(5)新しい命
1993年5月16日、日曜日。
これまでシーナが定期的に検診に通っていた隣町の総合病院の産婦人科棟にシーナを入院させる事になった。
この病院は俺達が出資して建設したもので、無痛分娩の技術に長けている。
無痛と言っても実際に妊婦に全身麻酔をかけてしまうと、うまくいきむ事が出来ずに子供が産道で留まってしまう危険がある。
なのでこの病院では、硬膜外麻酔や脊髄くも膜下麻酔を使って分娩時の痛みを和らげる方法を選択していて、妊婦は産道を子供が通るのを感じる事も出来るし、タイミングよくいきむ事が出来るというものだ。
プレデス星で子供を産む時にも同じ技術が使われており、これらはプレデス星の中等部の性教育で学ぶレベルの事だ。
この時代の日本ではまだ無痛分娩の技術は浸透しておらず、日本国内で無痛分娩を行える産婦人科を有する病院はこの病院ただ一つだ。
前世の日本で無痛分娩が広がりだしたのは2010年頃だったと思うが、それでも全体の5%程度の病院でしか実施されていなかった。
背中からカテーテルを入れて麻酔薬を注入する事にまだ抵抗があったのかも知れないが、元気な子供を産む為には、母体のストレスを軽減して産む方が良く、妊婦が苦痛を感じながら子供を産むのはあまり良い方法では無い。
少なくともプレデス星の常識ではそういう事になっていて、イクスとミリカの子供を産む時もそうだったし、ライドと優子の子供を産む時も同じく無痛分娩を行った。
今日の検診によると、シーナの出産予定日は5月23日の日曜日、丁度来週の日曜日という事だ。
シーナが入院している間は俺が付きっきりで世話をする事にし、シーナの要望で用意したテレビを見ながら一日を過ごす事になりそうだ。
丁度今月は『Jリーグ』というプロサッカーリーグが開幕したところなので、テレビ番組はJリーグを盛り上げようとサッカー関連の番組だらけになっていた。
シーナは地球に来てからよくテレビを見ていた。
報道番組は「表面的な事ばかり話していて、本質から目を逸らそうとしている」というのがシーナの評価で、その後ほとんど見る事は無い様だ。
お笑い番組なども見ていたが、特にお笑いに興味があるという訳では無さそうで、単に日本人の言葉による感情への影響に興味を持って見ている様だった。
好んで見ているのは音楽番組とスポーツ番組で、シーナはこの時代の日本のポップ音楽を気に入っている様だし、スポーツ番組は相撲に始まり、野球やサッカー等も楽しんでいる様だ。
プレデス星やクレア星には、こういったエンターテインメントは皆無だった。
ティアはあまりテレビには興味が無い様だが、シーナは暇な時にはいつもテレビを見る様になっていた。
俺は随分と大きくなったシーナのお腹を撫でながら、初めて授かった自分の子供に思いを馳せた。
これまでの定期検診で分かった事だが、生まれてくる子は女の子だ。
名前を決める為にシーナと話し合った事があったのだが、シーナが、
「この子の名前はショーエンが決めて欲しい」
と言うので、俺は色々考えて、この子の名前を既に決めている。
「これから一週間、俺はずっとここに居るからな」
俺がシーナの手を握りながらそう言うと、シーナは少し苦しそうに身体をよじり、俺の顔を見て無言でほほ笑んだ。
「苦しそうだな。無理はしなくていいから、今は休め」
俺がそう言うと、シーナは軽く頷いてから、静かに目を閉じた。
しばらくそのままじっとしていたが、やがてシーナの寝息が聞こえだすのを確認して、俺は飲み物でも買ってこようと立ち上がろうとした。
しかし、シーナの手が俺の手を握り返していた為、俺は立ち上がるのを止めて、再び丸椅子に座ってシーナの傍にいる事にした。
ベッドの脇にはカーテンがかかった窓があり、柔らかな光がカーテンの隙間から漏れている。
時計を見れば、時刻は15時を過ぎたところだった。
部屋の入口扉の向こうから、ナースシューズらしき足音が聞こえてきて部屋の前で止まった。
コンコンとノックの音がして、
「検温のお時間で~す」
という看護師の声が聞こえた。
「どうぞ」
と俺が言うと、扉が静かに開いてナース服を着た女性看護師がバインダーを小脇に抱えて入って来た。
「あら、シーナさんはお休み中なんですね」
とシーナが眠っているのを見た看護師は笑顔でそう言い、「じゃ、ちょっと体温だけ計っちゃいますね」
