頭上の足音
益田ふゆつぐ
頭上の足音
集合住宅で暮らす悩みのひとつに、騒音がある。
私の住んでいる集合住宅では、上階からの足音がよく聞こえてくる。
その頭上から聞こえてくる足音が私は苦手、というよりも少々怖い。
それというのも、幼少期の体験があるからだ。
私が幼少期を過ごしたのは、集合住宅など殆どない地方都市の片隅だった。過疎化が当時から進んでおり、私が通っていた学校は何年か前に廃校となった。
田舎、というと怪談やホラーでは不気味な因習や不吉な言い伝えが残っているものだが、私の周囲にはそんなものはなく、幽霊を見たという話すらとんと聞かなかったのである。
学校でも、いわゆる学校の怪談を聞いたことがない。汲み取り式の便所にすら「トイレの花子さん」の住処はなかったのだ。
そんな田舎町だったが、何回か不可思議あるいは恐ろしい体験をした。
その数回の内の一つが私の住む町とその隣町の間にあった、大きな和風のお屋敷での体験である。
お屋敷は背の高い土塀で囲まれ、外からは高い位置にある重たげな瓦屋根が臨まれるばかりだった。しかも、その周囲にはちょっとしたお堀まであった。
謎めいた大きなお屋敷に、子供達は習性のように興味を惹かれる。
お屋敷への侵入を試みたのは、私を含めて四人。
男の子も、女の子もいた。
入ると大人達に叱られる。そう考えた私達はお屋敷の周囲にある雑木林を通って、裏手に回ることにした。
裏手にあった木戸は壊れ、蝶番で辛うじてぶら下がっているような有様だった。私達は簡単に塀の内側へと侵入を果たしたのだ。呆気ない侵入劇に私達は気抜けし、塀の内側をうろつき回る。
面白いものはないか、と考えていたのだろう。当時の記憶は端々がふやけて細部が曖昧になっている。
そうやってめいめい勝手に敷地をうろついていたが、一周してしまえば面白いものは何も転がっていないことだけが判明した。
不意に誰かが、しっと鋭く言って口元に手をやる。
私は異様にぎょっとして、体の芯を硬直させた。
「足音がする」
またしても誰が言った。
この辺りも記憶が曖昧だ。たぶん私の台詞でない。
それなのに頭の後ろにチリチリした嫌な感じがあったことは、なぜかよく憶えている。
そして、あそこ、と誰かが言った途端に、皆で天啓でも得たように駆け出した。
ああ、そうだ。少し思い出した。
雨が降り出したのだ。
鼻の頭にぽつんと冷たい雫の感じがした。雨にも追い立てられ、私達は縁の下に潜り込んだのである。
子供が四人も縁の下にいれば、まともな注意力がある人間はすぐに気づく。
何の解決にもなっていない状況に、どうする、と皆の視線が行き交う。
すると一番端にいた子が必死な顔で指をさす。その先には四角く切り取られた口があり、縁の下からさらに床下へと這入り込むことが出来そうだったのだ。
現れた何者かをやり過ごしたい一心で、私達は床下へ四つん這いで這入り込む。
小さな子供だった私達には床下は存外広く、大人の目が届かない奥へと逃れることは容易だった。案外じめじめした湿気は少なく、その原因だろう風を入れるための小さな口があちこちに四角く光っている。
私達は自然と屋敷の中央部に向かっていた。
皆で膝を突き合わせ、息を潜める。それだけの時間がじわりと過ぎていく。
気づけば周囲は雨音に包まれ、ひんやりとした空気が床下に忍び込んでいる。足音はない。
ほっと誰かが息を吐いた。それは私だったかもしれない。
記憶が定かではないのは、直後に私達の頭上で足音がしたからだろう。
みし。さり。ぎぃ。
誰かが頭上を、屋敷の中を歩いている。その度に床が軋んでいるのだ。誰がいるのだ。先程の足音の主だろうか。
みし。さり。ぎい。
どうして、私達の頭上を、ずっと歩き回っているのだろう。
ぱた、ぱた。とたとた。
ああ、駆け出した。頭上を誰かが駆け回っている。
私達は床が透けて見える訳でもないのに慄いて一様に俯き、床下の乾いた砂を見つめた。
どんっ。
どんどんどんどん。
不意に激しくなった足音に、私は咄嗟に顔を上げてしまう。
――頭上の誰かは、私達の存在に気付いているのか。
私の胸中の疑念が、目が合った友達に伝染した気がした。もしかしたら、友達から私に伝染したのかもしれない。
みしっ、と音がして足音が止む。そして私達の頭上で踏み鳴らされていた足音は、縁側の方へと移動していく。
弾かれたように私達は入って来た所へと這い寄る。我先に殺到し、外へ出る。
急がないと屋敷の中にいた誰かと鉢合わせになってしまう。そう思うだけで恐ろしかった。床下から逃げ遅れでもしたら、と思うだけでも堪らない。
しかし、その後は何事もなく、私達はそれぞれの家に逃げ帰ることができた。
ただ、この体験のせいか、今でも上階からの足音だけは、少し怖いのだ。
だから、深夜に頭上で駆け回ることはやめてほしい。
頭上の足音 益田ふゆつぐ @masukawa
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