最初の恋で最後の恋だった
夢月七海
上
まずい。
まずいまずいまずいまずい。
そんな言葉が、頭の中を無限に回り続けている。この状況を打開しなければならないのに、「まずい」以外の思考が出て来ない。
僕はロバのヴァレンズエラに乗って、夜の薄暗い森を疾走している。ヴァレンには、いつもなら荷物を持たせているが、それらを全て捨てて、乗り込むしかなかった。
……そんな僕らから、つかず離れずの距離を保ちながら、四つ足の獣が走る足音が聞こえる。半月に照らされて、木々の合間からその影を見る度に、血が凍るような思いをする。
僕らは今、狼の群れに追いかけられていた。数は把握できていないが、きっと十以上はいるだろう。彼らの枯れ葉や小枝を踏み潰す音や、興奮した様子の息遣いなどが、虫の囁きを塗り潰して率直に耳に届く。
なぜ、こんなことになったのだろう。行商人として各地を巡る際に、狼がいない森を通るようにしていた。ここが、人里から大分離れた場所だとしても、こんなことはありえないはずだ。
それに、狼たちが中々僕らを殺そうとしないのが不可解だった。命の懸かった全力疾走とはいえ、ロバと狼の脚力は比べ物にならないのに。まるで、食べることが目的ではないような――。
「しまっ、た」
状況を分析できるほどの余裕が出来たのが悪かったのか、僕は森を外れた崖下に追い詰められていた。素早く、左右も狼に挟まれて、完全に退路を断たれてしまった。
僕は、覚悟を決めてヴァレンから降りて、腰のナイフを抜いた。護身用だが、荒事が苦手なので、使ったことがない。でも、がむしゃらに振るえば、一頭くらい……そんな投げやりな気持ちだった。
「ヴァレン、僕が気を引くから、君は崖を登って逃げるんだ」
僕が決めた覚悟は、戦って生き残るのではなく、このまま死ぬことへの覚悟だった。ただ、責めてヴァレンだけでも助けたい。そう思って彼に告げたが、ヴァレンは僕に寄り添って、動こうともしない。
長年の相棒が生死を共にしようとしていたが、それを喜ぶ場合ではなかった。僕は、絶好の好機であるはずなのに、全く近寄ろうとしない狼たちに、やっと不信感を抱く。
一体どうしたのだろう。眉を顰めていると、真正面から、がさ、がさ、と、何かが近付いてくる足音が聞こえた。それは、狼のものよりも重く、二足歩行の生き物のものだった。
直後、頭上の月を雲が覆い隠して、辺りは薄暗くなった。それでも、目を凝らすと、木々の隙間から、背の高い痩せて人影がこちらに近付いてくるのが見えた。
もしかしたら、この狼の群れを飼っている人間なのかもしれない。狼の群れが勝手に僕らを追いかけたので、それを止めてくれたのだろう。
僕は、そんなありえない考えを希望として、縋ろうと必死だった。そうでもしないと、このまま足元から、崩れ落ちてしまいそうなほど、恐ろしかった。
雲が流れて行って、月が再び顔を出した。当然、目の前に佇む人影も、その姿を月光によって露にする。
――悲鳴を飲み込んだ自分を、褒めてあげたくなった。それほどまでに、「彼」は、異様な姿をしていた。
僕の前にいたのは、二本足で立つ狼だった。人間と同じような手足の長さをしていて、無理矢理というよりも、この立ち方が自然だという形をしている。それなのに、体中を覆う灰色と白い毛や、その頭部、後ろで揺れる尻尾は、周囲の狼と同じだった。
夜闇の中でも輝く金の瞳は、僕の姿を捉えていた。「彼」――狼の生態には詳しくないが、恐らく雄だろう――は、ずらりと牙が生えそろった口を開く。
「唐突な無礼に、お詫びを申し上げます」
人間の言葉を喋るのは予想できたが、意外にも丁寧過ぎるその口調に、僕は拍子抜けした。人を喰らい尽くすために生まれたようなその顔から、あんな言葉が出るなんて、信じられない。
僕の戸惑いを読み取ったのか、「彼」は、何もしないと示すように、肉球の付いた両手を広げた。
「ニンゲンを見るのは初めてなんです。少々お話をしても、よろしいでしょうか?」
「彼」は小首を傾げた。口角が少し上がっているのは、微笑んでいるからかもしれない。
どうあがいても、狼の群れから抜け出せない状況だったので、僕は頷くことしか出来なかった。
■
