第一章 魔女の宿敵 ①
エルヴィン・ロイシュタインとソフィー・リンデマンの婚礼の数日前。
その朝、ネリは起きて数分後、豆のスープを朝食にした。
食べている最中に寝ぼけてスープをこぼし、いつも着ている深緑のローブを汚した。
ローブの端はそのほかにも少量の土が付いていたが、数日着たまま寝起きしている。
誰かと会う予定もない。森の奥の湖まで洗濯に行くのが面倒くさかったのだ。服だけでなく、長い銀色の髪はほつれ、顔もベタベタしていた。壁掛けの鏡に映る赤い瞳も眠たげで、頬もどこかむくんで見える。
一ヶ所穴の空いた屋根に藁を乗せて補修しているそこから外の明るい光が射し込んでいるのを見て、ネリは数日ぶりに洗い物を籠に入れて外に出ようとした。
(だるいけど……これ以上洗濯物をためられない……)
そう思って決起したネリだったが、長く雨が続いたため扉の木が膨らんでしまい、なかなか開かない。思い切り蹴飛ばすと、キギィ、と鈍い音を立てて開いた。
小屋の外にはただひたすらに森が広がっている。
ベルンツィヒ大公国の北西部。青の森と呼ばれる小さなその森は同じ北西部にある大聖堂の影響でどこの領地にも属さない。森はその名の通り、朝と夕方は青い霧に満たされていて、いつも静かだった。ときおり空の高い位置から鳥の声はするが、それ以外には生き物の気配がない。実際には森の奥に動物はいるが、彼らはいつも静かに息を潜めていて、澄んだ静寂がいつも森を満たしている。
ネリの母がいた頃から小屋の周りにはハーブと薬草の畑があり、母がいなくなってからもそこだけはずっと維持している。
ネリは畑の手入れをしてから森の奥まで行き、湖で洗濯をすませ、ついでに体を洗った。
春も終わりを迎えようとしている今、水はそこまで冷たくない。石鹸がだいぶ小さくなったことに気づく。ここのところずっと小屋にこもって秘薬の研究をしていたが、そろそろ近くの村に何か売りにいかねばならないだろう。
帰り道で自生しているスグリの実をいくつか採り、オオバコの若い葉を集めた。
樹の枝に渡したロープに洗濯物を掛けてから小屋の前まで戻ってくると、そこに見慣れない人影があった。
年の頃はネリと同じくらいの十八、九に見える。ふんわりとした栗色の髪に菫色の瞳を持つ、美しく身なりのよい少女だった。
少女は扉の前で逡巡したような顔で、所在なさげにぽつんと立っていた。見ていると拳を握り扉の前まで持っていくが、叩くことなくまたその手を下ろす。
「何か用かしら」
背後から声をかけると、少女はびくりと身を震わせた。そして、おそるおそる振り向いてネリの姿を見とめると、びっくりした顔をして、上から下まで見下ろした。
ネリは一目見れば魔女だと当たりをつけられそうな深緑のローブ姿であったが、いかんせんまだ十八歳で歳若かった。もし、魔女と聞いて老婆や妖艶な女を浮かべていたら、こんな拍子抜けしたような顔ができあがるかもしれない。
「ここは青の森の魔女の小屋だけど、間違いない?」
そう言うと、少女ははっとした顔で頷いた。
「はい。存じております。幼い頃、この森には善き魔女がいると聞いたことがあって……」
そして、よほど切羽詰まっていたのだろう、それ以上は前置きなしで本題に入る。
「あのっ、意に染まぬ結婚が迫っていて……魔女さまの力を貸してほしいんです!」
ネリは即答した。
「せっかく来てくれたけれど断るわ。わたしの専門は秘薬なの。魔女と人の秘薬の取引は今禁じられている。力になれることはないわ」
少女は思いつめた顔で口をつぐみ、うつむいたまま動かなくなってしまった。
終戦から数年経ち、ベルンツィヒ大公国の伝統の陶器が他国の王女の目に留まり愛されたことから諸外国で急速にその価値を上げた。それをきっかけとして国は潤い、文化は花開き、人々は日々向上していく暮らしを楽しんでいた。
しかし、その明るさに水を差すように戦後からここ数年、貴族の間で人が石化する奇病がおこっていた。化石病と呼ばれるそれは発熱のあと徐々に石化し、数日後には砂となる。いつからかその病気は魔女の秘薬による呪いだという噂がまことしやかに流れた。それから魔女と人との秘薬の取引は禁じられるようになった。
