第一章 魔女の宿敵 ④
* *
その日の朝食もおいしくなかった。
生活環境改善を心に決めていたネリは朝食のあと、すぐに厨房を訪ねた。
「ありゃ、奥様、何か御用ですかね?」
そこにいた料理人のダニは相変わらず眠たげで胡乱な瞳で、気の抜けた声を出す。
「……これ、よかったら寝る前に飲んで。不眠によく効くから」
ネリはここに来るにあたって、何かあった時のために小屋で調薬した秘薬をいくつか持ってきていた。この眠り薬は元はといえば、夫婦の寝室が同じで同衾しなければならなかった場合にエルヴィンに盛ろうとして持ってきていたものだった。蓋を開ければ寝室は別だし、どうやら必要なさそうなので渡してしまう。
「もう長く、ちゃんと眠ってないのでしょう?」
「あが、な、なんでそれを……」
「目の下にクマを作ってあくびばかりしていたら誰にでもわかるわ。わたしの祖母がひどい不眠症だったの」
ネリは自分の祖母に会ったことはない。本当は母の依頼人に、ひどい不眠症の人がいたのを覚えていただけだ。
「祖母が持たせてくれたものだけど、わたしには必要ないから。すぐに治ったそうよ」
ネリが改良を重ねて作った魔女の秘薬だ。妙な副作用もなく睡眠の質が上がるはずだ。
とはいえ、急に渡された薬なんて飲まないかもしれない。ネリは期待半分でいたが、とりあえず渡せただけでよしとした。
そして厨房を出たその足で、以前から気になっていた掃除婦にも声をかける。
彼女は今日も緩慢な動きで大階段の手すりを拭いていた。ほっそりとした長身の彼女は見かけるたびに中腰だった。たぶん腰を痛めている。ネリは彼女にも話しかけて、痛みを改善する秘薬を渡した。
午後になるとネリはマーラを伴って再び荒涼とした中庭に出た。
この間はぱっと見ただけだったので、今日は念入りに見てまわる。既に枯れてしまっている花や草もあったけれど、雑草の中には放置されているうちに勝手に増えたであろう多年の植物が混ざっていたし、元は計画的に植えられたと思われる植物もいくつか残っていた。その中にはネリが森の畑で育てていたハーブもたくさんあった。
一通り眺めてまわってからマーラのところに戻ってきた。
「マーラ……聞きたいのだけど」
「なんですか、奥様」
「ここを整えてもいいかしら」
「それは……もちろんです。庭師の手筈が整えばすぐにでも……ただ、旦那様があれでしょう? なかなか話を聞いてくださらなくて……」
「庭師は不要よ」
「え?」
「わたしがやるから」
ネリは言ったそばから近くの花壇へ行って雑草をブチブチと勢いよく抜いた。
目をまん丸にしているマーラの目の前で、ネリはドレスに土をこぼしながらどんどんと雑草を抜いていく。
ひときわ背が高く太い茎の雑草に手を伸ばす。根が深いのか絡んでいるのか、それは指に食い込むばかりでなかなか抜けなかった。
「何これ……すごく固いわ……んんんっ……」
ネリはしばらくうんうんとうなりながら草を引っ張っていたが、茎が途中でちぎれたため、「わあっ」と声を上げて勢いよくドスンと尻もちをついた。
口を開けてびっくりした顔をしているマーラを見上げる。
「お……奥様……」
「マーラ……」
「はい」
「……鍬が欲しいわ」
マーラはしばらく口を半開きにさせ、目をぱちぱちさせてネリを見ていた。
けれど、やがてあっはっはと大きな声を上げて笑った。
「奥様はお転婆でいらっしゃるのね。あたしの娘を思い出しちゃったわ」
「びっくりさせたかしら。わたし、前からお庭の世話をするのが好きなの」
ネリはしれっと返した。どうせそこまで長居する予定のない場所だ。貴族の娘らしく振る舞う必要だってない。中庭は放置されているのだから整えさせてもらってもいいだろう。部屋にこもっているよりは土いじりをしているほうがよほど自分らしくいられる。ネリはかなり開き直って前向きになることに決めていた。
