下
西の海岸沿いには、僕と交易してくれる異種族がいくつかいる。その中の一組は、人魚とハーピーの女の子が二人という、変わった組み合わせだった。
「……マスクさん? ぼんやりして、どうしたの?」
スースという名前のハーピーの子にそう言われて、僕ははっと我に返った。昨日のストゲーネフの発言について考えていたので、目の前に並んだマントやアクセサリーを眺めている二人のことを失念していた。
ちなみに、僕は異種族と会う際に、鳥の顔を模したマスクを付けているので、スースからは「マスクさん」と呼ばれている。このマスクは、昔、とある病が流行った時に行商人が着けるようになったらしいが、今も念のためにと着け続けている。
「すみません。なんでもありませんよ」
「レイズさんも、遠くから来てくれたんだから、疲れているのよ」
人魚のマリアンヌがそう言って微笑む。僕らは、川と海の狭間の入り江にいて、マリアンヌは海側の方に体を入れていた。
僕は、ここに人間が作った服やアクセサリーを持ってくる。それは、マリアンヌが海底から拾ってきた真珠やサンゴ、スースが集めた薬効のある木の実や葉っぱと交換している。異種族が相手の行商は、このような物々交換が基本になっていた。
二人との交渉がまとまったところで、僕は、彼女たちにあることを尋ねてみた。
「お二人は、祈ることはありますか?」
「ええ、ありますよ」
マリアンヌは微笑むと、背後の海を眺めた。
「両親が亡くなった日には、海底のお墓に行って、安らかな眠りを祈ります」
「あたしも、満月の夜には、寝る前に、死んじゃったじーちゃんとばーちゃんに、いつもありがとうって心の中で言ってるよ」
なるほどと頷きながら、人魚とハーピーもそうかと考える。
異種族の多くは、神を知らず、祈る際は亡き家族を想う。その家族も、あの世にいるのではなく、永遠の眠りについているという捉え方だ。
「ちなみに、この世界は誰が作ったのだと思いますか?」
「作る? 世界は、私たちの生まれるずぅーっと、ずっと昔から、変わらず存在しているものですよ?」
「マスクさんって、時々変なこというね」
マリアンヌは心から不思議そうに首を捻り、スースはくすくすと笑いだした。僕も、「そうですよね」と苦笑して誤魔化す。
このやりとりで確信できた。異種族は、神を知らない。エルフは、神事をするけれど、それは自分たちを育む森への感謝であり、神を信仰するのとはちょっと違う。
では、何故、ストゲーネフだけが、神を知っているのだろうか? 彼と彼女たちのような他の異種族の違いは、仲間がいないこと、生まれつきではなく、ある日突然変化してしまったことが思いつくが……。
二人と別れて、荷物を背負ったヴァレンズエラの手綱を引きながら、そんなことを考える。入り江に注ぐ川を沿うように遡り、とある河原に辿り着いた。
そこには、ストゲーネフたちの群れが待っていた。僕は、スースとマリアンヌにストゲーネフを会わそうと思ったが、怖がらせてしまうかもと彼が遠慮したので、ここで待ってもらっていた。
ストゲーネフは、雌の狼のリッシュと並んで座り、何かしゃべっている様子だった。リッシュは、ストゲーネフと同じ年に生まれて、共に育った、幼なじみのような関係らしい。
だが、ストゲーネフは僕の方を振り返ると、リッシュには何も言わずに立ち上がった。顔は綻び、尻尾は左右に揺れている。
あまりに嬉しそうなので、僕の心はちりちりと痛んだ。それを表に出さずに、マスクを取って、片手を振る。ストゲーネフは、一直線にこちらへ走ってきた。
「おかえりなさい。いかがでしたか?」
「うん。いい取引ができたよ」
僕の返答に、ストゲーネフは満足そうに頷いてから、僕の持つマスクへと視線を落とした。
「それは?」
「ああ、異種族に会うときは、着けるようにしてるんだ」
「私に対しては、着けていませんよね?」
「うん。そうだね」
