第三章 騎士の河川 ①

 エルヴィン・ロイシュタインは結婚後も働き詰めで、やってきた妻のことをろくに見ていなかった。どうせすぐに出ていく妻だ。エルヴィンには結婚にも妻にもまったく興味がない。さっさと出ていってくれればいい、そう思っていた。

 だからソフィーに中庭で話したいと言われ、去り際に呼び止められた時が、彼女の顔をしっかりと見た初めてだった。そしてその瞬間、正面から目を合わせたソフィーの瞳に強い既視感を覚え、昔一度だけ見た魔女の少女の姿が脳裏に過ぎっていた。


 今でも、ありありと頭に浮かべることができる。

 五年前。青の森で捕縛した魔女の娘の姿だ。

 あの小屋で捕縛した魔女。それを奥の部屋から必死に、すがるような目で見ていた娘。

 もともと大した罪ではなかった。その魔女は人が頼み乞うた薬を売っただけだ。中身も原因不明の身体の痛みを取るもので、危険なものではなかった。そんなことはもとよりわかっていた。


 しかし、秘薬管理局は発足直後から目的として化石病の調査と抑制を持っていた。

 エルヴィンは当時十九ですでに局長であったがそれは設立者であり局自体が六人しかいない小さな日陰の局だったからにほかならない。局を大きくしなければ魔女の動きを広く感知し、抑制し、人々に警戒をよびかけることはできない。大きくするためにはひとつでも多くの案件を挙げて認知度を高めることが必要だった。

 エルヴィンはだから、小さな罪と知りながら青の森の魔女を連行した。あの頃の彼は怒りの感情に支配されていた。遠い目的のため、前だけを見て、進みながら自分が足元の小さな花を踏み潰しているようなことにも一切意識はやらなかった。


 あの日、母親の魔女を必死に見つめていた娘の瞳は、強い感情をいくつも孕んでいた。

 エルヴィンはその目に見つめられ、責められ、心がざわついた。

 その時その瞳に与えられた感情はおそらく、『罪悪感』という名前だったのだろうと思う。

 それは、エルヴィンが何をおいてもつき進もうとしている道に対しての迷いやためらいにつながる感情だった。


 けれど、魔女に人のような感情があるはずはない。魔女は人と違う。何も感じないはずだ。エルヴィンはそう処理した。そして、それ以降心のその部分を見ないようにしていた。

 たとえ何かを救おうという目的であろうとも、強い気持ちで何かを成し遂げようとすれば、善人でばかりではいられない。それは戦場で知ったことだった。あそこでは多くを助けるため、あるいは勝つための作戦で別の誰かが犠牲なった。

 やるべきことにためらいを生む『罪悪感』『恐怖』『迷い』そういったものをすべて意図的に捨て去ることで、彼は目指していた冷酷になり、目的のために邁進することができていた。

 けれど、あの瞬間、自分の心には確かに罪悪感や迷いがあった。それを急に思い出した。

 それは不思議と苦いだけの気持ちではなく、どこか懐かしさへの渇望を孕む温かな感覚だった。



 中庭にいてソフィーと初めて見つめ合っている自分に立ち返った時、エルヴィンはふっと、眠りから覚めたような感覚を覚えた。

 視界に入る中庭の雰囲気が以前と少し変わっている。それはずっと目に入っていたのに彼には認識されていなかった。目の前にいる女は新しく来た妻で、自分に話しかけていたことも、自分が表層でそれに答えていたことも、エルヴィンは今初めてきちんと認識したような感覚だった。彼の頭の中はずっと長く、化石病と魔女のことで埋め尽くされていたからだ。