「鍬ですね。ほかには?」
マーラはにこにこしながら聞いてくれる。
「あと、剪定用鋏と熊手と、草かきと移植ごても欲しいわ」
マーラはネリが来てからずっと、気の毒なお嬢さんを気遣っているようなよそよそしい態度だった。彼女がこんなに屈託なく笑う姿は初めて見た。というか、この屋敷で笑い声を聞いたのも初めてかもしれない。嬉しくなってネリも小さく笑った。
さっそく草むしりをはじめたネリは近くに控えているマーラに向かって声をかける。
「そうだ。マーラ、旦那様について聞きたいのだけど」
「えぇ、えぇ、なんでも聞いてください」
マーラの表情は一段階打ち解けて明るくなった気がして、それもまた嬉しくなる。
「前にも結婚してらしたと聞いたのだけど」
「…………一週間です」
「え?」
振り返ったネリにマーラは眉根を寄せて言う。
「旦那様があまりに無関心で放っておかれるから、一週間で愛想をつかされたんですよう」
「納得だわ……」
ネリの心の声がダダ漏れになった。
「そんななのに、旦那様はなぜ、また結婚したのかしら」
「旦那様の叔父君の強い勧めなんですよ。奥様をもらえばもう少し健康的にしっかりなさるんじゃないかって……まぁ、旦那様は変わらずあんな感じですけども。どちらも自分の主張を曲げないから」
どうやら叔父の強引さとしつこさに折れて結婚したらしい。だが、あの様子では今回の結婚も前向きな様子はない。
エルヴィンは若くして伯爵家の家督を継いでいて見目もいい。きっと結婚相手の候補として人気があるだろう。だが、彼が何度も結婚に失敗していれば、悪評がたち、話は来なくなる。彼の叔父も諦めるだろう。きっとそれを狙っている。そう思えばあのなげやりな態度に納得できる。彼が縁談の中からなぜソフィーの家を選んだのかは不明だが、面倒や文句を避けるため、あえて自分より身分が低い家柄を選んだ可能性もある。
「それにしても……あんな魔王みたいな暴君で、よく、皆出ていかないわね」
ネリの遠慮のない物言いにマーラはころころと笑った。
「旦那様は、昔は周りに気を遣ってばかりで、よく気疲れなさっていたんですよ」
「え……アレが? 気配りを?」
気配りと言う言葉を知っているかも怪しいと思っていたのに。
「昔は優しい方だったんですよう」
ネリには信じがたいが、エルヴィン・ロイシュタインは昔からこうではなかったらしい。
「お父様が戦後すぐに亡くなられてからですね……落ち込んで、それから人が変わったようになってしまって」
ネリは、屋敷の使用人達のエルヴィンに対する態度は暴君に目を合わせず逆らわないようにしていると感じていた。しかし、実のところその態度も元は、エルヴィンに対する気の毒ないたましさ、そこにどう接していいのかわからず、腫れ物に触るようになっているところが大きいようだった。
そのままになっている先代夫婦の居室。使われていないのに残っているエルヴィンの子供部屋。古い時代の肖像。おそらく何年も前から少しずつ減る一方で動かされてなさそうな使用人の顔ぶれも。すべて、この屋敷の中だけ時間が止まっているかのようだった。
この屋敷はもしかしたらエルヴィンの父が亡くなってから今もなおずっと喪に服していたのかもしれない。そんな雰囲気だった。
「あたしは旦那様が小さい頃からここにいるんですけど……昔は本当に……穏やかで優しい方だったんですよ」
マーラがぽつりとこぼした言葉は少し寂しげに響いた。
「でも、わたしはまだ帰らない。もう少し旦那様のことを知ってみたいわ」
ネリとしてはせっかくここまで来たのだから少しでも手掛かりを得てからでないと帰れない。マーラは複雑な顔でうなずく。
