今天、こんにちは。
吾妻栄子
第1話
“こんにちは”
これが僕の最初に覚えた日本語だ。
確か二歳か、三歳の頃だ。
だが、小さな子供の目には台湾の青天白日旗よりも大陸の五星旗よりも白地に赤い丸を描くだけの国旗が一番描きやすく映った。
「あら、日本の旗を描いてるの?」
赤のクレヨンで白い画用紙の真ん中を塗り潰しているところにお祖母ちゃんがやってきて声を掛けた。
「うん。ほらできた」
日の丸というより日の四角に塗った画用紙を頭の上に掲げて見せると、お祖母ちゃんは中腰になって普段漢語で話す時の七割くらいのゆっくりした口調で告げる。
「コンニチハ」
何だか魔法の呪文のように聞こえた。
「日本人はそう挨拶するの」
教えてくれたお祖母ちゃんは
「昔、よく聞いたわ。その頃、ここはまだ“タカオ”と呼ばれていたの」
同じ漢字で「高雄」と記して漢語では“ガオション”、日本語では“タカオ”と読むのだと知ったのはもう少し大きくなってからだ。
*****
これは日本人だ。
大学二年生の十月に入って台北の暑さも落ち着いた十月のキャンパス近くの商店街を歩いていている時に
白地に藍色の小花模様の、どこか日本の
その当時、何となく気になっていた女の子と比べても一般的な観点で決して美人ではない。
だが、自分にとってはもう涼しくすら感じられる季節に汗をかいている、薄暗い屋台の屋根の下でも発光するように白い肌をした姿と面差しが何とはなしに人の世界に慣れない不器用な狐のように見えたのだった。
「あの、すみません」
おずおずと主人に日本語で声を掛けてから初めてそれが適切でないと気付いた風に彼女は固まった。
「あなた、何の果物、買いたいですか?」
声を発してから我ながら随分と拙い日本語だと感じたが、もうどうでも良かった。
ズンズン足を進めれば、果物や野菜の青臭い匂いが強まるのと並行して視野の中で小花模様のワンピースを着た断髪の彼女の姿が大きくなる。
「これ、
すぐ手前に並んだまだ青みの強い小ぶりな果実を示して説明した。
「こっちが
通訳というより売り子になった気分で声を張り上げる。
*****
「すみません。お金まで払ってもらって」
袋いっぱいに入った果物を抱える彼女は感謝よりも恐怖を白い顔に滲ませていた。
「いいんだよ。僕も果物欲しかったから」
バッグから群青のレザーの財布を取り出した相手に告げる。
「いっぱい買ったから、君の欲しい分だけ取って。残りは僕がもらうよ」
それを聞くと、不安げだった蒼白い顔がふっと綻んだ。
「ありがとうございます」
笑うと常は細く鋭い目が柔らかい糸のようになって、偽りなく優しい表情になる。
ふわりと包むような風が吹いて、どこからか微かな八角の匂いがした。
その半年前の春に亡くなったお祖母ちゃんが引き合わせてくれた気がした。
それが大学で日本文学を専攻する僕と留学に来た麻緒の出会いだったのだ。
*****
あれは何度目かのデートで海辺に行った時だった。
朝方は晴れていて、バスでも抜けるような水色の空の下にコバルトブルーの海が広がっているのが見えた。
それなのに、バス停を降りて歩き出した瞬間、灰色の雲が空を覆い出してポツポツと冷たい雫が落ちてきた。
慌てて二人で近くの商店街のアーケード下に逃げ込む。
そこには既に僕らと同じような若いカップルや観光客が集まって雨宿りしていた。
「今日はついてないな」
はぐれないように彼女の手を取って、今まで日本のドラマや漫画で見聞きしたお決まりの台詞を口にしてみる。
クスッとすぐ隣で吹き出す気配がした。
「こういう時はこう言うんでしょ」
僕の言葉に麻緒は目を糸にした笑い顔のまま、肩まで伸びて幾分ウェーヴの入った黒髪の頭を頷かせて漢語を話す時よりも半オクターブ低い声の日本語で答えた。
「
僕らの会話は漢語と日本語の混合だったけれど、麻緒は複雑な意味合いを持つ話の時はいつも低い声の日本語になった。
「僕も最初の“コンニチハ”から随分勉強したからね」
「私も“ニーハオ”からは進歩したと思うけど」
それから手を繋いだまま、止むどころか地面に打ち付ける強さと密度を増していく雨の斜線を見詰めていた。
さて、これからどうしたものだろうか。
このアーケード街でちょっとした物でも食べようか?
