳も憶えている。
「じゃあ、カソウ。君は知っている?」
変わらない表情の裏で、あの日の一葉が、とてもとても緊張していた事。小さな女の子に、喜んで欲しかった事。笑って小川を愛でる彼女に初めて表情を変えた事。ねぇ、きっと気づかなかっただろう、と一葉は照れくさそうに笑って言った。
──ほら、まだこんなに、見えない想い出があるんだよ。
呟いた一葉とカソウの瞳に、今と変わらない、輝石の沈む小川が映った。
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