僕は、人間以外の異種族との交易を中心に行っている旅商人だ。森や、海や、草原などに暮らす、ハーピー、エルフ、人魚、ケンタウロスなどが主な商売相手である。
だが、狼の異種族は初めて見た。噂すら聞いたことがない。
「現在、群れの中でこの姿をしているのは、私だけなのです」
焚火を挟んで、僕と隣に立つヴァレンズエラの正面の丸太に座った「彼」は、そう言い切った。群れと言われて、僕は森の中に視線を巡らせる――。この焚火とは離れた場所から、狼たちが目を光らせながらこちらを見ていた。
人間の言葉を話し、火を恐れないこと。それも、異種族の特徴の一つだ。僕は、やはり「彼」は、まだ人間たちには知られていない、未知の異種族だと思い知る。
「それは、生まれつきなのかな?」
「いえ。数年前に、一羽の鴉を食べました。その夜、体中が燃えるように熱くなり、激しい痛みを伴いながら変化していき……それが収まると、こうなっていました」
「彼」は、パチパチと火の粉をあげる火を見ながら、そう話してくれた。自分が感じ取った熱と痛みを、思い返しているのだろうか。
突然、はっとしたように「彼」が顔を上げた。不意を衝かれて、どきりとした僕を安堵させるかのように、微笑む。
「申し訳ありません。まだ、名乗っていませんでしたね。私は、ストゲーネフと申します」
「僕は、レイズだ」
互いの自己紹介が終わったところで、彼の背後に、二匹の狼が現れた。手分けして、僕が逃げる時に捨ててきた荷物を持っている。
火があるので、あまり近付けない狼たちに、ストゲーネフは歩み寄っていった。荷物を受け取って、狼の言葉で何か言うと、二匹は走り去っていった。
「あなたの荷物を持ってきてもらいました。これで全てですか?」
「うん。大丈夫。ところで、君はこの群れの頭なのかい?」
「ええ。その通りです。私のような、歪な姿をしていても、我が群れは受け入れてもらいました」
荷物を返してもらいながら、ストゲーネフの言葉の意味を考える。
確かに、狼という生き物の形から、ストゲーネフは大きく外れている。しかし、この先、その聡明さを鑑みて、ストゲーネフを頭に据えたことは、いずれこの群れを繁栄させる、よい選択のように思えた。
「レイズさんは、どのくらい旅をしてきたのでしょうか?」
「確か……十年ちょっとくらいかな」
「その間、私のような生き物を見たことありましたか?」
僕は正直に、首を横に振った。ストゲーネフは落胆の色を見せたが、どこか納得しているようでもあった。
「長いこと、あちこちを巡ってきましたので、もしかするとと覚悟はしていました」
「君たちは、どこから来たのかい?」
「北の方です。常に、山頂が雪と氷に閉ざされた山が見えていました」
「そんな遠くから」
驚嘆の声が漏れる。彼らは、たったの数年で、この大陸の半分ほどを踏破したことになる。
パチパチと、焚火が鳴るほどの沈黙が下りた。居た堪れなくなったのか、ストゲーネフは突然立ち上がる。
「呼び止めてしまい、申し訳ありません。我々は、そろそろ退散いたします」
「あ、もう今夜は、休んだ方がいいんじゃないかな。ここで」
「しかし、それではレイズさんの迷惑に……」
「狼が一緒の方が、むしろ心強いよ」
なぜ、自分でも必死にストゲーネフを呼び止めたかったのか、よく分からない。ただ、このまま彼と今生の別れになるのは、どうしても嫌だった。
そんな気持ちが表出した、僕の弱々しい笑みを見て、ストゲーネフも微笑みを返した。きっと、同情したのかもしれない。その晩の僕は、まだそわそわしているヴァレンズエラを宥めて、この場所に天幕を張り、狼の彼らもその周りで眠った。
■
その翌朝から何も言わずとも、僕とヴァレンズは、ストゲーネフの群れと旅を始めた。僕らは、どの種族をどういう道順で回るのかを決めていたので、それにストゲーネフたちが追随する形になった。
道中は、僕が荷物を載せたヴァレンズの手綱を引き、その隣にストゲーネフが並んで歩き、その後ろをこそこそと狼たちが尾行していく。その間、ストゲーネフはしきりに僕に話しかけてきた。
「人の言葉を知っていても、通じる相手と出会ったのは初めてでして」
自分が喋りすぎているのかもしれないと思ったストゲーネフは、恐縮しながらそう言った。それに対して、僕は全然構わないと言い切る。
