五年目 流星の湖

 カタリ。玄関の戸が鳴らす乾いた音に、カソウの父は読んでいた本からふと顔を上げた。きっと、カソウが家を出た音だろう。

 今日は珍しく、朝の参拝を娘はしなかった。代わりに、今夜は森に行ってくる、と事前に父親に言った。

 暗い夜、ただでさえ鬱蒼としげる森の草木は歩くのに苦だろうし、何より危ないだろう。それが彼女でなければ。

 カソウは特別だ。彼女の母、今は亡き妻がそうであったように、古い力に好かれている。そして、森に好かれている。


 いくら彼女達の話を真剣に聴いても、彼には分からなかった。彼女達と元は同じ血をひき、この地に縁があれども、踏み込めない領域がある。


 それが寂しくて、悲しくて、愛しい。そうした〝不思議〟があったからこそ、それがこの地、この森との縁であったからこそ、カソウは今まで父の傍にいてくれた。理由は分からずとも、彼はそれを知っている。


 だからこそ、ただ、邪魔をせずに見守っている。抗わない少女が望む数少ないそれを、取りこぼす事の無いように。せめて、置き去りの後悔が少なくてすむように。





──────





 夜の森はいつもとは違う、深い青を纏って佇んでいる。


 夜の香りがする。雨の香りにも似た、夜風特有の静かな匂い。土や木々の香りが昼間よりはっきりと感じられて、ひんやりとした温度に深く呼吸した。

 迷いなく足を進め、鳥居をくぐり、拝殿へ。躓きはしない、歩調は乱れない。歩き慣れた以上に、〝森〟たる一葉が呼んだカソウを、〈森〉が邪魔するはずが無いからだ。


 陽の木陰で歌う生き物の気配が夢であったような、しんとした木漏れ月の下。一葉の目にカソウの白緑の髪が淡く光るように見えた。



 駆け抜ける一葉が横に流す風景は、昼間よりもずっと青く深い色をしている。抱き上げたカソウの白いワンピースと柔らかな白緑の髪、しっかりと一葉に捕まるのに危うく感じる白い腕が、微かに枝葉から零れる月明かりに儚く照らされて、一葉は支える腕に少し力を込めた。


 しっかりと抱えていないと、夜闇が呑み込んでしまいそうなどと、初めて一葉は、意味の無い恐れを感じた。〈森〉で一葉がカソウを見失うはずが無いのに、何故そんな事を思ったのか。小さく戸惑いに揺れた瞳に、カソウも、一葉自身も気がつかなかった。



 カサリと乾いた音と共に、暗く陰った視界が開ける。木々が囲み夜空が映るそこは、広く深い湖だった。昼間であれば空の鏡のように澄んでいるのであろうが、今は仄かな月と夜の深さを映して、底知れぬ暗色に染まっている。湖の向こう、遠く向こう岸に見える木々は、周囲の大樹と比べてとても小さく見えた。


「もうすぐかしら?」


 カソウの問いに、一葉は頷いた。


「うん。いい夜空、いい天気だから。今夜はきっと、よく見えるよ」


 ほら、来た。一葉が指差す先をカソウが視線で追うと、一雫、星明かりが尾を引いて流れた。


 一つ目のそれを合図にしたように、二つ、三つ、始めは密やかに、やがて花開くように。星明かりを纏う雨が湖に煌めく。〈流星の湖〉の名のとおり、けして夜を切り裂かない淡い光が、深く闇色をしていた湖を彩り、鮮やかな星空が近く届く場所に現れた。


 雨が森を一層涼やかに魅せるように、星のように瞬き湖に飛び込む細い光は、周囲の夜の森を一層青深く魅せる。岸辺にせせらぐ木の葉の歌を雨音に変えて、星の雨が降る。


 シャン、と水が跳ねるにしては軽やかな音と共に、湖の畔に立つカソウの足元に、星色が届いた。


「カソウ、少し待って」


 手を伸ばそうとしたカソウを止めた一葉が、そっと拾い上げたそれにふ、と息を吹く。キラキラとした瞬きがふわりと落ち着いたのを見て、一葉はカソウの手にそれを渡した。


「……綺麗」


 今より少し子供のカソウが跳ねるように言った言葉を、今のカソウは夢見るように囁く。

 形を定めかねているような不思議な形をした、ガラス細工に虹を閉じ込めたような小さな欠片。こうして持つ間にも瞬くたびに輪郭が薄れて、名残惜しく見るうちに夜風に溶けるように消えてしまった。


「この〈流星〉は、こんな姿をしていたのね」


 以前来た時より、少し湖に近づいたから届いたのだろう。初めて見た光雨の間近の姿に、カソウはふわりと楽しそうに笑った。



『──夜の森を見てみたいの。連れて行ってくれる?』


 二年前、幼いより相応しい言葉を探し始めた少女が、誕生日の朝に願った。望みを問わずとも言ってくれたカソウに笑って頷いた一葉がここに連れて来たのは、夜にしか見られない景色が、彼女の〝特別な日〟に相応しいと思ったからだった。



 あの頃より背が伸びた。柔らかい輪郭が、柔らかさはそのままに大人びた儚さを纏うようになった。幼い頃見上げた一葉を、視線を合わせて寄り添うようになった。

 変わらない一葉に、あっという間に追いついてしまった少女。


「カソウ」

「なあに?」


「君は変わらないね」


 星が空繋ぐ湖を見ていたカソウが、一葉を振り向く。


「変わった事がたくさんあるけれど、それよりずっと、変わらない君を知っているよ」


「憶えていてくれる?」

「全部、憶えているよ」


 カソウが望む事も。カソウが選んだ事も。変化も、移ろいも、変わらぬ本質も。全て憶えている。憶えていられる。

 それができる事、叶えられる事を、今の一葉は嬉しく思う。


「〈星〉が綺麗ね、一葉。あの日よりもっと綺麗。貴方は、どう思う?」


 問いかけに、少し沈黙する。一葉にとって、それは遠く異なる言葉だったから。思い出す、〝人〟の感覚。〈森〉の記憶から外れた、ちっぽけな子供は、確かにその答えを持っていた。


 〈一葉〉の感情が揺れる。〝人〟でなく〝ヒト〟である故に少し悩んで、星明かりを淡く映す少女の瞳に、答えを見つけた。


「……うん、そうだね。〝綺麗〟だ。」


 本当に。小さく呟いた声は夜風が溶かして、嬉しそうに笑うカソウを一層〝綺麗〟に見せる。


 星に答えを持たずとも、目の前の少女が教えてくれる。一葉に名をくれた彼女が、彼に揺れる心の名前をくれる。


 最後の一葉。終わらない終わり。彼女の為の森。カソウが願ったとおりに、一葉は在りたいと思う。抗わない少女を、変えたいとは言わない。思わない。けれど、ただ。


「ねえ、カソウ、」


 言葉にならない問いかけを拾い上げたように、煌めく木漏れ日の瞳で彼女が微笑む。静かに夜が香る緑の風が髪を揺らして、音の無い答えが返ってくる。


 幸せそうなカソウに微笑み返す一葉は、自分では気づかない程淡く、けれど深く、幸せそうに目を細めていた。

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