つくづく惜しい

愛宕平九郎

つくづく惜しい

 ――武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへゆけばかならずそこに見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある――(国木田独歩/『武蔵野』)


 狭山湖へ来た。

 家から車で約三十分ほどの、ちょっとした景勝地。多摩湖を縦断する橋を車で通り抜けたり、野球観戦で西武球場(現ベルーナドーム)へ行ったりしたことは過去にもあるが、狭山湖を訪れるのは約五十年の人生で初めてのことだった。

 自分の住んでいる地域の近くに少し有名な観光地があったとしても、いつでも行けると思って実際に訪れたことがない、なんて場所は一ヶ所くらいあるだろう。私にとって狭山湖は、そんな場所の一つだった。行ってみようと思いついたきっかけは、数年前から趣味で始めた俳句にあった。いわゆるネタ探しってやつ。

 東京都の水がめとして昭和初期に完成した人造湖で、湖畔の周りを松やクヌギの雑木林が囲い、緑豊かな武蔵野の情景を現在いまに伝えている。春は桜、秋は紅葉と、四季に応じていろどりにあふれた表情かおを持ち、湖面やその周辺では羽根を休め小魚や木々の実をついばむ水鳥たちの姿を見ることができる。さらに湖上の遠くを見やれば富士山まで拝めるという、句を作る上でテーマに事欠かない場所。それが、ネットで調べた狭山湖のイメージだった。


 湖の北部に位置する駐車場へ停め、ネタを探しに意気揚々と湖面へ通じる小路を歩いた。名もわからぬ草が生えわたる広場は家族連れが多く、子供たちはご多分に漏れず虫取り網を手にしていた。父親と一緒にやや深めの草叢くさむらへ突入する勇敢な子もいれば、母親の注意をから返事に大木へ網を叩きつけているやんちゃな子もいた。

 耳を傾ければ、アブラゼミやミンミンゼミに混じってツクツクボウシも騒がしく鳴いていた。私の住んでいる地域ではことのできないツクツクボウシに感銘を受け、歩を休め俳句心に火を灯した。


 ――蝉時雨せみしぐれ混じるツクツクボウシかな


 ダメだ、ボツ。

 季語が重なっている。しかも、夏(蝉時雨)と秋(ツクツクボウシ)で季節の統一感も無い。句の内容も「たくさん聞こえる蝉の声にツクツクボウシが混じっていた」と報告しているだけ。実に平凡。

 ならばと、数歩進んだところで別の句を捻り出してみる。


 ――つくつくし欲にまみれたリフレイン


 さっきよりはマシなものができたか。

 蝉が鳴くのは、雄が自分の存在感を雌にアピールする大事な儀式だ。大きく、何度も何度も、その美声を使って、まだ見ぬ未来のお嫁さんに向け己のを主張する。そこに細かな駆け引きなどは一切無い。欲に任せて「俺はここだ!」と繰り返すだけだ。

 ツクツクボウシの鳴き声は、ちょっとした曲の構成にも似ていると思う。「ジワジワジワジワ……」と静かにイントロが始まるや、突然「オーーーーーーーシッ! ツクツクツクツクツクツクツクツクツクツクオーシッ! ツクツクオーシッ!」と軽快なメロディを奏で始め、だんだんと盛り上がり勢いづいたところで「ツクツクオーシッ! ツクツクフィーーヨオーー! ツクツクフィーーヨオーー! ツクツクフィーーヨオーー!」と情熱的なサビに変化する。ラストの「ジーーーーーーーー……」と余韻を残すスモルツァンドまで心憎い演出だ。

 さらに聞き続けていると、個々の鳴き方にも多様性があることに気付く。イントロの長さ、繰り返される「ツクツクオーシッ!」の回数、裏声のように変調する「フィーーヨオーー!」のトーンの高さ、そしてラストに余韻を残す味わいの深さ。どのツクツクボウシも個性があって同じものが無い。雌の興味をグッと引き寄せる鳴き方というかコツというか、そういったお手本みたいなものがにもあるのだろうが、カップル成立において最終的な決め手となるのは、それぞれの持つオリジナリティが肝になると言えそうだ。

 これって何となく俳句にも似ている、ように思えた。同じテーマでも詠み手によって色々な表現や季語の使い方がある。そして、詠んだその句が万人に好まれるかと言えばそうでもない。やはり個性と個性のぶつかり合いで、好きかそうでないかが分かれる。


 蝉がたむろする木々を抜けると、前方に東屋あずまやが見えた。

 ベンチでは老夫婦が休み、湖を一望できる手摺の近くでは一眼レフカメラを手に何枚もシャッターを切る若者がいた。私も手摺へ近づき、彼から少し離れたところで雄大な景色を眺めつつ、スマホを取り出して何枚か撮影した。

 桜や紅葉も見れない夏。新緑の清々しさという表現には遅きに失した色濃い緑ばかりの木々が並ぶ夏。多くの渡り鳥が飛来する場所だと言われているのに一羽も見当たらない夏。そして、富士山もうっすらとした輪郭しか見えない夏。事前に検索した多くの狭山湖の見どころなんか全く無い。それでも、初めて訪れた高揚感と圧倒的な湖の存在感に何度もシャッターを切った。