それは単純に、出会った時は着けていなかっただけだが、ストゲーネフはこの点に自身の優位性を見出して、得意になっている。だが、彼をがっかりさせたくない気持ちも働き、曖昧に濁した。
それにしても、彼の肩越しにリッシュの鋭い眼差しが痛い。ストゲーネフを取られたという嫉妬の炎がはっきり見て取れるので、それに気付いていない本人にそれとなく促した。
「それより、リッシュのところはいいのかい? 大事な話をしてたんじゃないの?」
「いいんですよ。他愛のない、世間話でしたから」
彼女はそう思ってないかもよと言いかけて、飲み込んだ。何をどう言っても、ストゲーネフの意識が僕から離れないような気がしたからだった。
この河原で野営の準備をする僕の後をついてきて、甲斐甲斐しくストゲーネフは手伝ってくれた。天幕を張るのも、川から水を汲み上げるのも、森の中で焚き火用の枝を集めるのも、当たり前のように彼と一緒だ。
離れたのは、日が完全に沈んでから。狩りをするために、ストゲーネフは群れと共に森へ分け入っていく。
僕は、川で釣りをしながら、狼たちの遠吠えを背中で聞く。声で狼たちのことを見分けられるようになったが、一番大きくて荒々しい声がストゲーネフのものだとは、まだ信じられない気持ちでいる。
「僕と話している時の彼と、借りをしている時の彼、どっちが本当なんだろうね」
隣で枯れ草をはむヴァレンに話しかけたが、ただただ眠そうな顔をしているだけだった。
しばらくして、ストゲーネフは一頭の鹿を持って戻ってきた。釣りの成果が無かった僕も、狼たちの獲物のご相伴に預かることになった。
せめて切り分けてあげようと、息の根の止まった鹿を黙々と捌いていく。狼の群れでは、頭が一番大きな肉を食べるという。申し訳ないことに、客人である僕はその次に大きな肉塊を貰うが、流石に大きすぎるので、ストゲーネフが見ないうちにこっそりと若者たちへ投げている。
ストゲーネフは、焼いた肉を好んだ。僕が塩胡椒と香草で、味と香りを付けた肉も旨そうに平らげていた。他の狼たちも焼いた肉を試食してみたが、彼らは結局生肉の方を選んでいる。
「同じものを食べられるのは、幸せなことですね」
巨大な肉を両手で掴んで、ガシガシ食べながら、ストゲーネフが呟いた。それに、思わず頷いてしまう。
野営中は、一人で作って食べるのが当たり前になっていたから、隣においしいと言ってくれる相手がいるだけで、嬉しくなってしまう。今が、特別な状況だということも忘れてしまうくらいに。
「少し、散歩しませんか?」
食後の片付けを終えて、後は寝るだけという時点で、ストゲーネフがそう誘ってきた。さりげない調子を装っているけれど、表情は少々固い。
何か思惑があるんじゃないか。僕はそう勘ぐったが、いいよと頷いた。誰かを驚かせようとしていることが顔に現れてしまっている子供のように、見ているだけでいじらしさを抱いたからだ。
ストゲーネフに連れられて、夜の森の中に入っていく。長らく彼と旅をしてきたが、こうして二人きりになるのは初めてだった。それに対して恐怖心が無いのは、その分だけ彼のことを信頼しているからだろう。
漆黒の闇そのもののように立ちはだかる木々を搔き分けていくと、目線の先がぼんやりと明るくなっているのが見えた。ストゲーネフの目的地だったそこは、小さな池があって、その周りを螢が飛び回っている場所だった。
「すごい。綺麗だね」
「ええ。狩りの最中に見つけまして。ぜひ、レイズさんにも見せたいと思ったのです」
「ありがとう」
掌に載るほどの小さな黄緑の光が、いくつもよろめくように飛びながら行き交う。周囲の虫の声も、池の方の蛙の声も、静かに心地良く響いていた。
僕らは、その場に座った。地面は夜露で湿っていたけれど、さほど気にしていない。ストゲーネフはこれを見てほしかっただけなんだろうと思っていた僕は、完全に油断していた。
「……レイズさん」
「何だい?」
反射的にストゲーネフの顔を見た僕は、息を呑んだ。
