第42話 境界のリグレット
旧図書室の木戸が静かに開き、制服姿の久遠がそっと中を覗き込む。
「篠宮先生。」
久遠の小さな声が暗がりの中に消えていく。
彼の片手には、静香から預かった和柄の包みがあった。
久遠は、数時間前のC教室で静香と交わした話を思い返す。
◇
「お願いって?」
久遠の問いかけに、静香が答える。
「今夜、篠宮先生のところに今日のお菓子と紅茶を持っていって欲しいんです。大鳥博士に聞いたら、夜までずっと会議だけど、その後は旧図書室にいるんじゃないかって。」
久遠はほんの少しだけ間を置いて答える。
「いいよ、持っていく。もしいなかったら旧図書の冷蔵庫にでも入れておくから。」
「良かった! じゃあ、お手紙も入れておきますね。」
静香は取り出した小さな和紙のメモにさらさらと手紙をしたためていく。
「お茶会にお誘いしたんですけど、どうしても来れないんですって。でも、今日のお菓子は食べてほしくて。」
そう言って静香は手紙と共に、プリンとアップルパイが入ったケースを和柄の布で丁寧に包み、紅茶の入った桜色の小さな保温ポットと一緒に彼に手渡した。
「それでは、お願いいたしますね。」
静香がそう言って微笑むと、久遠は小さく頷いて笑みを見せた。
◇
旧図書室奥の一角に薄い灯りが点いていることに気がつくと、久遠はそっと室内の司書教諭室へと入って行く。
そこには、いつものように机に伏して眠りについている篠宮良子の姿があった。
深いブラウンの髪をひとつ結びにし、ところどころほつれたカーディガンを羽織ったまま、静かに寝息を立てている。
いつもなら声をかけて起こすところだが、声をかけるのが
彼女とは二日前の大規模調査を最後に、一度も顔を合わせていない。
そして久遠の脳裏には、大規模調査の前日にこの旧図書室を訪れた時のことがよぎっていた。
(起こさないうちに帰った方がいいか……)
久遠は音を立てないようにして入り口に足を向ける。
その時、良子の右手には小さな古い写真が握られていることに気がついた。
篠宮良子は久遠に気がつく事なく、眠りについたままだ。
彼女は計り知れない多くのものを背負っているだろうに、今は静かに寝息を立てている。
久遠は胸の奥に、喩えようなのない暖かな感情が広がっていくのを感じていた。
「……おやすみなさい。篠宮先生。」
彼はそう言って小さく微笑んだ。
望むことなら、
◇
司書教諭室の冷蔵庫にお菓子を入れ、静香が用意してくれた小さな手紙を添えると、久遠は足音を立てないようにして旧図書室を後にしようとしていた。
「久遠くん?」
背後から聞き慣れた声がして立ち止まる。
ゆっくり振り向くと、薄暗い中に机から身体を起こしてこちらを見ている良子のシルエットがあった。
「篠宮先生。すみません。起こさないようにしようと思ってたんですが。」
「どうしたの? こんな遅くに。」
「諏訪内さんに、今日のお茶会のお菓子を届けるように頼まれて。」
「あ……。ごめんね。誘われてたんだけど、今日はずっと会議で……。」
良子が小さな手で目を擦る。
「お菓子は冷蔵庫に入れておきました。プリンとプリンケーキ、それからアップルパイと紅茶。紅茶は桜色のポットに入ってます。後でどうぞ。僕は……。」
久遠が続ける言葉を彼女は無言で待つ。
「僕はその……帰ります。」
「……うん。お菓子ありがとう。帰り、気をつけてね。」
彼女の短い小さな声を背中で聞くと、久遠は入口の木戸に手をかけた。
俯いている良子の指先が、机に置かれた古い写真に触れる。
彼女が写真に目を落とすと、そこには高校時代の良子と並んで写る少年の姿があった。
写真を見つめる彼女の意識は、急速に還っていく。
夕闇に沈む、六年前の旧図書室へと。
◇
壁にかかった古びた時計が音を立てている。
六年後と変わらず、薄暗い室内に並ぶ書棚。
窓の外には十一月の夜空が広がっていた。
机から身体を起こし、目を擦っているのは高校生の篠宮良子だった。
貸し出しカウンターに陣取った制服姿の少年が、山積みにした本の間から、呆れ顔で彼女に声をかける。
