第一章 魔女の宿敵 ②
* *
花嫁の入れ替わりは婚儀の直前に行われた。
この国の慣習で、式の直前に花嫁と花婿が一人で待機する時間があった。
本来は祈りを捧げる時間であるその瞬間を狙い、窓から抜け出したソフィーは教会の側の茂みで控えていたネリと入れ替わった。入れ替わりを直前にしたのは初対面のエルヴィンはともかく、ソフィーの家族が怪しまないようにするためだ。姿形は同じでも、頭の中身は変えられないし、話し方も仕草も違う。
ネリの変異魔術は衣服ごと変化させることができる。ネリの用意した行商人の衣装を身に纏ったソフィーは、着ていた花嫁衣装を手に持ったまま少し先の橋の上で待っている恋人の元に走っていった。ネリはその後ろ姿をどこか眩しい気持ちで見つめた。
そうしてつつがなく終わった婚礼のあと、ネリはロイシュタイン伯爵邸の玄関ホールで五年前に会った因縁の男と改めて向かい合っていた。
金色の髪は切り揃えられていて、あの頃より少し短いかもしれない。面差しは少しだけ大人びている。端正な顔についた淡水色の瞳はやはり冷淡な印象で、硝子玉のようだった。
会ってからここまでずっと、一言も話しかけてこなかったエルヴィンが最初に言ったのは「はじめまして」でも「これからよろしく」でもなかった。
「どうせ長くはいないだろう。自由に過ごしてくれ」
エルヴィンに言われたのはそんな言葉だった。
「君の部屋は用意してある。そこにいるマーラに聞いてくれ」
振り返るとそこに恰幅のいい中年女性がいた。
「はじめまして奥様。家政婦のマーラ・アッベです。困ったことがあったらあたしになんでも言ってくださいね」
主人の無礼さに困った顔で申し訳なさそうに言うマーラに「よろしく」と言ってネリが再び正面に向きなおると、エルヴィンはそのまま踵を返していた。
マーラが慌てたように声をかける。
「旦那様、どこへ?」
「仕事だ」
ネリには幸いなことだったが、結婚式は貴族のそれとは思えない簡素で手をかけないものだった。そしてさきほどのあの台詞。さらに結婚式の直後に仕事。見る限り、ソフィーが嫁がなくてよかったと思える糞夫だった。ずいぶんと仕事熱心だがその仕事はネリ達魔女を捕まえて締め付ける仕事なわけだからなおのこと憎々しい。ソフィーによると彼はすでに一度結婚に失敗しているらしいが、さもありなんだ。
ネリはマーラと、あっけにとられその背中を見送っていたが、ふいにマーラが疲れた息を小さく吐いたあと、ネリに向き直った。
「お部屋にご案内しますね」
マーラはそう言って歩き出した。大きな階段を上り、やや入り組んだ廊下を抜け、窓に面した長い廊下をひたすら歩いた先のひとつの扉の前で立ち止まる。
幸いなことに、ネリにあてがわれた部屋は地下牢でも物置部屋でもなく、普通の人間用の部屋だった。過度な装飾はなかったが、それでもソファやベッドのひとつひとつの調度品がネリの住んでいた小屋とは比べものにならないくらい洗練されていた。
けれど、その立派さはよく知らない場所に一人で来てしまった不安に拍車をかけた。
マーラは夕方過ぎにまた呼びにきて、食事室に通された。
主人不在の夕食は焼きたてのパンや鹿肉のパイ。魚の香草焼き、スープ、デザートのプティングもあった。
こんなにたくさんあるのだからもてなそうとしてくれているのだろうと、最初は思った。しかし、そのパンは何かの分量を間違えているのか、ジャリジャリしてまったくおいしくなかった。妙な風味のスープも、なぜかしょっぱいプティングも、どれもこれも何か間違った味がする。
ネリは普段は豆のスープかオーツ麦の粥ばかり食べていた。おいしいものなんてろくに食べていない。しかし、ネリのその残念な味覚を持ってしても、それはやはりおいしくなかった。嫌がらせをされているのかもしれない。
心中ガッカリはしたが、食事のためにここにいるわけではないことを思い出す。
長く見積もっても一週間もあればソフィーは国外に出られるだろう。ネリはその間に母のゆくえの手がかりを掴んだらすぐに出ていくつもりだった。
夕食後、マーラの案内で屋敷の中を見てまわった。
そこは寝室と厨房と応接室しかない魔女の小屋と比べてしまうとはてしなく広かった。二階のネリの部屋を出て歩いたが、使われていない客室ばかりで通り過ぎていく。
通り過ぎそうになったやや大きめの扉の前で聞いた。
「ここは?」
「そこは先代の……エルヴィン様のご両親が以前使われていた寝室です」
両開きの扉を開けてみると、だだっ広い空間に天蓋付きの大きなベッドが置かれていた。特に感想はないので覗いてすぐ閉めた。
いくつか、先代の使っていたという私室や書斎を過ぎ、廊下をぐるりと周り、ネリの部屋とかなり離れた扉の前でマーラが口を開く。
「そちらは旦那様の寝室で……」
ネリは不用意に伸ばしていた手を慌ててひっこめた。
「寝室は旦那様とは別なのね」
