9、あの夏の思い出

「行こう」

 村上が涙を拭って言った。

 嵐の中、おれたちは泣くなあと少しだと励まし合いながら、リヤカーを引いて病院へ向かった。まともな舗装道路に出ると病院の建物はすぐそこに見えた。雨風は命の危険を感じさせる領域に達しており、通りには人も車もなかった。犯行現場なんかで視界を遮るのに使ってるのをニュース映像でよく見る青いビニールシートが、トップスピードの魔法の絨毯みたいに車道を飛んでいくのが見えた。雨よけに使われていたのが強風で引き剥がされたのかもしれなかった。

 おれたちは病院の正面に回り込んだ。そこまではよかったが、そのまま真っ直ぐ中に入ることはためらわれた。医者や看護師に状況をどう説明すればいいか分からなかったのだ。どうしてこんなことになった、こんな台風の中で何をしていたと問い質されるに違いなかった。

 あるいは、引き止められて警察を呼ばれるのではないかという恐れもあった。おれも村上もリヤカーの二人に対しては何もしてなかったし、される予定だったこともされてなかったが、いざとなったらそんな言い訳は通用しないのではないかと思われた。おしゃぶりちゃんと約束していた行為は、犯罪に問われるのだろうか。金を渡していたら取引は済んでいると見なされてもおかしくなかった。おれたちは一刻も早くこの場から立ち去りたい気持ちになっていた。

 どうするどうするじゃねえよお前が行けよやだよと責任を押しつけ合っていると、正面口の自動ドアの向こうにおれの母親よりも年上らしい看護師が姿を現し、目を細めておれたちをいぶかしげに見やった。おれも村上もただやべえやべえと慌てるだけだった。眉間にしわを寄せた看護師が入口から出てこようとすると、おれたちはここですここに怪我人がいますおれたちは何も知りません向こうで倒れていたんですこいつらを助けてやってくださいとうまいことジェスチャーで示し、逃げろといってダッシュで逃げた。

 そのあと、どこでどうやって村上と別れたのか、どうやって家まで帰ってきたのかは記憶からすっぽり抜け落ちていた。覚えているのは、どこかで熱い風呂にどぼんと浸かったときの、そのたっぷりの水量のことくらいだった。あれほど気持ちのいい風呂はこれまで他になかった。十中八九、実家の風呂だろうが、それも定かではなかった。

 それが、初めてのフェラがお預けになったその夏の出来事だった。

 おしゃぶりちゃんが死んだのかどうか、スネ夫のぽこちんと金玉袋がどうなったのか、その後さっぱり耳にすることはなかった。おれたちは違う高校に通っていたのだ。おれと村上は何事もなかったかのように受験モードに突入すると、春には別々の大学に進学することが決まった。村上は関西のそこそこ偏差値の高い私立大学へ行き、おれは東京にある名前も聞いたことがなかった大学に通うために家を出て一人暮らしをはじめた。

 それから十数年後のことだ。正月に帰省したときにたまたま目にしたローカルニュース番組で、おれはスネ夫を見かけた。市が主宰するスポーツイベントに出席した市議会議員だかなんだかの周りで、あいつが太鼓持ちのようにうろうろしている姿がちらりと映ったのだ。頭にはカツラであることがばればれのカツラを被っていた。ぽこちんが元通りにくっついたのかどうかは映像からはわからなかった。わかるはずもなかった。

 その翌日、甥っ子を連れて初詣に行くと、偶然会った同級生から今度はおしゃぶりちゃんの噂を聞いた。彼女は生きていたのだ。おしゃぶりちゃんは今、地元で保育士をしており、園児たちからもその父親たちからもたいそう愛されているという。おれはあの日のびしょ濡れになった千円札三枚のことを思い出し、懐かしい気持ちになった。おしゃぶりちゃんが親から受け継いだ信仰心がどうなったかは、これもわかりようがなかった。二人のことを村上にも教えてやりたいと思ったが、あいつの連絡先はもうわからなかった。


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