二年目 囀りの籠
カソウが住む屋敷の裏手からは、森の入り口、小さな神社へとまっすぐ進む小道がある。村人達が神社に参る道とは違い、人が一人二人横に並べる程度の細さの道だ。
片手に下げた傘をゆらゆらと揺らして森の木陰に踏み入ると、神社の鳥居からカソウと同じ、木漏れ日の瞳の男性が歩み出て、カソウと目が合った。
「おや、撫子。今日も早起きだね、おはよう」
「おはよう。お父様も早起きね、お参りに来たの?」
「ああ、いいのが手に入ったからね。お供えして来たんだ」
「そうなの? わざわざ外から買ったのね?」
「ふふ、いつもぼくの手作りでは飽きられてしまうかもしれないから」
柔く穏やかな笑みをこぼすと、父親は彼女の傘に目を止めて首を傾げた。
「どうして傘を? 今日はとてもいい天気だよ」
「今日は雨の匂いがするの。占いにも晴天と雨が重なっていたわ」
「天気雨かな……。森に入って大丈夫かい?」
「大丈夫」
微笑むカソウをじっと見て、父親は一つ頷いた。大丈夫というなら、そうなのだろう。気をつけて、とだけ言って娘を見送るその胸奥に、ひっそりと寂しさが息づく。
「もう少し、片付けが下手であってほしかったな」
呟きは、森外れの木漏れ日にぽつりと落ちた。
────
神社で待っていた一葉に抱えられて、カソウは風を切る。目指すのは、二年目の誕生日を過ごした場所だ。
あの日、二人で〈囀りの籠〉と名付けた場所。枝が複雑に絡み合って、逆さまの籠を被せたような空間には、枝葉の緑を受けた光が木漏れ日とは違う絵を描いている。
零れ陽を受ける小さな野花が、柔らかく地面を深緑に染めていた。
枝葉の衣擦れに似た音を立てて、そっと二人柔い草場に腰を下ろす。くるりと辺りを見回して、カソウは興味深そうに目を輝かせた。
「ここは晴れている時はこんな景色なのね」
「……ああ、あの日は雨だったから……曇天で薄暗かったし、違って見える? 晴れてからもう一度連れて来たらよかったかな」
「でも、ここが一番綺麗なのは雨の日なんでしょう?」
珍しく雨が降った誕生日。しとしとと静かな雨の中、傘を差して森に入ったカソウに、神社で佇んでいた一葉は呆れたように目を細めていた。
それでも、雨模様でもカソウが喜ぶ景色を見せようと、たくさん考えて連れて来たのがこの場所だった。
ぽつり。冷たさが頬に触れた気がして、カソウが空を仰ぐ。一葉が傘を差してすぐに、雨を遮る枝をすり抜けた一粒が、足元の若葉に煌めく。雲を纏い忘れた晴天から、雨が零れた。
「ああ、ほら。雨だ。聴こえてきたよ」
一葉の囁きに応えるように、籠が雨音を奏でる。
──ピューィ ピールルル
しとしと、ぽつりぽつり。耳馴染んだ雨音の変わりに、澄んだ鳥の囀りが響く。頭上の籠に雨粒が触れる度、森で歌われた鳥歌が軽やかに広がった。
『わぁ……! 不思議ね!』
『不思議? そう。君が思うなら、そうなんだろうね』
幼いカソウと、あの日の一葉。今と同じ言葉も、まるで感触が違ったのを思い出す。
「ねぇ、一葉」
「何?」
「不思議ね。どうして、鳥はいないのに囀りが聴こえるのかしら」
少し、違う言葉選び。あの日と同じ語りかけ。
一葉は少し考えて、煌めく雨雫に目を細めて答えた。
「……この森に生きる鳥達は、この場所の枝を使って巣を作るんだ。多い少ないはあるけれど。だから、雨が降って鳥が飛べない時は、憶えてる囀りを思い出すんだろうね。そうしたら、寂しくないから」
僕にも少し、分かるようになったよ。
抽象的な言葉。感覚的で、説明とは言い難い。けれど、そんな一葉の言葉を聴いて、カソウはふわりと嬉しげに笑った。不思議そうに首を傾げる彼に、歌うように語りかける。
「森のヒト。森に在るヒト。この森の不思議は、貴方には〝そういうもの〟で、あるがままに受け入れるもの。それは今も変わらない。だけど、」
ねえ、あの日と違う答えなのは。
「貴方の答えは、森の視点で、私とは違う理で……でも、考えてくれるのね。私に伝える言葉、私の知らない言葉。貴方にとっての〝不思議〟を、考えてくれるのね」
それがどんなに嬉しい事か、貴方に伝わればいいのに。嬉しそうに、カソウが笑う。それを見て、不思議ながらに一葉は微笑んだ。
二人は違う。まるで異なる。確かに繋がる縁があって、同じ時間を過ごしても、〈森〉と〈森の外〉では全く同じにはなり得ない。互いの〝不思議〟は、無くならない。
それでも、遮る壁越しに伸ばす手が重なるなら、理解できない寂しささえ、心を暖かくする。
──ピュルル チチチ……
雨糸が囀りを連れて来る。季節も名も違う鳥達の歌が重なる。雨音のように微かに軽やかに、見知らぬ鳥の声が聴こえる。
傘の下耳を澄ませたカソウの隣で、一葉が唇を開いた。
──♪
言葉では無く音が跳ねる。聞き覚えのあるそれに、カソウは楽しそうに声を重ねた。
──♪♪
それはとても古い歌。森の神社の祭事に欠かせない、森の為の歌。初めから歌詞は無く、この地では祝詞をこの歌に乗せて捧げるのだ。
二人の歌と囀りが重なる。雨粒が煌めく。不思議と、初めから曲の一部であったかのように囀りは音階に馴染んだ。いや、もしかしたらそうなのかもしれない、とカソウは思った。森の為に、森の音を集めて作った、森の歌。
どれだけ経っただろうか。繰り返し繰り返し歌う二人の視界から、煌めく雫が、鳥の声と共に波引くように途絶えた。傘を上げて空を仰ぐと、枝間から覗く晴天は、雨など知らぬ顔で小さな雲を浮かべていた。
「止んだみたいだ」
一葉の呟きは、どこか名残惜しそうだった。
もう一度、傘で空を隠す。ため息に似た呼吸を置いて、一葉はすっと立ち上がった。
「帰ろうか、カソウ」
手を差し出す一葉に、森鏡の不思議な瞳に、雨のような温度を感じたのはきっと、カソウの勘違いではなくて。
ほんの少しだけ、カソウは目を伏せた。
雨の匂いがする。草木や土の香りが確かな輪郭を持つ中、カソウを抱いた一葉が歩く。空気が濡れて水の匂いがするのは、二人のように、雨も名残惜しんだからだろうか。
幼い日、はしゃいだ声で掲げた傘を片手に帰る道すがら。伝う雫が、ほんのり囀った。
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