第一章 魔女の宿敵 ⑤
* *
そんな日々を過ごしているうちに、エルヴィンが帰宅した。
帰宅が遅かったため、ネリがそれに気づいたのは翌朝のことだった。
その朝エルヴィンはネリと同じ食卓で、無言で食事を取っていた。
同じといっても食卓は大きく、端と端なので距離は遠い。エルヴィンにこちらを気にした様子はまるでない。戻ってきてまだいたのかと驚く様子もなく、ただそこにある空気のように視線を向けようとしなかった。
エルヴィンは目の前の食事をただ機械的に口に放り込んでいる。
表情をぴくりとも動かさずにもくもくと食事を取るエルヴィンの姿を見てネリは思う。
この人は味を感知しているのだろうか。
(これは、料理人も作りがいがなさそうね……)
ネリはエルヴィンのいない間にだいぶ屋敷に馴染んでいた。
食事は料理人のダニが慢性的に患っていた不眠症の改善により、格別においしくなっている。屋敷だって掃除婦のハンナと一緒に掃除して今まで行き届かなかったところまでぴかぴかにした。そんなことにもまったく気づかない彼に苛立ちが湧いた。
静かに憤っているとエルヴィンが食事を終え、黙って立ち上がった。それを追うように慌てて立ち上がる。この機会を逃したら次はいつになるかわからない。
深く息を吸ってから、その背中に声をかけた。
「旦那様、少しお話があるの。お時間をいただけるかしら」
エルヴィンが立ち止まって表情を一切動かさずに言う。
「あいにく、そんな時間はない」
「では、作って」
ぴしゃりと言い返すと近くで仕事をしていた使用人達に緊張感が走り、動きがぎこちなくなった。給仕をしていた執事が下げようとした皿を落としそうになる。
エルヴィンは不機嫌そうな声を隠そうともせず向けてくる。
「……手短に言え」
「ここで立ち話もなんだし、中庭でどう?」
エルヴィンの眉根がわずかに寄った。
「くだらない話をする時間はない」
「くだらないかどうかはあなたの主観でしかないわ。わたしには必要なの」
当初臆していたネリがわりと開き直って攻め込めるのには理由がある。屋敷内のどの使用人に聞いても、エルヴィンは、昔は優しく正義感の強い人ということだった。それに、一見暴君めいていても手を上げたりもしないらしい。いくら感じが悪くとも暴力をふるうわけではないと知れば、多少強気になれる。
「旦那様……ご結婚されてからまだ一度もちゃんとお話されてないでしょう。お話をするくらいはしてもいいと思いますけど」
マーラがおずおずと援護してくれた。最近は食後によく顔を出してくれていたダニも近くに来て遠慮がちに言う。
「旦那様、お仕事ばかりじゃ息が詰まりますよ。き、今日は天気がいいから中庭は気持ちいいんじゃないかと思いますがねぇ……」
使用人達はネリの味方だった。一見遠慮がちではあるが、皆異様に必死な目を向けてエルヴィンをじっと見ている。
囲まれたエルヴィンは無表情のまましばらく黙っていたが、やがて舌打ちをして「手短にすませ」と言った。ネリはその舌打ちを聞き逃さなかった。仮にも結婚した妻に対してなんて感じの悪い……。
中庭に早足で向かうエルヴィンの少し後ろから追いかける。中庭を数歩行き、立ち止まったエルヴィンはいかにも忌々しい態度で腕組みしてあらぬほうを見ていた。
「繰り返すが手短に話せ」
エルヴィンはそう言いながらも決してネリの顔を見ようとはしない。さっさと終わらせたい空気をビンビンに滲ませてくる。
「言いたいことがあるの」
どこまでも不遜な態度に腹が立つが、流して続ける。全部に腹を立てていたらキリがない。まずはここ数週間ずっと腹の奥で思っていた怒りを最初にぶつける。
「あなたは、この屋敷で、人があなたのために動いているそれに、もう少し感謝が必要だと思うわ」
ネリは魔女だ。
だから人間社会の身分の上下なんて知ったことではない。役割が違うだけで、ネリにとっては人対人でしかない。それでもその上下関係に対してわざわざ意を唱えたいと思ったこともなかった。柄にもなくこんなことを言うのは、優しくされたからだ。
ネリは、昔は人に興味がなかった。
幼い頃外に出て思いがけず、すげなくされた、そのたった数回の経験で、人が嫌いになり、心を閉ざしていた。だから一人で近くの村に物を売りにいく時には行商人の格好をして魔女であることを隠していた。ネリにとって人は『見るべきもの』であり、ずっと関わってこなかった。屋敷の人間がくれたのは花嫁のソフィーに対するものでしかない。それでも、彼らが自分を思いやってくれたことが嬉しかったのだ。
しかし、ネリの怒りはエルヴィンには少しも届かなかった。彼は眉根を少し動かし、冷淡な声で返してくる。
「言いたいことはそれだけか? 余計な説教は必要ない。仕事に行く」
そう言ってさっさと立ち去ろうとしたエルヴィンの背中に怒鳴りつける。
「仕事仕事って、あなたはいったいどんなえらい仕事をしているのよ?」
その声の剣幕の強さに、エルヴィンは立ち止まって重い息をひとつ吐いて口を開く。