「良子、君はいつも寝ているな。」
「仕方がないじゃない……。眠いんだから。」
「……七つも年上の君が言うことか。」
彼はため息をつくと、読みかけのシラーの詩集を閉じて傍に置いた。
白く陶器のような肌に、美しい蒼色の瞳。
小柄な身体を借り物の中等部の制服に身を包んだ彼は、机で伸びをする良子を眺めている。
寝ぼけ顔で制服のポケットを探っていた良子は、袋に入った小さな焼き菓子を見つけて満面の笑顔になった。
「見て見て、
「食べることと寝ることしか興味がないのか、君は。」
「割とそうかも。」
良子が屈託なく笑うと、彼は深いため息をついた。
柔らかな前髪がさらりと揺れる。
「やれやれ。そんなことじゃ、僕が帰った後が心配だな。」
「またいつでも来ればいいよ。みんな待ってるよ。彼方のこと。」
良子はフィナンシェを大切そうに持ったまま、人懐っこい笑顔で答えた。
「そんな簡単に済む話なら苦労はないんだ。」
彼は小さくため息をついた。
「……僕達の世界を隔ている『境界』。君の知っての通り、それは
きょとんとした表情で聞いている良子。
彼方は目を伏せ、ゆっくりと口を開いた。
「境界は……人の心の中にもある。
それはどんな手段をもってしても容易に越えることはできない。
もし越える方法があるとしたら……それはなんだろうな。」
自嘲的に呟く彼の寂しげな横顔を見ながら、良子は口を開いた。
「境界は君の中にもあるの? 彼方。」
「どうだろう。無い人間を想像できないな。」
「あるとしても、きっと私は越えることができると思うよ。」
「なぜそう思うんだ。簡単に言ってくれるなあ。」
そう言って彼方はため息をつく。
彼女はフィナンシェを半分にすると、呆れ顔の彼に手渡した。
「簡単だよ。」
良子は笑って答える
「だって、私は君のこと」
◇
良子は虚空を見つめたまま立ち上がる。
彼女は自分の頬に幾筋もの涙が流れていることに気がついた。
なぜ今、心の奥底に閉じ込めていた思い出がこんなにも鮮明に溢れ出たかはわからない。
言えなかった言葉。
境界に残してきた後悔。
六年経った今でも、どうすれば良かったのかわからない。
ただ、今しなければいけないこと。
それだけはわかっていた。
「久遠くん……!」
旧図書室に響いた良子の声に、出口の木戸を開けようとしていた久遠の動きが止まる。
「久遠くん、待って。」
良子は自らの胸にそっと手を当てる。
「……。その…………。」
「篠宮先生……?」
「えっと……。そんなにいっぱいお菓子があっても、その……食べきれないじゃない……?」
良子は俯いたまま、ひとつひとつ言葉を紡いでいく。
「だから……一緒に……一緒に食べない?」
振り向くと、良子は伏し目がちに久遠の顔を見ている。
少し間をおいて、久遠は微笑んで答えた。
「はい。」
顔を上げた良子の表情が明るくなる。
「紅茶、温めてきますね。」
彼の返した言葉に良子が久しぶりに見せたその笑顔は、久遠が知っている優しい微笑みだった。
良子は奥の部屋に入っていく久遠の後ろ姿を見ながら、小さく呟く。
「彼方。私、わかるよ。人の心の中にある境界のこと。そして、どうやってそれを越えていくのか。」
彼女の胸の中に、六年前のあの時に言えなかった言葉がよぎる。
だって、私は君のこと信じてる。
心の中に境界があるのなら
それを越えるのもまた心だと思うから。
彼方。
君がそれを教えてくれたんだよ。
境界を越えて、この世界に来た君が。
良子は窓の外を見上げた。
窓の外には満天の星空が広がっている。
良子は星の瞬きを見ながら、静かに微笑んだ。
「篠宮先生、紅茶沸きましたよ。新しいティーカップはどこでしたっけ。」
「あ、いま行くね!」
良子は窓辺を後にして振り返ると、久遠の元へ駆け出した。
旧校舎の片隅に佇む小さな図書室。
その窓辺に、暖かな光が灯る。
時折聞こえる二人の笑い声を、夜の帳だけが静かに耳を傾けていた。
境界のリグレット 中条優希 @yk_nkj
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