 けれど、ソフィーの瞳を覗き込んだ時、彼はなぜだか急に夢から覚めてしまった。

 無我夢中でやっていた目的に対する情熱は変わらず、失わずきちんと持っている。

 だが、それはもう泥で形成された悪夢の中をもがき進むような、つい先日までの感覚とはすでにどこか違っていた。



          *          *



 エルヴィンは結婚後も働き詰めで、やってきた妻のことをろくに見ていなかった。

 しかし完全に注意を払っていなかったかというとそうでもない。親の代から屋敷に仕えている執事のコンラートにはそれとなく見ておくように言いつけてあった。


 コンラートは若くから務めていたため、まだ四十半ばで、屋敷の使用人の中では若いほうだ。けれど、その落ち着きや風格は老年の者に負けていない。彼はいつも冷静沈着で、表情を一切崩すことなくたんたんと仕事をこなす。冷静過ぎてどこか無機質で冷たく感じられるところもあったが、無駄な愛想などエルヴィンには必要ない。コンラートはエルヴィンにとって、とても有能な執事だった。

 長く新しい使用人も雇っていないこの屋敷で、使用人の老化と人数が減ったことで多少パフォーマンスは落ちている。だが、屋敷内は昔からの人員と均衡でできあがっている。エルヴィンはそれを崩してまで使用人を増やす気はなかった。もともとエルヴィン一人のためにそんなに人数は要らない。エルヴィンは親の代から雇っていた使用人の仕事をなくさないためだけにこの人数を雇っていた。コンラートは余計な文句を一切言わず、残った人数で采配をしてくれている。


 それだけではない。随分前にコンラートが新しく雇う庭師の目録を出してきていたが、エルヴィンは保留した。あの時「適当に頼む」とでも言えば新しい庭師が来ていただろう。エルヴィンにとって必要なものはエルヴィンが決める。コンラートはそれをよくわかっている。彼は世間体に囚われず、常にエルヴィンの命令に従順だ。エルヴィンは屋敷にいる使用人の管理だけでなく、領地の経営における些末な案件も彼に一任していて、屋敷における腹心といえる存在だった。

 ソフィーに関しては、素性はわかっているから過剰な心配は必要ない。それでも少しの散財ならともかく、借金を作られたり、もめごとでも起こされたらことだ。エルヴィンはそういった面においてだけ警戒をしていて、それ以外の報告は必要としていなかった。

 エルヴィンは久しぶりに書斎に入り、コンラートを呼んだ。


「旦那様、いかがなさいましたか」

「ソフィーはどうだ?」

「過度な浪費や散財などはしてございません。ご所望なさったのは鍬……」

「鍬?」

「ええ、それから草かきと熊手、移植ごてと鋏ですね」

「それはなんだ? なんのために?」

「農具でございます」

「……の、農具」


 エルヴィンはしばらく沈黙していたが気を取り直すように言う。


「ドレスや装飾品などは?」

「農作業用のつなぎを二着ほど」

「……ああ、あれか。見たな」

「旦那様がご心配なさるような浪費はないかと存じます」

「十分おかしな動きはしているようだが……」

「おや、そちらにもご報告が必要でしたか?」


 執事に少し意外そうに言われたことでエルヴィンの思考は戸惑った。


「奥様は日中、中庭にいらっしゃることが多く、屋敷からも出ておりません」

 ほかの使用人達がソフィーと親しげにする中、執事だけはあくまで距離を置いて冷静に見つめているようだった。しかし、その物言いは特に悪い印象は抱いていない様子だ。彼はエルヴィンが必要以上の報告を求めたことに意外な顔をした。

 そしてその意外な顔をされたことで、エルヴィン自身が違和感に気づいた。

 必要以上の報告。それは、エルヴィンがソフィーに興味を持っていることにほかならない。そのことに脳が混乱した。

 いや、これは執事に誤解されるような、そういった安いものでは断じてない。自分の内面の奥深く、かなり繊細な部分に関わる自己への探究心でしかないのだ。

 エルヴィンはそう考え、数秒の沈黙の後、口を開き重々しく「報告は必要ない」と答えた。

 そうだ、エルヴィンはソフィーの報告なんて受ける必要はないのだ。

 ソフィーのことを知りたいのなら、自分で観察すればいい。

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