と続けながら布団の脇から手を入れ、シーナが着ているガウンの胸元をはだけて体温計を脇に差し込んだ。
5分ほど経って体温計を抜き取ると、
「36.8度ね」
と言いながらバインダーを開いて体温の記録を用紙に書き込み、時計を見てから時刻を書き込んでいる様だった。
「ショーエンさんは、ずっとシーナさんの傍にいらっしゃるつもりなんですか?」
と看護師が俺に訊いた。
俺は頷き、
「そのつもりだけど、邪魔になるかな?」
と訊き返した。
看護師は手に持った体温計をケースに戻しながら、
「ここは個室ですから、他の妊婦さんの邪魔にはならないと思いますが、ずっとこちらにいらっしゃるのでしたら、この丸椅子だけじゃ大変でしょう? もし良ければ仮設のベッドをご用意できますよ?」
とにこやかな笑顔でそう言った。
「それは助かるな。ぜひお願いしたい」
と俺がそう言うと、看護師は目を細めて俺を見て、
「いい旦那さんですね。シーナさんが羨ましいです」
と言いながら一歩下がり、「じゃ、受付で仮設ベッドの申請をしておきますので、1時間後位に2階のレンタルステーションに仮設ベッドを取りに行って下さいね」
と言ってペコリとお辞儀をすると、そのまま部屋を出て行った。
「いい旦那さんですね、か・・・」
看護師はそう言ったが、俺がいい旦那かどうかなんて、俺自身では判る筈もない。
前世の記憶を含めても、結婚して子供が生まれるなんてのは、俺にとって初めての出来事なのだ。
この時代の夫婦像といえば、旦那は仕事をして嫁が家庭を守るというのが一般的だった。
言い換えれば、旦那の収入だけで家族を守れるだけの社会構造がまだ残っていた訳だ。
しかし、これから起こるであろうバブル経済の崩壊によって、家族の在り様は激変する事になる。
それまで男性主導だった社会構造が、男性の収入が落ちる事によって弱まり、女性が権利の主張を始めるきっかけになる訳だ。
いわゆる『ウーマンリブキャンペーン』というのがアメリカで起こり、男女差別を無くして、女性にも男性と同等の権利を与えようという動きが世界中に波及するのだ。
しかし、今の俺は知っている。
その裏には邪悪な陰謀があるという事を。
一見、女性の権利を男性と同等にするのは良い事の様に思えるが、その裏には300人委員会の思惑が見え隠れしている。
まず、女性を社会進出させる事により、これまでは男性からしか得られなかった税金を、女性からも搾取する事が出来るようになる。
そして、共働きの家族が増える事により、子供達への情操教育までを学校が担う事になり、政府が子供のマインドをコントロールできる様になる。
これにより、子供達が大人になる頃には、より政府に従順な奴隷として社会に放出される事になり、逆に奴隷になれない者は『社会のはみだし者』として扱われ、まともに社会で生きていくのが難しくなってゆくのだ。
300人委員会は、そうして人類の選別を行っており、日本政府も鮫沢が退任した後からは、こうした動きが加速してゆく事になるだろう。
「俺達の子が奴隷みたいに扱われる国にする訳にはいかないからな」
俺は誰にともなくそう呟き、眠っているシーナの唇に軽くキスをして、立ち上がった。
そろそろ2階のレンタルステーションとやらに出向かないといけない時間だ。
俺は幸せそうな顔で眠るシーナの顔を見下ろしながら、
「少しの間、待っていてくれよ」
と言って、静かに部屋を出たのだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・
それから1週間、俺は昼間はシーナの話し相手になり、シーナの体調が良い時には病院内を散歩し、一緒に食事をし、夜は部屋に設置した仮設ベッドで眠った。
時折シーナが夜中に陣痛で目を覚ましたので、その度に俺はシーナの手を握ってお腹をさすってやったりもした。
1993年5月22日、土曜日の夜。
シーナのうめき声で俺は目を覚ました。
見ればシーナの額には玉の様な汗が浮かんでおり、顔は苦痛に歪んでいた。
「シーナ! 大丈夫か?」
と呼びかけながら俺がシーナの元に駆け寄ると、シーナは目も開けられない程に苦しそうに歯を食いしばり、
「ショーエン・・・、苦しい・・・」
と声を絞り出している。
生まれるのか!?