しかし、どこも混み合っているし、正直、僕はそんなにお腹は空いていない。
麻緒はどうだろう?
尋ねようとしたところで、ポツリと彼女が呟いた。
「日本語の“コンニチハ”って変な言葉だと私は思う」
「え?」
全く予想外の言葉に間抜けな声を発した僕に相手は飽くまで柔らかな笑顔と語調で続けた。
「“
無邪気な狐めいた笑顔が寂しくなる。
「今日はどういう日なのか、言われた方には分からない」
こちらを見据える細く切れ上がった瞳が潤んだ。
繋いだ手の指が絡め合わせられ、痛いほど締め付けられる。
バラバラと
*****
“東京はクリスマス近くは気温が十度もないのね”
パソコンに映るお母さんの顔は夏に帰省した時よりもいっそう老けて見える。
“体には気を付けなさい”
「送ってくれたジャケット着るから大丈夫」
春に日本の東京支社に異動してから半年余り。
僕ももう社会人だし、こちらで自分で見て買うよと話しているのだが、お母さんは二十六歳にもなった一人息子に季節ごとに服やら食べ物やら送って寄越すのだ。
「じゃ、ちょっと用事があるから」
本当はただ外をぶらつきたいだけだが、それも用事ということにして通話を切る。
*****
歩いていく路地はもう街路樹がすっかり葉を落として裸の枝が冬の午後の陽射しを透かしている。
――今日はどういう日なのか、言われた方には分からない。
あれからもう五年も経っている。
帰国した彼女の電子メールアドレスはいつの間にか変わったらしく、一度出したメールはエラーで戻ってきた。
新たなメールアドレスを伝えて連絡を取りたい相手から僕は漏れたのだ。
もっとはっきり言えば、そういう形で切られた。
麻緒の方では今頃とっくに新しい恋人がいて、僕のことなど思い出すこともないのが多分、真相なんだろう。
もともと台湾人と日本人だ。付き合い続けてもいつか育ってきた文化や習慣の食い違いが大きくなって悲惨な別れ方をしたかもしれない。
短い付き合いだったから綺麗な思い出に出来たとも言える。
だが、自分の中では折に触れては蒼白い、寂しい女狐のような面影が蘇ってきて胸の奥を締め付けるのだ。
ひんやりした風が吹いてきて思わずジャケットの襟元を抑える。
クリスマスの飾り付けをして街全体をきらびやかにライトアップしていても、日本の冬はやっぱり寒い。
冷え切って微かに痛くなった鼻にふと甘い珈琲の香りが撫でるように通り過ぎた。
脇を見やると、どうやらカフェと珈琲豆の販売店を兼ねた店のようだ。
店頭にはセール品としてコーヒーカップも並んでいる。
値段の割にはなかなかセンスの良いデザインだ。
台湾から持ってきたカップはあるが、予備に一つ買って帰ろうか。
ふと、白地に藍色の花が描かれた一点が目に入る。
何だか麻緒が昔着ていたワンピースの色柄に似ている。
そう思って手を伸ばしたところで、さっと横から群青色の手袋を嵌めた、それでも、僕の手より一回り小さな手が同じ器の前で止まった。
「あ……」
小さく叫んだきり言葉が出ない。
視野の中で黒いウェーブのかかった長い髪を降ろした白い面が鋭く細い目を柔らかな糸にすると、懐かしい声が響いた。
「こんにちは」
(了)
今天、こんにちは。 吾妻栄子 @gaoqiao412
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