新しい想い出の場所
その日、カソウはいつもより早く目覚めた。彼女が庭から空を見上げると、曙の空は淡く色付き、頭上は普段より淡い勿忘草色に染まっていた。
その色に、小さな青い花を思い出す。とうに時期の過ぎたその花は、カソウの心に似た願いの名を持つ花だった。
「今日で最後ね」
想い出巡りは、これで最後。積み重ねた六年を巡り終えて、まだ見ぬ七年目へ。新しい場所の想像がつかなくて、今までの誕生日と同じように、カソウは笑った。
今日はどこへ行くのだろう。一葉は、どんな場所を終わりに選ぶのだろうか。
──────
一葉が拝殿に寄りかかるようにして佇んでいると、カソウの小さな足音がした。足音を立てない一葉と違って、枝や枯葉を鳴らす軽い音が、その気配と共に少女の訪いを知らせる。
「おはよう、一葉」
「おはよう、カソウ」
いつものように彼女を抱き上げようとして、一瞬、躊躇うように一葉の腕が揺れる。
「一葉?」
「…………。……行こうか」
流れるように軽々とカソウを抱き上げた一葉を見上げても、木陰に陰った瞳は伏せられて、その感情を覗う事はできなかった。瞬きの間に彼はいつもの表情に戻ってしまって、きょとんとするカソウに、いつもの温度で囁いた。
「さぁ、行こう。……そしてまた名前を付けて。カソウ、」
君にずっと、見せたかったんだ。
──駆ける、駆ける。跳ねるように、揺らがず、乱れず、迷う事無く一葉が森を駆ける。どこかいつもより静かな木々の間をすり抜けて、カソウを知らない場所へ連れて行く。
ふと横を流れる景色が明るい若葉色に染まり、枝間から差し込む陽の光が鮮やかになった。
カーテンを翻すように強い風に目を瞑る。風が止むと共に、一葉がカソウに呼びかけた。
「……カソウ、着いたよ。……誕生日おめでとう。ほら、君の花だよ」
声に導かれて、目を開く。少し驚きに目を見開いて、カソウは微笑んだ。
「──あぁ、だから、〝カソウ〟だったのね」
雨上がりの雲間から零れる光のように、はっきりと地面を照らす木漏れ日が白い花を淡く光らせている。
柔らかい霞のように小さく纏まって咲くその花は、風に吹かれるたび、木の葉の影に隠れるたび、その輪郭を解き仄かな花の香りと共に霞がかる。
〈霞草(カソウ)〉の名のとおりに白くけぶる、木漏れ日の緑を纏うその花は、風にふわりとなびくカソウの白緑の髪によく似ていた。
細身の樹々が光を零し葉影を落とす中、木々の間を満たす白い花が白波のように風に揺れる。
まるで、樹々は泉の水の中にいるようで、木漏れ日は水面の波紋を思わせた。木の葉の鳴らす風音が、一層水のせせらぎのように聴こえる。
「君が、僕に名前を付けて、自分の呼び名を欲しがった時、この花を思い出したんだ」
揺れる花霞を見ながら、一葉が呟く。
「まだ出逢ったばかりの頃、君の名を呼びたかったから。──きっと、似合うと思ったから」
〈一葉〉の名前がそうであったように、〈カソウ〉の名もまた、森の中でしか呼ばれない、二人だけの名前だった。
一葉の名は、名付けたカソウしか知らない。そして一葉は、カソウの本当の名前を知らない。知ろうとも思わなかった。一葉のような〝力あるモノ〟に名前を知られるのは、いい事ばかりとは言えないからだ。
「君の誕生日の頃に、毎年咲くんだ。今日、ちょうど満開になったんだよ」
「綺麗ね。屋敷の庭にかすみ草が咲いていたけれど、この花はまた別物なのね?」
「そうだね。昔、ここが森の際だった時は、村人も外に摘んでいく事もあったようだけど。根付かなかったようだから、多分〈森〉の外には無いと思う。名前は、その頃誰かが呼んだ名前を憶えていたんだ」
〈森〉で生まれ育つ中には、〈森の外〉のモノ達と名前や姿が似て非なるものも幾つかある。一葉は〈かすみ草〉を知らないけれど、〈霞草〉もそういうものの一つという事だろう。
ふと、一葉がカソウの頬に手を伸ばした。白く滑らかな肌を優しく指先で触れる。
「一葉?」
「カソウ。──君は、ひどい人だね」
森鏡の瞳に、唐突な言葉にきょとんとしたカソウが映る。
「君に教わった事がたくさんある。君が教えた事がたくさんあるよ。──君が、僕が〈森〉であり、〝個〟を持つ事を思い出させた。それでいて、僕とは違う時間の中にいるのだから」
だから、君はひどい人だ。
「……一葉、」
「ねえ、カソウ。だから僕は、これから先二度と君を〝ひどい人〟だと言わないよ」
「え?」
瞳を揺らすカソウに、初めて見る程柔らかく、一葉が微笑んだ。
「これから何度君に逢っても。今日、今ここにいる君以外の誰も、僕は〝ひどい人〟だと言わない。他のどんな言葉を繰り返して積み重ねても、こんな事は二度と言わないよ」
それがどういう意味か分かって、カソウは一瞬息を止めた。それから泣きそうな顔で、幸せそうに笑った。
「私、『明日が終わったら寂しい?』って訊いたのに。……それだけ聴いたら、聴きたい答えは貰えたから、もういいと思えたのに」
──貴方は一つでも、〝今だけ〟の言葉を用意してくれたのね。
嬉しそうな声は、一葉の世界にとても色濃く残った。
白い花が綺麗だった事。カソウの髪に似ていた事。微かな花の香り。波のような花霞。
カソウが、〈名残り霞の花泉〉と名付けたその場所の事を、たくさん語るだろう。何故そう名付けたのかを想い、何度も巡るだろう。
それでも、たった一つ〝想い出〟に語らない言葉、彼女だけへの言葉を、一葉は密やかにしまいこんだ。
──────
優しく穏やかな沈黙の中で寄り添い、日が傾いた頃、一葉はカソウを抱えて拝殿まで戻った。
すとんと地面に降ろされたカソウがふわりとワンピースを揺らすのを、一葉は静かな眼で見ていた。
「それじゃあ、一葉。──またね」
「……うん」
明日、とは言わない。今日が〝その日〟なのを二人共よく分かっていた。初めから知っていたから。
「ずっと、待っているよ、カソウ。──新しい君を、想い出と一緒に、ずっと待っている。」
「ええ。きっと〝その時〟の私も、貴方に逢いに来るわ。そうしたら、また想い出巡りをしてね」
「うん」
ずっと離せずいた手を、そっと離す。手を振り、身を翻すカソウを、一葉はずっと見ていた。一葉の視界から遠くなり、森の木陰からカソウが出るのを感じる。遠く感じるカソウと同じように、目元に指をやった。伝う雫を荒く拭って、木陰から夏空を仰ぐ。
「暑いなあ」
呟いた声に〈森〉が笑って、巡り廻る一番最初の別れを、〈一葉〉の奥で密かに見守っていた。
──────
変わってしまう今を、彼らは愛おしんだ。緑の匂い、夏の涼風。不変の中で、廻る約束を見ていた。
森と白花、君との約束 実杜 つむぎ @tokoyohana
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