「秘薬管理局は騎士団直属の組織だ。国の魔術庁は魔術に関するすべてを統括しているが、秘薬管理局は秘薬の取締に特化している。俺の仕事は秘薬を使った悪質な犯罪を犯す魔女を捕まえることだ」
エルヴィンはいかにも面倒そうにひと息でそこまで話した。これで満足かとでも言いたげな表情にさらに殺意を覚える。
「善き魔女もいると聞いたことがあるわ。なんでも一緒くたに禁止したら気の毒よ」
エルヴィンはネリがさらに仕事の話を続けたことに一瞬意外そうな顔をしたが、すぐにフンと鼻で笑った。その笑いは邪悪でネリは結局また腹が立った。
「そういう脳内が花畑みたいなことを言う人間はたまにいるが、魔女ごときの都合を気にする必要はない。あれは人ではないからな。人の心もない」
エルヴィンは普段から不機嫌そうではあったが、本当に嫌悪感丸出しの声音だった。
ネリはふつふつと次から次に湧く怒りを力強く抑え込みながら質問を続ける。
「……捕まった魔女はどうなるの?」
「野放しにするわけにはいかない。投獄か、あるいは極刑だ」
極刑……剣呑な単語にネリは背筋が寒くなった。
「まぁ、そこまでいくのはごく一部だがな。金で人殺しを請け負って何人も手にかけていた奴、強力な毒薬を大量に卸していた奴、皆ろくでもない奴らだ……同情の余地はない」
「……ひ、秘薬の取引自体が禁止されて、取引しただけで罪になるようになったと聞いたことがあるけど……」
かすれた声が出た。このへんは貴族の令嬢が知っていることかは怪しかったけれど、ネリの喉はカラカラで、そこには気がまわらない。聞かずにはいられなかった。
「ああ……よく知っているな。秘薬の取引禁止違反の軽い罪で勾留された魔女は取引の経路や方法などの聞き取りが終われば長くても三日で釈放される。いちいち投獄していたらキリがないからな」
「そ……そう」
ほっと深い息を吐く。ならば五年前に勾留された母は投獄も極刑も受けていない。とっくの昔に釈放されていると見ていいだろう。
案外とすぐに欲しかった情報は手に入った。さほど実りはないが捕まったままでもないし、処刑もされてないとわかっただけでも収穫だ。
明日にも出ていこうと思ったネリにエルヴィンが続けて言った。
「だが、一度捕まえた魔女は所在地も顧客も、繋がりのある魔女もすべて、きっちり記録を取るからな。二度目はないだろう」
その記録は気になる。
手に入れたい。それがあれば母の知り合いを訪ねることができる。
「言いたいことはそれだけか」
ネリは黙り込んで考えた。本当はもっと色々聞きたかった。けれど、この場でこれ以上突っ込んで聞くのはさすがに怪しまれる。何をどう聞けばいいだろうか。
ネリがずっと黙っているので、エルヴィンはさっさと立ち去ろうとした。
「待って!」
ネリがとっさに叫んだ声に、エルヴィンは振り返った。そして睨みつけるようにネリにしっかりと視線を合わせたため、二人の視線が衝突した。
ネリは結婚後、エルヴィンと初めて正面から瞳を合わせ、見つめ合った。
中庭の空は青く高い。
風が吹いて、木の葉がガサガサと小さな音を立てた。
まるで時が止まり、周りに誰もいないような感覚に包まれ、ネリの心は一瞬だけ、あの日の青の森に連れ戻された。
午後の光が淡く射し込む薄暗い魔女の小屋。
エルヴィンと一緒に来た誰かが何か言っているその口の動き。何度となく思い出したあの時のエルヴィンの瞳。母が最後に振り返って、安心させるように微笑んだその時の顔。
お願い。連れていかないで。
あの時感じた心細く、ちぎれそうな想い。それらを内包した風景がものすごい速さで頭の中を通り過ぎていく。
エルヴィンの、青く、静謐な瞳が揺れた。
その瞬間、彼は何かに気づいたかのような顔をした。
そうして、ネリから視線を逸らし、周囲を見つめる。エルヴィンはまるでその場所を初めて見たかのように目を見開いていた。つられるようにネリも周囲を見た。
そこにはネリが整えていた庭が広がっていた。
枯草や雑草は大量に取り除かれ、動いていない噴水についていた汚れも洗い流されている。しかし、庭は完成形の美しい形とは程遠かった。一つだけ整えた花壇もまだ土が露出しているだけで芽吹いてもいない。
エルヴィンは目を大きく開け、小さく口も開け、まるで生まれて初めて見るもののように周囲を見ていた。
「これは……なんだ?」
「少し整えさせてもらっていたの。中庭はろくに手入れもされず、使われてなかったのだから、構わないでしょう?」
ネリが悪びれもせずしれっと答える。なおもエルヴィンは数秒、呆然と周囲を見ていた。
それからネリの視線に気づくと、はっとしたよう口元を引き結んだ。
「……話はそれだけだな」
ネリが頷くと、エルヴィンは足早に去っていった。
ネリはそこからしばらくの間、彼と見つめ合った瞬間に生まれた記憶の残滓から逃れられず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
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