コーヒーは苦い。

だいふく丸

第1話

 バシッ! アウトーッ!

 二塁球審が高らかに手を挙げた。

 最終回一点差、ツーアウト、一塁ランナーがエンドランで走った。だが、バッターは空振った。ランナーは二塁手前でアウトになった。この瞬間スリーアウト、都立むさしの高校の夏は準々決勝で終わった。

 ベンチで選手の奮闘に期待した男は歯を食いしばった。同時に、ものの30秒前にエンドランを選択した自分を責める。だが、監督として涙を流す選手たちに告げる。

「胸張って、スタンドに挨拶だ! さ、顔上げろ! 行くぞ!」

 あー、ざっす!


 三年生部員を見送ったその日の夜、男はリビングで試合を振り返る。実況アナウンサーが語る言葉に、自分の至らなさが詰まっていた。

「夏の甲子園三度出場の『都立の星』、都立むさしの高校と言えば宮本武蔵にかけて、打ち勝つ野球の『サムライ打線』が有名ですね。近年は守り勝つ野球を掲げますが、なかなか私立三強の壁を突破できません」


 今年もダメだったな、都立の星ーー。

 試合後のスタンドから聞こえたセリフを思い出し、湯気をふかすコーヒーを一口飲む。ひどく渋い。煮詰めすぎて雑味がひどかった。まるで今の自分だ。目先の勝利にこだわり、指導方法も采配もブレている。


 どうすれば勝てるのか。

 監督生活30年を超えた。勝てなくなったのは、私立高校がいわゆる動画解析機器を導入したからか。選手の能力を科学的アプローチで伸ばしているようだ。

 もちろん、勤める都立高校には専用グラウンドも室内練習場もない。資金力の差だ。その資金力で私立高校は元プロ野球選手を監督に呼んでいる。

 素晴らしい練習環境と勝負のプロが揃えば選手たちは私立高校の門を叩く。奇しくも、その高校とは1キロも離れていない。

 気持ちだけでは人は動かないのだろう。

 

 以前はとにかく相手投手の研究、バッティングマシンで速い球を打つことができれば、どうにか勝てた。しかし、今はその速い球も10キロは速くなった。しかも、動画解析機器によってプロ並みの変化球を習得できるようになったのだ。

 ここ5年の話だ。思えば、教育現場もIT化が進む。タブレット授業を導入しようか会議で話している。子供のためか、メンツのためか。考えたくもない。コーヒーを口にする。

 

 私立三強と称される私立高校と当たれば、豪速球に押されて負ける。プロ注目投手からか、社会人や大学スカウトもよく目にする。以前は自分の選手たちにも話を聞きに来た。社会人に進み、プロに進んだ子もいた。もう引退し、社会人野球でコーチをしている。


「今年から守り勝つ野球を目指す、打倒ケイジツだ!」

 そこで男は長打を狙うバッティングよりも、守備を磨いて1点を守り勝つ野球を目指した。だが、OBや選手たちから予想通りの反発があった。

「監督、うちは打ち勝つ野球じゃないんですか?」

「俺も打ち勝つ野球をやりたい。だけど、お前ら打てないだろ。ケイジツもニチヨンも、毎年150キロ投手が出てくる。これからは守る野球じゃなきゃ勝てないんだよ」

 残念がる選手たちを無理やり納得させた。

 結果はどうだ?

 内なる自分が問いかける。

 男はコーヒーを口にする。

 「オワコン監督」

 そう、ネットで叩かれているらしい。

 校内でも、「今年もダメだったね」と声がする。「じゃあ、お前がやってみろ」と反論したい。そんなことはできない。

 男は都立教員だ。できないことをできるようにするのが教育の本質だと考え、日本史を教えている。失敗を認めて、前を向くしかない。だが、指導力は限界かもしれない。

 最終回の場面、画面越しの選手、最後のバッターの顔があからさまに引きつっていた。

 声をかけるべきだった。

 

 画面の試合が終わったとき、電話がかかってきた。3年前、社会人に行った子だ。

「監督、今年もお疲れ様でした」

「高橋か、ありがとう。今年もダメだったよ」

「最後は惜しかったですね」

「いいや、俺のミスだよ。勝ちたくて、選手なんて見てなかった。昔はここぞというときに声をかけたが、今はわからないんだろうな。お前にも悪いことをしたよ」

 奇しくも、3年前も同じ場面で夏が終わった。男は覚えていた。コーヒーの味は忘れた。

「それでオワコン監督に何のようだ?」

「オワコン監督なんてそんな」高橋は否定してから、かしこまって告げる。「俺、教員になろうと思っていて、むさしの高校の」

 男は内心ムッとした。言葉に表れた。

「俺の代わりに野球部の監督になりたいのか?」

 強い口調だった、と言った後に悔いた。

 だめだな、俺は。

「はい! 監督のあとを継ぎたくて」

 だが、高橋は押されなかった。むしろ、サムライの一太刀、男の未練を断ち切った。

「むさしのの監督って、大変だぞ? 勝つプレッシャーあるし、武蔵野市に住まなきゃ休みも満足にできないぞ。遊べないんだぞ?」

「俺、むさしの高校好きなんで」

 好き、か。男が忘れていた感覚だ。

 胸から湧くのは監督1年目の記憶か、寝ずに考えた選手へのメッセージがよぎる。

『俺は大好きな野球で、お前らと学びあいたいと思う。私立に勝つのは大変だ。でも、いつか勝てるかもしれない。その弱さを打ち砕くよう、打ち勝つ野球を目指して、一生懸命に監督をやるから、俺について来て欲しい。むさしの魂を見せようぜ!』

 信じることから始まったんだな、男は新米監督に教わった。胸がすっと軽くなる。

 

「もちろん、監督の野球も好きですよ。高校時代のノートは俺の宝物ですもの。だから、秋からコーチしに行っていいですか?」

 武士の情けか。男はコーヒーを飲みきり、

「ああ、来ていいぞ」と返した。

 高橋は腹から声を出した。

「ありがとう、ございます!」

 あー、ざっす! ではなかった。

 成長し続ける教え子に、

「ありがとう」と、涙がひと筋流れた。

 目頭を抑えながら、勝ち星を目指して新米コーチと語り合う。未来を照らす星空を眺めながら飲むコーヒーは格別だ。この味は忘れたくない、少し苦いが。

 

 

 

 

 

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コーヒーは苦い。 だいふく丸 @daifuku0

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