「惜しいなぁ。つくづく惜しい」

「え……?」


 いつの間にか隣に年老いた男がいた。褐色の肌に、逆立った短い白髪、細く伸びた目尻の先には深い皺が刻まれ、こちらへ振り向くことなく鷹揚とした様子で湖面の緩やかな波を眺めていた。返答に困っていた私に、もう一度「惜しいよ。惜しい」と小さく嘆じた。


「あの……何が惜しいのですか?」

「あれじゃよ」


 老人は湖を指差した。その先には一羽の水鳥が浮かんでいた。不意に水の中へ潜っては、そこから少し離れた水面へ再び姿を見せる、その繰り返し。潜水時間は十秒くらいの時もあれば、三十秒経っても浮かんでこないこともあった。


「心の目を見て潜れと教えたんじゃがのぅ」

「はぁ……」


 水鳥は湖中の魚を獲ろうとしていたのではなかったのか? 一度も獲物を咥えて戻ってこないから、あいつは獲るのが下手なのだろうと思い始めていた。しかし、老人の口ぶりではそうでもなさそうだ。「心の目」とは? 「教えた」とは?


「あやつはな、忘れ物を探しておるんじゃ」

「忘れ物……?」


 落とし物とは違うのか、湖の中だけに。水中で捕えたけど、浮かんでくる間に落としてしまうなら筋も通る。でも、そうじゃないと老人は言う。


「湖の中にはな、沈められた村があるのじゃよ」

「村……ですか?」

「開発に次ぐ開発で、ここら一帯の人口が急激に増えたんじゃ。最初は多摩湖だけで賄えるはずじゃったのが、結局足らなくなってしまってのぅ。それで、ここを造ることになったんじゃ」


 老人は目を細めて狭山湖の歴史を語り続けた。そういえば、ネットで調べた中にも人造湖となった経緯が書かれてあったっけ。湖を造るために村の一部を沈めることとなり、村を離れなければならなくなった人々は近隣地域へ移転したと。調べでは、そこで犠牲になった人はいないと記されていたが、もしかしたら我々の知らないところで秘密裏に処理されたものがあるのかもしれない。

 私は目を閉じ、当時の様子を想像してみた。緑豊かな大地の間を一筋の川が縫うように流れ、ひらかれた田畑や、今では珍しい茅葺かやぶきの建物が、川を沿うように点々としている様子を浮かべた。さて、水鳥は何を忘れて何度も潜り続けているのだろう。

 湖を造ると決まった後、全ての地域住民に移動勧告が出ていたにもかかわらず、逃げ遅れてしまった人がいたらどうだろう? いや、事前に知らされてからの避難や移動であれば、それは無いと信じたい。それに、老人は「忘れ物」と言っていた。もし人であるならば、そんな表現はしないだろう。物に限定して推測するなら、移転する時に携行するはずだった大切な何か……といったところか。

 ここら一帯は、農業の他に織物業にも力を入れていたと情報にあった。農業であればすきくわなどの農具か、織物業であれば機織はたおり機か、いずれにしても置いたままにはしておけない道具と言えよう。原料となる種や糸も捨て難い。もしくは、それぞれのが書かれてあった巻物のようなものとか……。

 私は「ふむぅ」と呟いて目を開けた。問いの応えは「秘伝の書ですかね?」にしようと振り向いたが、既に老人は消えていた。四方を見渡しても、それらしき姿は見つけられなかった。

 新たに若いカップルが私の隣へやって来た。「エモいねー」と彼女が言えば、「エモいの意味がわかんねー」と彼氏がボヤく。何となくたまれない気持ちになり、その場を離れ、湖に沿う堤防の歩行者通路を南へ歩いた。


 長い長い石畳が続く。右手に狭山湖と見渡す限りの雑木林、左手に所沢市街のパノラマ、上を向けば広い空。太陽は雲に隠れ、湖から吹く涼しい風が頬を優しく撫でつける。歩いてるだけで、こんなにも心地良く感じたのはいつ以来だろう。


 ――マスク剥ぎ取る爽籟そうらいの狭山湖で


 季語は「爽籟」。清々しく爽やかな秋の風を意味する。

 マスクも冬の季語だが、コロナの影響で季節を問わず必須のアイテムとなった今、季語としての存在感は薄くなりつつあると言っても良い。季重なりと指摘されようとも、ここは外す行為を主張することにしてマスクには脇役となってもらう。

 詠んだ通り、マスクを剥ぎ取った。耳に引っ掛かった紐がちぎれるくらいの勢いで剥ぎ取った。大きく深呼吸したら、自然と両腕が上がり全身が震えた。

 北側からだと小さく見えていた湖上に浮かぶ取水塔も、だいぶ大きくはっきりと見えてきた。の異国情緒あるデザインなので、これを入れて撮影する人も多く見受けられた。

 あの水鳥も、私の動きに合わせるかのように南下していた。取水塔の付近で、相変わらずモグラたたきのような動きを続けている。途中で擦れ違った夫婦が、あの水鳥のことを話題にしていた。どうやらアレはという名前らしい。


 さっき妄想した「沈んだ村」のことを思い出した。湖の遠景を眺めるために設けられたベンチに腰掛け「やっぱり、秘伝の書かなぁ」と独り言ちた。遠くから、再びツクツクボウシの鳴き声が聞こえた。今度は私が「惜しい、つくづく惜しい」と言われているような気がした――。

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