#7(LAST) サス

 遅れて建物の中に入ると、ルルハがこちらを向き、どこか幸せそうな顔をして立っていた。部屋の内装は使い古された工場そのもの。トラックがまるごと2台くらい入りそうな広さ。太い鉄骨で骨が組まれ、天井が高く、コンクリートの床には長い年月かけて積み重なった黒い油が深々と染み込んでいて、どんなにこすっても全くきれいになりそうにはない。


 その中でもひときわ目を惹きつけたのは、刃渡り30cmほどの、黒いマチェットナイフが、無造作に壁に立てかけられていた点だろう。コロし場なんて名前の場所だから、ありとあらゆる凶器が用意されている場面を想像していたが、殺意を感じるものはそれだけだ。いろいろな選択肢があるよりも、「これでコロせ」と、強制的に逃げ道を塞いでくる威圧感があった。


「……」


 何か言わなくては。でも言葉がどうしても出てこない。この状況においてルルハに何て声をかけたらいいのか。真面目な話はすでにルルハに打ち消されている。冗談を言おうにもこの場の空気がそれを凄まじい圧力で封殺してくる。


「そこのナイフで、どうぞ」


 お茶菓子でも勧めるようにルルハが言う。体をこわばらせている俺を見て、フッとため息を1つつくと、ルルハは自らマチェットナイフを手に取り、俺の方へと歩いてきた。その動作でわずかに動く空気が重い。人の命をいとも簡単に奪える道具が近づいてくる。俺は押されるように一歩、二歩と後退り、追いついたルルハに手を取られて、マチェットナイフを握らされる。そしてルルハが両手でギュッとナイフを持つ俺の手を握った。その手はとても冷たかった。


「手伝ってあげる」

「えっ? 手伝う……!? やめ――」


 ズブリとナイフがルルハに刺さる。俺の手に握られたナイフは、ルルハの皮膚を破り、肉を裂き、臓物を破壊し、背中から突き出た。筋肉の萎縮とねっとりとした脂がブレーキとなって、ナイフがこれ以上深くささることは困難だと訴える。


「やれぶぐぶえぇ」


 何かを言おうとしたルルハは、声にならない異音を撒き散らす。ナイフを握った俺の手がじわっと熱を帯びたかと思えば、すぐにビャビャッと咳をするかのようなリズムで血が吹き出す。最初は勢いもよく、リズムもあり生命を感じたものだが、すぐにただただ漏れ出る液体へと変ぼうする。そうなると、自分自身も冷静さを取り戻し、体を濡らす液体がとろみを帯びた生臭いものだと認識し始める。


 刃を通した直後……本当にその瞬間においては、ブラシも行き届かぬ身体の端々にこびりついていた積年のストレスが、高圧洗浄機で一気に洗い流されたかのような未知の快感を得たが、すぐにそれは後戻りできない罪という本当の名前があることを知る。まず手が震え、すぐに足が震えた。胃から逆流する何かに気圧されて、立っていられなくなり、口から吐き出すと同時に膝が折れ、尻餅をついた。第二波の逆流は間髪入れずに襲いかかり、バシャっと液体だけが出た。そして第三波もすぐにくるが、早くも餌付くだけになっていた。


 流々原ルルハは、肌がとても白く、髪はとても艶やかで、目は切れ長で愛嬌があるわけではない。だがとても美しく、そしてとても醜い。これまで落ち着いた様子で、人を小馬鹿にしたように振舞っていたのが嘘みたいに、嗚咽をもらし、便所虫でも食らったかのように顔を歪め、何に向かうでもない力を全身にみなぎらせ激しく痙攣している。俺はもう人間的な暖かい感情なんてすっかり麻痺して、今ある現実にキャパオーバーだと脳が悲鳴をあげ、ギンギンと頭が痛む。俺に自我などもうない。恐怖に支配された全神経がエラーを起こしまくっている。


 俺はルルハの腹を足の裏を押し出すようにして蹴飛ばすと、彼女はその反動で吹き飛ぶ前にすぐに踵を地面に引っ掛け、無抵抗に後頭部から倒れて大きく両足を上げた。人を殺すために作られたようなマチェットナイフを突き刺した上に足蹴にするなんて、非人道的なことはわかりきってる。身体の震えはガクガクと音を出すほどになり、目から熱い涙が流れ出すのと同時に、仰向けに倒れた彼女は首だけをもたげ、この世の暗闇を捉えているかのような眼差しでジッとこちらを見ている事に気づいた。コロされ屋……あいつとの出会いさえなければ、僕はこんなにも恐ろしい人の本能なんて覗き見る事は未来永劫なかったはずなのに。


おしまい

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コロされることを生業とした可憐な少女たち マギヒトカ @hitoka_j

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