「嬉しいけど……嫌になったらいつでも言ってくださいね。あと、あまり力になれないかもしれないけど……ここにいるうちは、あたしでよければなんでも相談もしてくださいね」
少しよそよそしいと感じていたマーラの優しさは押し付けがましさがなく、労りに満ちていた。彼女はきっと「帰るな」と言うことが負担になりうることを知っていたので、過剰に迎えようとはしなかった。
「マーラ」
「はい?」と言ってネリを見たマーラがやわらかに微笑む。
「あ……ありがとう」
ネリは自然と、心からのお礼を言った。そうして、今までそんなことがなかったので、少しだけくすぐったいような気持ちになった。
翌日の朝食に変化があった。テーブルに並ぶ食事は、見た目こそ大きな違いはなかったが、一口食べてネリはすぐに頬を押さえて感動した。
おいしい……。
焼きたてのパンはこんがりとバターの香りがしたし、カモ肉のローストはやわらかく、イチジクのソースが絶品だった。子羊のシチューは甘く、舌でとろけるようであったし、デザートの林檎のパイはたっぷりのクリームが美しく添えられていて、いくらでも食べれそうだった。
ダニの料理はいつもどこかうっかりしたような味がしていた。もちろん味見はしていたのだろうが、不眠症は味覚異常が出る場合がある。ちょうど、母の依頼人がそうだった。おまけに食べるのが主にエルヴィンしかいなかったため、それはそのままになっていたのだろう。あの人はきっと料理の味なんてなんでもいいし何も気づかない。そう思わせる食べ方をしている。
ネリは感激して厨房に走っていった。
そこにいたダニは顔色もよく、にこにこしていて、ご機嫌な様子で迎えてくれた。
「ダニ! 昨日はよく眠れたかしら」
「そりゃあもう! ここ数年は毎日眠りが浅く、何をやっても夜中に何度も目が覚めていたのに……朝までぐっすりだったんですよ! 目覚めも爽快でした!」
「ほんとに? よかったわ! あと、朝食……最っ高だったわ!」
「げっへっへ。ありがとうございます!」
「あなたって天才だったのね! あんなおいしいパン食べたことがないわ! あとお肉もやわらかくて、パイもいい香りがして香りだけでも持っていきたいくらいだったわ!」
「いやいやぁ……それほどでも……」
ダニが鼻の頭を掻いてまた、げっへっへと嬉しそうに笑う。ネリは飛び上がって彼と手のひらをパシンと合わせた。
彼に渡した薬は数に限りがあるので永久的に渡せるものではないが、眠れないという恐怖や焦りがなくなればよくなるケースも多い。そして、彼の清々しい顔は快方を予感させるものだった。
それからの日、ネリは厩番、御者や通いの従僕達にも自分から声をかけ、よく話した。
最初は皆よそよそしく、勝手に避けられていると思っていたが、こちらから話しかけてみれば普通に対応してくれた。そしてネリがエルヴィンのことを知りたがると、皆ほんの少しだけ表情を緩め、教えてくれた。
ネリに女主人としての貫禄はまるでない。使用人達は皆年配なので最近では女主人というよりは、娘や孫のような感覚で接せられている。
頼んでいた農具をマーラに渡されると、その日からは中庭に入り浸っていた。
ネリはまず、残したい植物の周りにある雑草を抜いていった。その仕事はなかなか大変なもので、しばらくはそれだけになるように思われた。ネリは残せるものは残し、あまりに雑草ばかりで花が枯れた一部の花壇は土を整えて作り直すことにした。
そして、午後にはお茶を持ってきてくれたマーラと、掃除婦のハンナと共にお茶をするのが恒例となっていた。最初は遠慮してやんわり断ろうとしていたマーラとハンナも今では一緒に焼き菓子を食べながらにこにことおしゃべりしてくれている。
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