善き魔女として仕事をしていたネリの母は五年前、困っている人間に乞われ秘薬を売った罪で連れていかれた。そして、未だに戻ってきていない。
母がいなくなると依頼者はぱったりと来なくなった。残されたネリは魔術をほとんど知らなかったのだ。
ネリはずっと、早く魔術を覚えて一人前の魔女になりたかった。しかし、手伝わせてもらえるのは秘薬の元となる植物の栽培や調薬の準備ばかり、教えてもらえるのは一般的な学問や教養、食事の作り方や洗濯、そんなものばかりで、母はネリに魔術をなかなか教えようとしなかった。
『あともう少し。十四歳になったらいろんなことを教えるから、今は植物の育て方を覚えて、魔術以外の勉強をして、依頼者をよく見ていなさい』
そう言われていた矢先、母はいなくなった。
だからネリは水晶を使った占いも、簡単な魔除けもできない。秘薬の調薬だけは教わらずとも傍で何度も見て、準備を手伝っていたのでなんとなく覚えることができていたが、あいにくそれの取引は禁止されていた。ネリは魔女としては生きるすべがなく、仕方なく森の奥で採取した果実や木の実を時々村へ売りにいき、ほそぼそと暮らしていた。数年ぶりに依頼人が来ても力になれることは何もない。
ネリの目の前の少女の顔は青白く、小さく震えていた。かたく握りしめたスカートは皺になっている。途中転んだのか、裾も汚れていた。そもそも森を歩くような格好ではない。
見た感じおっとりした大人しそうな少女だ。きっと、本来なら得体の知れない魔女を訪ねること自体勇気がいることなのだろう。ネリは彼女の思い詰めた表情に不安を覚えた。
母はいつも受けられない依頼はきっぱりと断った。けれど、母は困っている依頼人に悲しい顔をさせたまま帰したこともなかった。
「力になれるかわからないけれど……話だけならもう少し聞くわ」
ネリは彼女を小屋の中に招き入れた。
母がいた頃、小屋は壁に刺繍が掛けられ、異国情緒のある調度品がいくつも置かれ、そこは魔女の気高さを感じさせる部屋だった。そのすべては生活に窮したネリによって売り払われ、今はただのほったて小屋だった。奥の部屋に散らばる大量の薬草と大鍋が垣間見えることで、かろうじて魔女の小屋といえなくもない感じになっている。
少女はソフィー・リンデマンと名乗った。
彼女は、小さいながら鉱山を持ち工房を構える子爵家の末娘だ。最近になって大陸の北東に領地を構える伯爵家との婚姻が結ばれることとなった。よくある貴族間の政略結婚だ。
「私には幼い頃から想う相手がいました。ただ、結婚は家同士の繋がりですので、ずっと諦めていたんです……」
ソフィーの想い人は幼い頃礼拝に行った時に知り合った孤児院の少年だった。
彼女は想いを伝えないままに、友人として彼とずっと人目を避けて会っていた。だが、ソフィーは結婚前に想いをもらしてしまった。すると向こうも憎からず想ってくれていたことが発覚した。諦めていたはずが、想いが通じ合ってしまったことで諦めきれなくなったという。
母はネリにいつも、依頼人をよく見て、しっかり話を聞くように言っていた。
人は自分の望みを勘違いしていたり、それと気づかず嘘を吐くこともある。
ソフィーの望みが本当に真剣なものなのか、貴族のお嬢さんが政略結婚から逃げたくて一時の熱に浮かされ我儘を言っているだけなのか確かめる必要があった。
「……国外に駆け落ちすればいいんじゃないかしら」
「それはもちろん考えていました。国を出てからの仕事や当面の生活資金のことも何度も話し合っています。けれど、駆け落ちして万が一連れ戻されたら、私じゃなくて彼が酷い目に遭います……」
思っていたより地に足が着いた言葉が返ってきたのと『彼』についてのそれを言った時だけ、ソフィーの表情は急に強さを帯びた。その目を見て、ネリは彼女の本気を信じることにした。