彼は、酷く心細そうな、いつか鏡の中で見た僕と同じ顔をしていたからだった。
「私は、時々考えるのです。何故、私だけが、このような姿をしているのだろうかと」
「……うん」
「鴉を食べたから、というのも、ただのきっかけに過ぎず、恐らくは、大いなる存在の力が、ここに導いたのでしょう」
「……大いなる存在、か」
「大いなる存在に選ばれた私の使命は、ただ一つです。――雌と交わり、子を成し、私と同じ種族を、粛々と増やしていくこと、それだけのはずです」
「……」
ストゲーネフの言葉を肯定しなければ。それは分かっていても、首を動かすことすら出来なかった。
それは、彼がこれからなんというのかが分かってしまっているからだった。
「なのに私は……ああ、私は、あなたのことを好きになってしまいました」
「……」
「雄に恋をするなんて、大いなる存在に歯向かうことと同義です」
「……」
黙り込むしかなかった僕の前で、ストゲーネフは泣きそうな声で告げる。
「この罪は許されるのでしょうか?」
咄嗟に答えることが出来なかった。何故なら、僕の心の中で、歓喜の嵐が吹き荒れていたから。
■
僕は、田舎の小さな村に生まれた。村民の殆どは農家だったが、幾度と日照りに見舞われる土地であった。
そのため、村民は皆、信心深かった。何度も天に祈りを捧げ、神の規律を頑なに守っていた。
僕も、みんなと同じように祈り、働き、普通に暮らしていたのに、何故だか、初めて好きになった相手は、隣の家の息子だった。
彼のことをいつも考えて、彼の姿を常に目で追っていた。彼に話しかけられた時は、平静さを装うのに必死で、別れた後、何の話をしたのか覚えていないくらいだった。
神の規律では、男色は固く禁じられている。自分の異端さがよく分かっていたからこそ、この気持ちが周囲に気付かれてしまうことを恐れた。
だから、ある日、村を訪ねた異種族に対して商いをしている旅商人に頼み込んで、同行した。家族にも言わない、ひっそりとした旅立ちだった。
それから、旅商人としての技術を十分に身に着けてから、老年だった師匠から独り立ちした。以降、ずっと一人で、家庭も持たず、ロバを一頭連れて、各地を巡っている。
誰かと、特に男性と仲良くならないように、根なし草を気取っていた。自分の中の孤独に目を逸らして、こうして旅をすることが僕の天職だと言うように。
しかし、ストゲーネフと話した時、彼の中の寂しさに共感してしまった。去ろうとした彼を呼び止めたのは、その所為だったのだろう。
ストゲーネフと共に旅する間に、彼に対する気持ちは、間違いなく恋だと気付いていた。これではいけないと分かっていても、この気持ちは抑えきれず、冷たく突き放すことが出来ない宙ぶらりんな状況が続いた。
その結果が、彼の告白だった。
「――許されないよ」
僕ははっきりと言い切った。微塵も希望を持たせないように、温度を感じさせない声で。
ストゲーネフは、耳をぺたんと倒した。深く傷つき、悲しんでいる。僕は、心臓にナイフが突き刺さったかのような痛みを抱きながらも、続けた。
「君も分かっているでしょ? 大いなる存在に与えられた、自分の使命を。男を好きになってはいけないということを」
「…………ええ」
「でも、まだ引き返せるよ」
驚いたストゲーネフの耳が、ぴんと立った。率直過ぎて可愛らしいその反応に、頬が緩んでしまう。
「君は、今まで通りに自分の群れを大切にして、自分の使命をちゃんと果たすべきだ。そうすれば、一度の過ちも許されるだろう」
「……はい。分かりました」
村を捨てた僕と、ストゲーネフの大きな違いはそこだった。彼は、愛する群れがあるからこそ、僕は彼の前から離れるしかない。
蛍が飛び交う中に佇むストゲーネフは、まだ何も知らない子供のようだった。毛に覆われた巨大な体も、鋭い牙も関係ない。隣の家の息子に恋したあの頃の僕と、何ら変わらないように見える。
「ストゲーネフ。君に、これをあげるよ」
