伽藍胴

伊島糸雨

伽藍胴


 真夜中零時、細いベランダに置いた鉢植えに水を注ぐ。近頃は隣室からうっすらと煙が漂ってくる。腰を上げて夜気を吸うと、一緒に甘い匂いが肺を満たす。目が合うと慣れた様子でにこりと笑う。「こんばんは」「おはようございます」

 電気がついているところは見たことがない。「もう寝るんだよ。あなたと違って」隣人は呆れたようにそう言った。煙草のあとは歯磨きするんですか、と訊ねてみると、「してた方がいい?」と言われたので頷いた。「じゃあ、してる」本当のところはよくわからない。

 隣人の身体は〈伽藍胴がらんどう〉だという。「中身はセンターに預けてる」二の腕をぺちぺちと叩いてみせるけど、こちらにはいまいち判別がつかない。「病気なのかもしれないし、元の身体が嫌だったのかもしれない。それともただの逃避行かも」かもしれない、かもしれない。隣人は可能性の塊だ。「お金持ち?」「かもしれない」たぶん、それは事実だ。

「〈伽藍胴〉かどうかは歩き方でわかるよ」歩行者を指差して隣人が言う。「バランサーのせいで皆同じになる。集めたら不気味だね」ゾンビもそうかな、と言ってみる。映画を見たばかりだった。「意識のある死人」隣人は呟いた。「内臓はないけど」そしてひとりで笑っている。残念ながら、自分が笑った記憶はない。

 延長戦の終わりは見えない。もちろん私も探す気はない。「悪い子だ」怠慢はどうやらよくないらしい。「でも、悪いのは良いことだよ」フォローになってないと思いながら、その日は一本煙草を吸った。スースーして妙に甘くてしばらく匂いは残り続けた。「悪い子の気分」もちろん、私はもう子供じゃない。

 一定の距離を保ち続ける。広がる世界は仄青い光の中で眠っていく。二十五時のオーバータイムで少しだけ言葉を交わす。「その花、本物?」首を振って答える。偽物イミテーション。本物だと、枯らしちゃうので。

「それがあなたの〈伽藍胴〉?」かもしれない。鸚鵡のように言ってみて、鉢の底から水が漏れていることに気がついた。うっかりあげすぎたらしい。でも、放っておけばそれでいい。

 隣人はいつの間にか消えている。「ずっと空き家だよ」大家は言った。不法侵入。悪い子はどうやらあちらだったらしい。真夜中零時、隣室の扉を叩く。ごんごん、後は何も聞こえない。最初から何もなかったみたいに、そこは空虚で伽藍堂。でも、それが好きなのは、悪いことじゃない。

 二十五時のオーバータイムで私は造花に水をやる。街は眠り、私は目蓋を開く。甘い匂いはもうしない。隣室はずっと暗いまま、夜気は冷たく澄んでいる。「おやすみ」言葉は伽藍堂に蕩けて消える。


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伽藍胴 伊島糸雨 @shiu_itoh

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