俺はすぐさまベッドの脇にあるナースコールのボタンを押した。
30秒くらいして扉の外で廊下を走ってくる2人の足音が聞こえて来る。
「シーナ! もう少しの辛抱だぞ!」
と俺にはそうして励ます事しか出来ない。
俺がそう言い終わるか否かのタイミングで部屋の扉が開き、2人の女性看護師が部屋に入って来た。
「どうしましたか!?」
と看護師の一人がそう訊いたが、もう一人の看護師は一目で状況を察し、すぐにベッドの足に設置された車輪のストッパーを外した。
その姿を見たもう一人の看護師も状況を把握し、部屋の壁に設置されたインターホンを操作して、
「先生! 202号室のシーナさんが産気付きました! これから分娩室に運びます!」
と言ってシーナのベッドの頭の方にある取っ手を握り、ベッドを部屋の外へと引いた。
俺はその状況を見て少しパニックになっていた。
冷静にテキパキとシーナのベッドを二人で廊下に走らせ、突き当りのエレベーターに向かう看護師たちを見ながら、俺はテクテクと付いて行く事しか出来なかった。
とうとう生まれるのか!
デバイスで時刻を確認すると、今は22時12分。
予定よりも1日早いが、いつ生まれてもおかしくない状態なのは、先ほどのシーナを見れば俺にだって分かる。
俺はシーナが乗ったベッドと共にエレベーターに乗り込み、
「ショーエンさん、大丈夫ですよ」
と俺を励ましてくれる看護師の声に、俺は自分の無力さを思い知って涙が出そうになった。
俺はそんな気持ちのまま、ベッドの上で苦悶の表情を浮かべるシーナの手を握り、
「シーナ、俺はここに居るぞ。ずっとここに居るぞ!」
そう言って、少しでもシーナが救われるならと声を上げていた。
ほどなくしてエレベーターの扉が開き、看護師たちはシーナのベッドを廊下に走らせ、一番手前の左側の部屋の扉をベッドで押す様にして入った。
部屋の扉には『分娩室』と書かれており、俺は扉の前で立ち止まった。
部屋の中には看護師の他に助産師が居て、更にゴム手袋を装着しながら俺の脇を通りすぎて部屋に入る女性医師の姿があった。
「ご主人さん、これから分娩を行いますが、時間がかかるかも知れませんから、しばらくこちらのベンチでお待ち下さいね」
思い出した様に振り向いた女性医師は、俺にそう声をかけた。
よく見れば、部屋の入口の外側にベンチが置かれていた。
俺は頷いてベンチに座り、両手を合わせて神に祈る思いで目を瞑った。
神の使いである俺が神に祈るだなんて、なんと滑稽な話だろうかと他の誰かが見たらそう思うかも知れない。
しかし俺はただの人間だ。
地球とは比べ物にならない技術の発達した惑星で生まれただけの、何でも無いただの人間なんだ。
それからしばらくシーナの苦しそうな声が聞こえていたが、やがてシーナの声が聞こえなくなり、看護師達が慌ただしく働く音が聞こえて来た。
おそらく、無痛分娩を行う為の麻酔が行われているのだろう。
麻酔の量を調整するのはとても繊細な作業だ。
妊婦の健康に影響が無い様に細心の注意が払われているのだ。
俺がここでジタバタする訳にはいかない。
あとはプロに任せて、ただ待っている事しか出来ないのだ。
こういう時、男というのは本当に無力だな。
ティアやシーナが信じる俺の本当の姿は、この程度なのだ。
それから15分位経過しただろうか、それまで静かだった廊下に、にわかに騒がしくなった分娩室から声が聞こえだした。
「破水したよ!」
という女性医師の声が聞こえた。
途端に室内が慌ただしい雰囲気になる。
俺はその音を聞きながら、廊下のベンチで両手を合わせ、
「どうか無事に生まれてくれます様に・・・」
と念仏の様に唱えているだけだった。
「息を吸って、ひぃ、ひぃ、ふー、ひぃ、ひぃ、ふー。ほら、いきんで!」
そんな声が聞こえる度に、俺もいつしか「ひぃ、ひぃ、ふー」とシーナの呼吸に合わせていた。
ただ座っているだけの俺の足いはいつの間にかつま先立っていて、いかに身体が強張っているのかをそれを見て気付いた程だ。
「落ち着け落ち着け・・・、俺がこんなんでどうするんだ」
今シーナは、一生懸命に新しい命をこの世に生み出そうとしているんだ。
俺とシーナの遺伝子を受け継いだ新しい命が、間もなくこの世に生まれようとしている。
こんな感動的な事が、前世でホームレスをしていた俺に訪れたんだ。
前世の俺には想像も出来なかった事だ。