ネリにはさほどの知識はないが、夫婦というものは寝室を共にするものだと思っていた。もっとも上流階級の慣習は知らないのでそういうものなのかもしれない。
ネリが何の気なしに言った言葉にマーラがもごもごと言い訳じみた声を漏らす。
「その……旦那様は遅くなることが多いので……どうしても」
彼女が決めたことでもなかろうにえらく申し訳なさそうに言葉尻を濁している。よく考えたら先代の共用の寝室があったのだから、少なくともこの国の上流階級の夫婦の寝室は同じなのだろう。別なのはネリとしてはありがたさしかない。しかし、そんなことをここで口にするわけにもいかない。
「わたしもそのほうがよく眠れるわ」とだけ言って、そのまま歩みを進める。
「ここは?」
「こちらは旦那様の書斎なので」
「入れない?」
「いえ、奥様が入るのはもちろん問題ございませんが、旦那様のいらっしゃる時に……」
言外に許可がないと中には入れないと言われる。中に何かネリの求める仕事関係の書類などは置いているだろうか。位置を記憶する。
「まぁ、ほとんど使ってらっしゃらないですけど」
この様子だとあまり期待できなそうだ。
次に見た書庫も大きかった。
「書庫は外にある別棟にもうひとつあります。ただ、あちらは古い専門書ばかりで使われていないので、奥様がお使いになるならこちらかと」
一階に下りると、玄関ホールである広間と大広間、食事室と談話室と居間。通路の奥にある浴室と洗濯室を順に見てまわった。
応接室をふたつ通った先には画廊部屋があり、壁から天井までたくさんの寓意画が飾られていた。だが、そこも昔のまま保全されているだけで、最近増やされたような形跡はなかった。画廊部屋に限らず、廊下にもいくつか肖像画がかけられていたがいずれも昔のものばかりだ。ほとんどは先代である、エルヴィンの両親らしき女性と男性のものが多かったが、幼少期のエルヴィンと思われる少年のものもいくつかあった。
しかし、その絵の少年は本人とはとても思えない穏やかで優しい顔で笑っていた。
(これは先代の若い頃か……本人だとしても絵を描いた人が美化するために表情を変えたのかしら……)
ネリはそんな失礼なことを思った。
「そちらが厨房です」
言われたネリは即座にそこに入っていった。厨房では目の下にクマを作った初老の料理人がしきりにあくびをしていたが、ネリを見とめて居住まいを正し、挨拶をした。
「あっ、どうも奥様。料理人のダニ・キスクです。食事は口に合いましたでしょうか」
力の抜けた声で言う料理人は前歯が数本抜けていて、生きた骸骨のような印象だった。
「……ええ。とてもおいしかったわ」
心にもないお愛想を述べ、さらに料理人を観察する。
ダニはお世辞にも健康的とはいえず、やつれていて、顔色が悪かった。けれど、ネリに対する悪意や攻撃性は微塵も感じられない。あのまずい食事は嫌がらせではなさそうだ。
マーラと一緒に屋敷内をざっくり一通り見終わると玄関を出た。
「あちらがさっき言った別棟の書庫です。その先は厩です」
マーラが指さして教えてくれるそれを記憶した。そうして、中に戻ってからまっすぐ廊下の奥に続く大きな扉をもうひとつ発見した。
「あら、あっちは?」
「え、あ……あちらは中庭です」
「見てもいいかしら」
どことなくためらいがちだったマーラを無視してそちらに行く。ためらいの理由はすぐに見て取れた。
四面を壁で囲まれた大きな中庭には無残な風景が広がっていた。
芝生はぼうぼうと背を伸ばし、縁取るはずの散歩道を侵食していたし、灌木も生垣もいびつな形に伸びて不格好なありさまだった。
花壇の花の多くは雑草がいくつも紛れ込み幅をきかせている。中央には立派な石造りの噴水があったがそれも今は水が出ておらず、土埃と枯れ草に汚されていた。奥には薔薇に縁どられた円形の大きな東屋が見えたが、蔓ははみ出し、ところどころ茶色くなり、地面は枯れた葉や落ちた花びらに汚されていた。
通路や花壇や樹木の配置などから、かつては庭師によって作られた美しい庭があったのだろうと想像させられる。ただ、きっといつからかまったく手入れされていない。
「すみませんねぇ。本来なら結婚前に整えておくべきなんですけど……二年ほど前に庭師が高齢で亡くなってから新しい庭師を雇う手筈がまだ整っていないんですよう」
二年前から来ていないのなら、エルヴィンにはここを美しく飾り立て改良しようとする気はもはやないのだろう。屋敷は外から見える部分には最低限の手入れはされていたので、その荒れ方はあまりにはりぼてじみたものを思わせた。
閑散とした侘しい風景の中、冷たい風が吹いてマーラが身を縮める。それを見たネリはこの、どこか遠慮がちでよそよそしい女中を困らせている気がした。
「もういいわ。ありがとう」
ネリはマーラにお礼を言って部屋に戻った。
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