六年目 木霊の想い出

 一通の手紙を開いて、カソウは小さく笑みを零した。親しい人の訪いを告げるそれは、カソウが今か今かと待ち望んでいたものだったから。

 カリカリと万年筆が紙上を滑る。綴る文字は、今は言えず、もうすぐ届く言葉達。やがて来る待ち人と共に、父はきっとこれを見つけてくれるだろう。

 言いたかった事、言えなかった事、言うべきでなかった事。たくさんの言葉にきっと父は気がついていた。それでいて、気づかぬふりをしてくれていた。理解できない事を理解して受け入れてくれた優しい父。


 置き去りにする寂しさは手紙と共に封をして、窓から望める森を遠く見た。


 一つずつ片付けた痕跡を、わざと刻むたった一つ。


「ごめんなさい、お父様」


 どうか新しい温もりと共に置いて行ってくれますように。勝手だと分かりながら、カソウは祈った。


 それでも彼女は、森だけに影を残すと決めたのだから。






──────





 

「今日は少し、深くまで行くよ」


 そう言った一葉に抱えられて、深い森の奥へ奥へと向かっていく。今まで見てきた景色が浅瀬でしかないというような深い緑は、溺れそうな程一つ一つの〝存在〟が重くあった。


 去年こうして連れられた時は、少し恐れを感じたように思う。永い年月力を蓄えた森の息づく気配が、とても大きく感じられて。


 けれど今こうして奥へ向かう中で、カソウの心に恐れは無かった。いつもより深い。いつもより近い。けれど、カソウを抱き上げる一葉がいる。〈森〉はいつだって、カソウの傍らにあった。



 枝先に袖のように蔦を提げた大樹や、連なり絡む樹々が思うままに伸ばす枝葉が道をふさぐように生い茂る中を、太い根を跳び、葉先一つ掠らずにすり抜けて、一葉が駆けて行く。

 カソウの眼には壁のように見える樹々が、まるで一葉の行く手に道を作ったかのように、一葉の動きが乱れる事はない。〈森〉はいつだって一葉に応える。



「──着いたよ、カソウ。ほら、目を開けて」


 一葉の静かな声に、いつの間にか閉じていた目を開く。目を向けた先に、眠りと芽吹きを見た。


 森の古き巨木達よりも更に大きくあっただろう大樹の名残。〈木霊の想い出〉と呼んだ場所。

 年月にひび割れた樹皮の向こうに空洞を覗かせ、伝う苔や蔦が小さな花を飾る。透き通るように淡く丸く光るキノコが足元を賑やかせ、割れた大きな根元からは若木というには少し立派な樹が、誇らしげに艶やかな枝先を古木から零れる陽に翳していた。



 古い、古い樹。この場所は数ある木の眠り場の中でも特別なのだ、と一葉は以前教えてくれた。


「……この樹は、たくさん見送ってきたのね」


 新たな命の糧として佇むかつての巨木。この樹は、この森が〈森〉として生まれた時、初めて芽吹いた木々の一本だった。

 そして、〈最初の古木〉の中で、最も永く生きた──一番最後に枯れた古木だった。兄弟樹とも呼べる始まりの木々全てを見送って、そしてきっと他の木々も数多く見送って、そうして枯れた樹。



「……。」


 静かに目を伏せて、カソウが思いを馳せる。それを見透かしたように、一葉が小さく呟いた。


「後悔など無いよ」


 静かな声は、揺らぐ事を知らないような音だった。


「古木が、生きる為に生きたように。見送った同胞が、廻る環の中で溶け合う理に抗わなかったように。そこに、悲しみも後悔も無かったように」


 深い森を映して、一葉の瞳が緩く細まる。


「ねえ、カソウ。想い出があるよ。君は知っているだろう。森の中に、巡った全てに、君は確かにいるんだ。忘れたりしないんだよ」


 それを、後悔なんてするものか。泣く子を宥めるように不器用に降る言葉に、カソウは一葉を見つめた。


 古木に馴染む一葉の髪が、名残り葉を吹き抜けた風に揺れる。こんなにも〝人〟に見えるのに、合わせが逆の着付け、傷つかない素足、不思議な森鏡の瞳。森の風に似た、変わらない体温。そんな小さな一つ一つが、異なる理をつきつける。寂しさを募らせる。


 けれど、そうした〝異なるモノ〟だから、今がある。巡り逢えた、時間が重なったのは、〈森の古き神〉の小さな興味、木霊達の無邪気な気まぐれの行く末。


 そして、そんな一葉だからこそ、カソウは心から願う事ができた。叶う事を疑わず、信じる事ができる。



「……ありがとう、一葉」


 カソウは過去が愛しい。未来に夢見るより容易く、過去はカソウの心に温度をくれる。自分の事を悟るようになれば尚のこと、瞬きすれば過去になる今を、今を形作る過去を、遠い陽炎たる未来より愛おしく思うのだ。


 そんなカソウを、一葉は責めない。抗わない事を、受け入れる事を、願う事を、そのまま全て見守ってくれる。父も知らない、誰も知らない多くを知っていて、許してくれる。


「ありがとう」


 何度伝えても尽きない言葉。どこか不思議そうな、困ったような一葉にはきっと届ききらない、けれど言いたくてたまらなくなってしまう言葉。


「ねえ、一葉。この樹の〈木霊〉は、見送った子達に逢えた?」


 あらゆる植物に息づき、特に古い樹、力持つ樹では姿すら持つ、緑の意思。この地の〈古き森の神〉それ自体。


「溶け合って、傍にいる。〈森〉の全ては、繋がっている。いつか一つになる環の中にある。だから、寂しくなんてないよ」

「そう。……ねえ、一葉」

「何?」


「明日が終わったら、貴方は寂しい?」


 私がいったら、寂しい? 小さな問いかけに、一葉は一瞬息を止めて、少し瞳を揺らして答えた。


「──分からない。……分からないけれど、カソウ。僕は、〝これ〟を寂しさと呼びたいよ。それ以外の名前を知らないから。君にはどう伝わる?」


「ええ、……私が欲しかった答えに、聴こえる」


 どこか泣きそうな笑顔で、カソウが一葉の肩に額を寄せた。木漏れ日に溶けてしまいそうな少女は、どこか幼い日の涙を思わせて、繋ぎ止めるように一葉が髪を撫でる。


「生きる為に、生きた。……ねえ一葉、私、きっと上手ではなかったけれど、残せたものがあったの。お父様はきっと、見つけてくれる。大事にしてくれるわ」


 だから。


「私の想い出は、全部一葉が持っていてね。これから何度季節が巡っても、これからの私ごと憶えていてね」


 人であれば難しい、あまりにも身勝手なその願いを聴いて。


「いいよ、僕にはそれができるから」


 迷わず受け入れて、「だから笑って」と一葉は優しく微笑んだ。


 寄り添う二人を見守るように、眠る古木から芽吹いた木々の枝葉の間から、柔らかく咲う緑の気配がした。

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