黒き鏡の玉兎。

つるよしの

あの月を指し示して

 私たちは、「彼ら」に“ウサギ”と呼ばれていた。

 いつの頃からは、知らない。

 

 たぶん、あの災厄の後、私たちのような身寄りのない孤児が、「慈悲院」と呼ばれる施設に強制的に収容されはじめた時分には、使われていた言葉なのだろう。

 それとも、そんな私たちが慈悲院の檻のなかで、身を寄せ合って世話される様子を彼らが見てから、なのかもしれない。なぜなら、そんな私たちの姿は、まるで、飼育小屋に詰め込まれたウサギのように見えたに違いないから。


 ちなみに、私たちが住んでいた国には、かつて、庶民が暮らす狭く密集した住居のことを“ウサギ小屋”と揶揄した時代があったそうだけど、それはもう遥か過去のことで、それがどんなものだったか、はっきりと知る者は今、存在しない。


 ともあれ、地球の六十パーセントが焼けただれるか、海に沈むかの運命を辿った災厄後、人類のかなりのパーセンテージは、フロンティアを求めて月へと移住した。いや、移住した、などという悠長な表現より「緊急避難した」という表現が適切なのかも知れない。なにしろ月面コロニーの収容人数には限りがあって、そこに辿り着くべく宇宙港に殺到した人の間で、激しい銃撃戦が繰り広げられた、という逸話は今もまことしやかに語られている。

 

 こうして、地球には残酷な世界だけが残された。

 もっとも、運良く月に逃げ延びた人たちが幸せに暮らしているかなんて、私たちには知りようもないのだけれど。



 私が慈悲院に収容されたのは、比較的年齢がいってからで、たしか13歳の時だった。その前の年に、生活を共にしていた伯父と伯母が病死して、地方都市の崩れた建物の狭間にて餓死寸前のところを「保護」されたのだった。

 慈悲院による「保護」とは手っ取り早い厄介者の「捕獲」につきず、院に送られた子どもは臓器を売り飛ばされたり、人体実験の被験体となったりと、とにかくろくな運命は待っていないという知識は持っていたから、私は「保護」されるくらいなら餓死してしまいたいところだったのだけれど、抗う体力はなく、結局私は皮肉極まりないことに“ウサギ”の一員になることで、いま、生きながらえている。


 そして、私たちは同じ“ウサギ”として、出会った。


 私が慈悲院に収容されてから与えられた役目は、他国において諜報員として活躍することだった。もちろん、“ウサギ”である私は使い捨てのそれに過ぎない。だが、訓練はに厳しく、たとえ使い捨てであっても、任務の遂行だけは確実であれと彼らから期待されているのだと身に沁みた。

 そんな日々のなか、同じ訓練生として、いつも傍に居たのが、カナエだった。

 

 カナエは美しい少女だ。

 彼女が訓練生として選ばれたのは、その美貌で送り込まれた国の重鎮を籠絡するがため、というのがもっぱらの噂だった。が、彼女は同時に誰よりも訓練に熱心で、爆薬の調合にも、銃の扱いにも長けていた。

 そして、さらに特筆するとすれば、私たち“ウサギ”のなかで一番「彼ら」に従順だった。どんな理不尽と思われる命令にも彼女は嬉々として従っていたし、反抗的な“ウサギ”をめざとく見つけ、「彼ら」に報告することも厭わなかった。訓練生のなかでも劣等生で、大人しく漫然と慈悲院での日々を送っていた私は、幸い彼女に目を付けられることはなかったが、彼女に密告されて檻の中から引っ立てられ、その後二度と姿を見ることのない“ウサギ”もなかにはいた。

 

 よって、次第にカナエに対する「彼ら」の信頼は高まり、やがて、彼女が檻の中に姿の見えないときは、カナエは特別待遇として「彼ら」の幹部の宿舎に呼ばれ、私たちが普段食べられることもないような質のいい食事を提供されているのだ、と私たちは悟った。かといって、彼女に嫉妬する者はいなかった。

 そんな真似は、カナエにしか出来ない。


 思えば、彼女は“ウサギ”でありながら、“ウサギ”ではなかったのかもしれない。もう、あの頃、既に。

 


 だから「彼ら」の宿舎で激しい爆発が起きて、またたくまに慈悲院が炎に包まれた夜、たまたまひとりで居残りの夜間射撃の訓練を施設外で行っていた私は、カナエがその美しい顔を煤に汚して射撃場に飛び込んできたとき、何が起こったのか全く分からなかった。

 射撃場に現われたカナエは、突然のことに呆然としている教官の顔面に、迷いのない動きで素早く蹴りをいれた。そしてもんどりうって地に崩れた教官の胴を踏みつけながら、私に向かって鋭く叫んだ。


「ミワ! こいつを撃って! 早く!」


 私は驚いた。その指示にも仰天したが、カナエが私の名を知っていたことにも意外な思いを隠せなかった。戸惑う私の鼓膜を、何度目かの爆発音が轟く。次の瞬間、カナエが悲鳴を上げて横転した。教官が体勢を立て直して、彼女の腿を掴んで引きずり倒したのだ。ついで、カナエの頬に拳の雨が降り注ぐ。彼女は金切り声を上げて抗ったが、屈強な男性の力には敵いようがない。

 

 だが、みるみるうちに彼女の整った顔が赤紫に歪むのを見たとき、ようやく私のなかで、何かが爆ぜた。


 私は、手にしてた銃を教官の背中に向けると、勢いよく引金を引いた。目の前で鮮血が飛び散って、視界が赤く染まる。そして震える私の腕をカナエは、ぐい、と掴んで、走り始める。私はカナエに引っ張られる格好で、否応なく足を動かす羽目となる。止まることも出来ない。