ベルンツィヒの西は海に面していたが、それ以外の国境はすべて天然の要塞である山に囲まれている。ここから最短で国を出るなら北の国境だろう。崖で切り立った山間の陸路を行くことになるが、国境を越えるには最低でも徒歩で三日はかかる。危険な経路を使えば遭難の恐れがあるし、安全な経路はひとつしかしかないので、馬で追いかけて見つけようと思えばたやすいだろう。確かに普通にやって駆け落ちがうまくいく可能性は低い。
「……親に相談して結婚を取りやめてもらえないの?」
ソフィーは話すごとにうつむいていたが、ネリの言葉にまた顔を上げて言う。
「いえ、ロイシュタイン伯爵家との婚姻は両親にとって都合がよく、こちらから申し入れた縁談なんです……もともとの繋がりは……」
ソフィーは話し続けていたが、ネリは聞き覚えのある名前に思考が一瞬飛んだ。
それは、ネリにとって忘れられない名前だった。
「……今、ロイシュタイン伯爵家と言ったわね。結婚相手の名はなんと言うの?」
「エルヴィン・ロイシュタイン伯爵です……」
ネリはその男を知っていた。エルヴィン・ロイシュタインは国の騎士団内に組織された秘薬管理局の局長だ。五年前、母を連れていったのはほかでもない彼だった。
ネリはその頃まだ十三歳で、母に言われて奥の部屋にいた。彼は金髪に青い瞳で容姿は美しかったが、その目は冷たく周囲を拒絶していた。ネリは彼に見つかり、数秒目が合ったと思う。それでも一切感情を窺わせない冷徹な瞳に背筋が寒くなった。あの時のことは忘れられない。
ネリはずっと母のゆくえを探りたい気持ちはあったが、しばらくは一人きりでの生活を維持することに必死だった。ネリには横のつながりもなく、捕縛された魔女達の情報は入ってこない。エルヴィン・ロイシュタインのことだってあの日名乗った役職と名前くらいしか知り得なかった。
この機会に彼に近づけば、母を捜すための手掛かりがつかめるかもしれない。
「力になれないと思っていたけれど……あなたに協力できることがあるかもしれない」
ぱっと顔を上げたソフィーがまた泣きそうな顔をした。
「あ、ありがとうございます! それで、私はどうすれば……」
「あなたの代わりにわたしがエルヴィン・ロイシュタインと結婚する。あなたはその間に想う相手と国外に逃げればいいわ」
「私の代わりに……?」
ソフィーは事態がうまく飲み込めないのか、ぽかんとした顔をしていた。
「ええ。わたしはあなたに化けることができるの」
ネリは他人に姿を変えられる。
変異魔術は秘薬の調合以外でネリが唯一できる魔術だった。
ネリは昔、母の所用で半日だけ預けられた老年の魔女から教えてもらい、すぐに変異魔術を自在に使えるようになった。しかし、母はその時珍しいくらいに厳しく叱り、ネリをほかの魔女に会わせることをしなくなった。だからそれは知ってはいても、ずっと母に禁止されていたものだった。
ネリは突然いなくなった母を愛していたが、同時に怒ってもいた。こんな風に急に消えるならば、もっといろんなことを早くから教えておいてほしかった。ネリは完璧と信じきっていた母に対して子供らしい我儘な怒りと、それでもまだ、母の言いつけに逆らうことのできない依存心を持っていた。
母はかつて変異魔術を使うなと言った。だからその言いつけを破ることに小さな恐怖もあった。けれど。
ネリは目の前のソフィーに言った。
「ぜひ協力させて。相手がエルヴィン・ロイシュタインなら、わたしにもそれをやる十分な理由がある」
変異魔術には制約があり、ソフィーに姿を変えている状態で魔女の力は使えない。しかし、どの道ネリに使える魔術などないし、化けた相手と鉢合わせることなくエルヴィン・ロイシュタインの屋敷に潜り込める状況というのは好機だ。
「見せてあげるわ。最初の一回は化ける相手の髪の毛が必要なの」
ソフィーはネリに言われるままに、自らの髪を一本抜いて渡す。ネリは指先にソフィーの髪の毛を摘むと小さな声で呪文を唱え、ふっと息を吹きかけた。
ちりちりとごく小さな炎で燃えていくかのように、髪の毛が音も立てず短くなっていき、やがて消えてなくなった。
ネリの目の前のソフィーの瞳が大きく見開く。
そこには二人のソフィーがいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます