三年目 蛍の隠れ滝

 今日もカソウより早く参拝した涼やかな男が、鳥居を越えて森を出る。その背を見送った一葉は、彼が供えた袋を持って森の木々の呼ぶ方へ向かった。


 ぱらりぱらりと袋の中身を土に馴染ませる。彼──カソウの父親が供えるのは、いつも決まって肥料だ。正確には、〈緑の雫〉と呼ばれるものだが。

 村人達が供えるのは手製の日持ちする菓子であるとか、主に多いのは花などの森に還る物である。けれど、肥料……それも、基本的には自ら作ったそれを供えるのは、永い森の記憶にも彼くらいであった。


 農民というわけでもなく、カソウのような〝繋がり〟があるという事も無いけれど、本人も無自覚な〝縁〟を伝って木々が喜ぶ肥料を的確に供える男を、〈森〉は気に入っている。


 一葉も、娘を想って祈る男を、いつも静かに見守っていた。





────




 父親とそう間を空ける事もなく訪れたカソウと共に、三年目の思い出を辿る。向かうのは、〈蛍の隠れ滝〉。


 さらさらと流れる小川とは違い、窓の遮らない大雨のような重みのある水音が耳を打つ。

 ひやりと冷たい岩場の洞窟を越えて上を仰ぐと、重なり合う大岩に隠されるように、微かな陽を浴びて煌めく水が小さな滝となって飛沫を風に散らしていた。


 小さな滝に相応しく浅い滝壺から溢れた水が、流れを作って水の道を象る。小川と言うにも小さなそれを、カソウを抱えたまま飛び越えて、滝の傍、岩屋根の陰りに向かった。


 そっと降ろした足が滑らないように手を繋いで、二人影の落ちた滝奥を見つめる。


「見つけた」


 呟いた一葉が、森で拾った輝石を手に滝へ差し込み、手を叩く水の向こうへ光を当てる。チカッと火花のような瞬きが弾けて、滝向こうにふわりと光の花が咲いた。


 最初の花が照らした周囲で、小石のように岩に隠れた蕾が光に応える。ふわりふわりと呼応する光が花開き、まるで滝から光の波が走るように広がっていった。蛍の光のような、優しく色づく花が淡く水流の向こうから花弁を揺らしている。

 滝壺の傍、滑らないようにしゃがんだカソウが、白い指先で水際の花を撫でる。柔らかく震えた花が飛沫を散らして、彼女の指に水滴を伝わせた。



「──……ねえ、カソウ。君は、今も〈蛍〉が見たい?」


 カソウの傍らで水の瞬きを見ながら、一葉は囁くように言った。あの日見せる場所にここを選んだきっかけは、カソウが蛍を見たがったからだった。


 六歳でこの地に来て以来、カソウは屋敷より遠くへ行った事が無い。例外はこの森だけで、本で見た風景に憧れても、想像するだけで行きたいと言う事も無かった。

 幼い頃から、カソウは自分の事を、よく理解していたから。


 あの日、九歳の誕生日に、一葉の方から問うた。



『カソウ、何を見たい?』


 時折語る、未知への憧れ。父にも言えずにいたそれを、一葉は叶えたかった。それそのものを見せられずとも、憧憬を満たしてほしかった。


『──あの、あのね、一葉。……私、蛍が見てみたいの』


 

 沈黙の中からそっと覗かせるように打ち明けたカソウに、蛍の話を聴いて。この森にはいないから代わりにと、ここで花を咲かせて見せた。

 あの日の彼女は喜んで笑っていたけれど、今のカソウは、……見に行く事のできない〝本物〟を、どう思っているのだろう。


「……一葉、ありがとう」


 一葉の瞳を見つめて、カソウが微笑む。


「あのね、私、〈森〉が好きよ。いつだってたくさん考えて一葉が選んで、連れて来てくれた森の景色が、とても好き。憧れたのは本当。今も、ちょっとだけ見たいと思う。でも、私にとっての〈蛍〉は、この滝の〈蛍花〉だわ」


 貴方と名付けた、この花だわ。と、カソウは軽やかに笑って言った。


 この森で、種類という意味での名前を持つモノはほとんど無い。全て森の一部、〈森の古き神〉の一部に過ぎないからだ。認識する者が居てこそ、名前は意味を持つ。

 カソウは森とは違う。繋がっているけれど、〈同じ〉では無い。だから、カソウが名付ける事で、一葉が〝個〟を認識したモノがいくつもあった。

 この花も。この森の蛍。森が不可侵故にカソウしか知らない、この森だけの蛍。


 そうして名付けた〈蛍花〉がカソウの世界に色を添えるなら、とても嬉しい。と、慣れない心で一葉も微笑んだ。


 ホタルブクロの一輪花が蒲公英の綿毛を抱きしめるように、どこか凛とした、しかし柔らかい光が滝隠しの洞窟を彩る中で、二人寄り添う体温を感じる。少し低い温もりが、また一つ二人の違いを思わせた。



 ふとカソウが立ち上がり、上を見上げる。洞窟の岩に波の光が反射して、蛍瞬く波紋の空を描いていた。


 ひらり、スカートが揺れる。何を言うでもなく、ただくすくすと小さく笑いながら、カソウは白いワンピースの裾を揺らしてくるくると舞った。

 小さい少女がはしゃいでそうしたように、少し背の伸びたカソウが舞うのを、一葉はただ黙して見ていた。


 柔らかい花の蛍火。波紋の広がる岩場。微かな光を纏う滝の水飛沫。


 言葉の音一つで途絶える静謐を愛おしむように、小さな笑い声と白を添える少女を、白いつば広の帽子に影る微笑みを、少年は目を細めて見ていた。



 ふ、と蛍花が一輪、光を抱き込むように花弁を閉じた。ふわり、ふわり。光の届かない洞窟の花から、先程咲き広がった波を遡るように、咲く時よりゆっくりと、水奥の蛍花達が眠っていく。


 幼いカソウが、『もう、終わってしまうの?』と名残惜しそうに呟く声が遠く思い出された。


 静かに、小さな水音一つ揺らがさずに、蛍花の光が途絶える。微かな吐息の音が二つ、言葉にならない寂しさを重ねた。



 あっという間に陰ってしまったような気持ちなのに、もう遠い日差しが中天を越えて傾いだ気配を感じる。『帰ろうか』という一言さえこの静けさを壊してしまいそうで、一葉は黙ってカソウの眼を見た。

 彼女の木漏れ日の瞳がぱちぱちと瞬いて、緩く細まる。


 沈黙の中でカソウを抱えた一葉が森を歩く。木の葉のさざめき、色づく森の囁きと微かな呼吸の音が世界の全てのようで。



 理由などなく、言葉を失くしてしまいたいと思った。


 二人で視線を交わして小さく笑ったのは、きっと、そんな絵空事を互いに感じたから。

 確かに言葉を失くした一瞬が、滝の水奥で陰ったからだろう。

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