「何ですか?」
僕は、上着のポケットから取り出した木製の十字架を、彼に手渡した。長い鎖が付いていて、本来ならば、首から下げているものだった。
「人間たちが、大いなる存在に祈りを捧げる時に使うものだよ。僕が、子供の頃に使ってたんだ」
「レイズさんにとって、大切なものなのはないでしょうか?」
十字架から驚いた表情でこちらを見たストゲーネフに、僕は緩やかに首を横に振る。自分でも信じられないくらいに、穏やかな気持ちだった。
「もう、僕が持っていてもしょうがないんだ。旅を始めた時から、祈るは止めてしまったから。それでも、ずっと今まで持っていたのは、ストゲーネフにあげるためだったと思うんだ」
「レイズさん……」
ストゲーネフが、大きな両手で十字架を包み込む。手の形は違っても、その慈しみはしっかりと見て取れた。
――僕らは、どうして神に祈るのだろう。きっと、ひとりぼっちなのが怖くて、縋りたくて、全知全能の存在に、守ってもらいたいから。そんな風に考えた。
「ありがとうございます。大切にしますね」
「うん。首から下げてあげるよ」
僕は、ストゲーネフの背中側に回って、首の後ろで十字架の鎖を繋ぎとめた。
振り返ったストゲーネフの胸、ふさふさの毛に僅かに埋まるその十字架を見て、「似合っているよ」と告げた。
「私は、これに祈ります。我々の旅の無事を。そして、レイズさんの旅の無事を」
「……ありがとう」
僕がずっと欲しかったのは、自分の為に祈ってくれる誰かかもしれない。そう思って、笑いながら答えた。
■
「私たちは、故郷に帰ろうと思います」
一晩が明けて、朝食を取って、天幕を片付けた僕に、ストゲーネフはそう告げた。
そんな予感は昨晩からしていたのだが、彼は言い訳をするように続けた。
「これ以上南に行くと、その暑さで参ってしまいますから」
「確かに、君たちは熱いのが苦手そうだよね」
僕が笑いながら言うと、ストゲーネフも微笑みながら頷いた。しかし、急に、真剣な顔になる。
「最後に、お願いがあります」
「何かな?」
「私に、名前をくれませんか?」
意味が分からず、首を捻った僕に、彼は説明を付け加える。
「個人名ではなくて、この種族としての名前です。よろしいですか?」
「じゃあ……ウェアウルフ」
見た目は狼。だけど、その心は、人間と変わらない。そんな思いを込めて、決めた名前だった。
ストゲーネフは、満足そうに頷いた。
「素晴らしい名前ですね。ありがとうございます」
「そんなことないよ」
照れ笑いを浮かべる僕を見て、彼も微笑む。最後に見たのが、お互いの笑顔で良かった。
「さよなら、レイズさん。良い旅を」
「じゃあね。ストゲーネフたちも、良い旅を」
群れの先頭で、リッシュを連れて歩くストゲーネフの背中は、鬱蒼と茂る森の中に分け入っていき、すぐに見えなくなった。他の狼たちは、名残惜しそうに振り返るが、真っ直ぐに森の中に入っていく。
狼にもすっかり懐いていたヴァレンが、嘶いた。それに応えるかのように、狼たちも森の中で、遠吠えをする。その声の中に、一際太くて立派な、ストゲーネフの声を見つけた。
――嗚呼、神様。
十字架を持っていなくても、僕は祈る。
彼らが無事に故郷に帰れますように。貴方のことを裏切った僕のことなんてどうでもいいのかもしれませんが、ストゲーネフたちのことはずっと見守っていてください。
溜息を一つついて、僕は狼の群れと反対方向に歩き出した。自分の心に芽生えたストゲーネフへの気持ちを、急速に枯らしていく。
これが、僕にとって最後の恋だ。そして、ストゲーネフにとっては、最初の恋なんだろう。
神様、もう一つ付け加えます。この恋が、ストゲーネフにとって、一つの糧になりますように。
最初の恋で最後の恋だった 夢月七海 @yumetuki-773
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