だけど今、その瞬間が訪れようとしている。
生まれて来るのは女の子だ。
名前は既に決めている。
生まれて来る子の名前は「タニア」だ。
スペイン語で『美の女王』を意味する、シーナの美貌を受け継ぐのに相応しい名前だと思っている。
だからこそ、無事に生まれて欲しい。
そして、シーナの身体も無事であって欲しい。
そして・・・
俺がそんな事を悶々と考えていた時、
「おぎゃぁあ!」
という赤ん坊の泣き声が聞こえた。
「ほうら、生まれましたよ! 元気な女の子ですよ!」
という助産師の声と共に分娩室の扉が開き、看護師が出てきて俺の姿を見ると、
「無事に生まれましたよ! 元気な女の子です!」
と言って俺を分娩室の中へと招き入れた。
部屋の中はビニールのカーテンが引かれており、そのカーテンの奥に分娩台があった。
そこには大きく足をM字に開く形でぐったりと肩で息をしているシーナの姿があり、胎盤から延びたへその緒を切ってシーナの中に戻す処置を行っている女医の姿も見えた。
俺が生まれたばかりの赤ん坊がぬるま湯で洗われてシーナの腕に抱かれるのを見て近づこうとするのを、看護師が止めた。
「先にこちらで消毒しないといけませんよ」
という看護師に促され、俺は不織布で出来たガウンを着せられ、ヘアキャップをかぶった姿で洗面台で両手を洗い、アルコールで消毒された。
紙タオルで俺の両手を拭き取った看護師は、
「どうぞ、シーナさんの元に行ってあげてください」
と俺に笑顔を向けて言うと、カーテンをめくって俺を中に入る様に促した。
「ありがとう」
俺は看護師にそう言うと、数歩進んでシーナの前で膝をついた。
「ありがとう、シーナ。元気な子供を産んでくれて、本当にありがとう・・・」
俺はまだ大きく息をしているシーナの手を握り、シーナの額に少し長めのキスをした。
シーナは目を瞑って深呼吸し、それから目を開けて胸に抱いた泣いている赤ん坊の姿を見てから、俺の顔を見た。
「ショーエン・・・、私、ショーエンとの子共を生んだのです」
と言って誇らしげに微笑み、「これで私は、本物の妻になれた気がするのです」
と言いながら、その目にみるみる涙を溜めていた。
「ああ、お前はテキル星に居た時からずっと俺の妻だったぞ。そして今、俺もシーナも、この子の親になったんだ」
俺はそう言ってシーナの涙を指で掬ったが、俺の目にも涙が溢れていたせいで、シーナの姿がにじんで見えていた。
「長い間、この子を身体に宿して大変な思いをしてきただろう。よく頑張ってくれたな。心から感謝しているぞ」
と俺はもう一度シーナの額にキスをして、「今度はシーナの身体が元に戻るまで入院をしなくちゃな。それまで俺も傍にいるし、この子・・・、タニアも一緒に居るぞ」
と俺は、生まれて初めて我が子の名を呼んだのだった。
「タニア・・・、いい名前なのです」
シーナはそう言うと、疲れが出たのか眠そうに目を細めた。
「さあ、タニアちゃんは一旦こちらで預かってお部屋に運びますから、シーナさんは処置が済んだらもう一度ベッドに戻って下さいね」
と看護師がそう言って赤ん坊を抱き上げ、「ご主人は先に2階の部屋でお待ち下さいね」
と言って俺を部屋の外に出る様に促した。
俺は頷いて立ち上がると、シーナの顔を振り向き、
「じゃ、俺は先に部屋に戻ってるな」
と言ってシーナに手を振った。
シーナも俺に手を振り返し、看護師に補助されながら身体を起こしていたのだった。
1993年5月22日、土曜日。
23時55分。
俺とシーナの遺伝子を受け継いだ、タニアという新しい命がこの世に生まれた。
俺は今日の事を忘れる事は決して無いだろう。
新しい命が生まれるというのは、それほどに神秘的な出来事だったのだ。
異世界に転生したからどうだってんだ。
この世にはそんな事よりもっと神秘的な出来事が、こんなにも身近にあるんだ。
そして、こうして生まれた命を、まるで虫けらの様に考えている連中が居る事に、この上ない怒りが湧いてくる。
300人委員会の奴らにも家族は居るだろう。
なのに他人の命を思いやる事も出来ないクズ連中なのだとしたら、それはやはり、俺の敵という事だ。
「守って見せるぞ」
俺は誰も居ない部屋の中で一人、シーナが抱くタニアの姿を思い出しながら、そう呟いたのだった。
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