 そう、そうなったら、私たちに立ち止まる選択肢など残されていなかったのだ。カナエと私が出来ることは、もはや前に向かって駆け出すことだけだった。

 

 やがて、慈悲院の通用門が見えてくる。カナエは無言で私の手から銃をひったくると、風を切って駆けるスピードはそのままに、前に立つ数名の警備員に向けて銃を乱射した。そして崩れ落ちた警備員の胸元に跪くと、胸ポケットより電子錠を素早く取り上げる。

 彼女が赤く染まった手で錠を操って、門を開けるのを、私は息を切らしながら、ただ、黙って見ていることしか出来なかった。


 

 それから私とカナエは走りに走って、気が付けば、野外訓練で何度か来たことのある海辺に辿り着いていた。そこでやっとカナエが足を止めて、そして次にしたことと言えば、私に向かって罵声を叩きつけることだった。


「なに、のろのろしてんのよ! ミワ!」

「……カナエ」

「あんたがすぐにあいつを撃っていれば、もうちょっと時間も稼げた! そうすれば、他のみんなも、もう少しは助けられたのに!」


 既に夜は更け、周りに照明はない。私たちを包むのは月明かりと、静かな波音だけだ。暗闇の中でカナエがどんな顔をしているのかも私には分からない。だが、彼女の声は、微かながらも、涙に濡れていた。


「私がどんな思いをして、今日の作戦を練っていたと思うのよ! どんな思いをして、今日まで、「彼ら」の言うがままになっていたと思うのよ! あんたは、一生“ウサギ”のままでいたいの!?」


 カナエはいまやはっきりと泣き叫んでいた。そこには、私の知らないカナエがいた。

 そして、彼女はひとしきり慟哭すると、いきなり服を脱ぎ始めた。


「……ちょっ、と、カナエ?」

「ミワも脱ぎなさいよ。こんな“ウサギ”と分かる服で逃げ切れると思うの?」

「だって、代わりの服もないし、それにカナエ、あなた、本気で、逃げ切れると思っているの?」

「服なんて、あとからいつでも調達できるわよ。ミワ、それにね、あんたは私が逃がさないわよ、この私が。あんたの優柔不断であんたしか助けられなかった以上、ミワには死んでも私についてきてもらう」


 それは有無を言わせぬ、強い意志のこめられた口調だった。そう言いながら、カナエは着慣れた粗末な茶色い粗末なワンピースを、砂浜に脱ぎ捨てた。彼女の白い裸体がぼんやりと暗がりに浮かぶ。私は彼女の剣幕に押されるがままに、おどおどとカナエに習って服を脱ぐ。

 すると、派手な水音がした。浜辺に足を向けていたカナエが勢いよく海に身を投げたのだった。真っ黒な海原から、水飛沫が飛んでくる。続いて、カナエの声も。


「あんたも海に入りなさいよ。ぼけっと浜辺に突っ立っていたら、いつ見つかるか分かりゃしないわ」

「え……でも……」

「なに? 恥ずかしいの? 大丈夫よ、月しか見ていないわ」


 そう言われて私は夜空を見上げる。そこには、煌々と私たちを照らす月があった。私はしぶしぶ波に素足を浸す。しかし、冷たい海水の感触は走り疲れた足には、意外と心地よい。私は思い切って、カナエと同じように勢いよく海に飛び込んだ。それを見たカナエの声が波間を揺らす。


「そう、それでいいのよ。ミワ」


 それから少しの間、私とカナエは何も言わずに、ぷかぷかと水面に揺蕩いながら、ただ夜空を見つめていた。

 黒く凪いだ海面には、なおも煌々と夜空を照らす月光が揺れている。まるで鏡のように、その姿を映して。


「月が綺麗ね。もうすぐ十五夜か」

「じゅうごや? なに、それ?」

「……説明が面倒くさい。それに、そんなことはどうでもいい。今の私たちに肝心なのは、あの月まで逃げおおせることよ」


 私は水に浮いたまま、目を見開いた。


「カナエ。私たち、月を目指すの?」

「ミワ。玉兎、って知ってる?」

「……たまうさぎ?」

「古い言葉で、月のこと。ほら、遠い昔には、月に兎がいるって伝承があったから、そこから来た言葉みたい。それはともかく」


 カナエは一旦そこで言葉を切った。そして、ふふっ、と皮肉そうに笑う。


「“ウサギ”って呼ばれてた私たちが、あの月面に辿り着けたとしたら、さぞかし「彼ら」は悔しいでしょうね。ブラックユーモアとしても秀逸だわ」

「そうね」


 私はカナエのその考えがちょっと面白く感じて、ちいさく同意の意を漏らした。横に浮かんだカナエの右手が大きく水面を掻き、ばしゃっ、と水飛沫が私の顔に掛かる。

 そしてカナエは、そのまま手を夜空に高くかざすと、月を、すっ、と指し示した。


「そのときの「彼ら」の顔を、私たちは、あそこから見下ろしてやるのよ」

「それは、考えるだけで愉快ね」

「でしょ?」


 カナエは悪戯っぽい声音で私に答えた。私には、そのときの彼女の声に、たいそう心強いものを感じて、思わずちいさな吐息を漏らす。生まれてから感じたことのない幸福感が、私の心を浸し始めていた。


 月明かりの下、予想すらしたことのない未来が、始まろうとしている。

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黒き鏡の玉兎。 つるよしの @tsuru_yoshino

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