「むしろ、嬉しいくらいだよ。僕も、ずっと一人で、誰とも話さずに歩き続けるなんて、よくあることだから」
「それは、寂しいですね」
ストゲーネフの瞳に同情の色が宿ったので、思わず、君ほどではないと言い掛けた。どんなに孤高を気取っても、僕は人間の社会に所属している。彼のように、自分一人だけの種族の孤独なんて、理解できるはずがない。
だが、ストゲーネフは、自分の群れのことを深く愛していた。彼が自分と同じ種族を探しに行くと言った時に、同行を決意してくれた頼もしい仲間だと言う。
「この長く険しい旅路を、共に歩んできた者たちです。皆、元気の有り余っている若者なんです」
その前置きの後に、仲間たちを紹介するストゲーネフの顔は、この上なく生き生きとしていて、羨ましさを抱いた。僕は、普通の村に生まれて育ったのだが、友達とも家族でさえも、ここまで心を開いて信用できる関係を、築くことが出来なかったからだ。
僕とストゲーネフは互いの、あるものないものを見つめて、同情したり羨んだりしている。そんな歪な関係だが、存外、心地良いものでもあった。
共に旅をしてから十八日目。ヴァレンズが狼たちに慣れてきて、僕も狼の個々の姿を見分けられるようになったころだった。
群れの中で一番若い、今年大人になったばかりだという狼のキーアインが、一羽の子兎を追い掛け回していた。狼たちは食事を終えていたので、戯れのつもりだったのだろう。
それに気付いたストゲーネフは、鋭い声でキーアインに吠えた。狼の言葉が分からずとも、ストゲーネフが何か怒っていることは明らかで、キーアインもすぐに子兎を追いかけるのを辞めて、悲しそうに耳を伏せていた。
僕は、ストゲーネフに、先程何と言ったのかと尋ねた。すると、彼は苦笑交じりに返す。
「キーアインに、命を弄ぶようなことは止めるようにと言ったのです。食事以外の殺生はいけないと」
「あの子も、命の大切さが分かるようになるよ」
「ええ。小さな生き物たちも、このようなことで逝ってしまうのは、きっと口惜しい事でしょう」
ストゲーネフの真剣な言葉だったが、違和感を抱いた。「逝ってしまう」というという言い回しが、どこか妙だったのだ。
この違和感が確信に変わったのは、それから七日後。僕らが西側の海に到達した日のことだった。
海を臨む入り江に、僕らは佇んでいた。山生まれのストゲーネフたちは、海自体を始めて見たようで、その場をなかなか動こうとはしなかった。
狼たちの反応は、それぞれ異なっていた。座り込んだまま、じっと青い海に吸い込まれるように見つめている狼。恐る恐る、波打ち際まで近付いて、足を濡らして驚く狼。キーアインのような若い三頭は、はしゃぎすぎたのか、海そっちのけでじゃれ合っている。
そんな中で、ストゲーネフは、僕の真横に立ち、空を仰いでいた。それも、ぴったりと目を閉じている。
なぜ、初めての海なのに、それを見ていないんだろう。気にはなったが、彼のその表情が厳粛なものだったので、再び目を開けるまでは話しかけられなかった。
「何を考えていたの?」
「故郷から遠く離れて、ここまで来れたことを、大いなるものに感謝していたのです」
「……大いなるものって?」
もっともな質問をぶつけると、ストゲーネフは、自信なさげに考えながら、ゆっくり返答した。
「感覚的な者でして、私自身、上手く説明できないのですが……。この世界を生み出し、そして、この世界に生きている我々を常に見守り続けてくれる――そのような、大いなる存在が、空の上にいるような気がするのです」
そう言って、ストゲーネフは、こちらを向いた。人間たちが恐れ戦く様な、鋭い牙のある狼の顔で、泣き出しそうなほど弱々しい笑みを浮かべる。
「可笑しなことでしょうか?」
「……ううん。ちっとも変じゃないよ」
内心汗を掻きながらも、平然とそう返す。事実、ストゲーネフの感覚は、人間ならば、共感できるものだろう。
しかし、長い間異種族と交流してきた僕は、この一言の異様さ気付いていた。ストゲーネフは、異種族として唯一、「神」の存在を認めている。
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