手をとりあって
大澤めぐみ
手をとりあって
主人のワイシャツにアイロンをかけながらテレビを見ていたら、年配のコメディアンが案内役の旅番組で、わたしの故郷の街が映っていた。
二十年も前に街を、というか、あの国じたいを出て以来、一度も帰ったことはない。
傘をさして歩くコメディアンとアシスタント役の若手女優の後ろを、カメラが追っていく。
街をぐるりと取り囲む、石造りの堀と塀。そこに掛かる、郊外の丘陵地と街をつなぐアーチ型の橋。石畳の街道と張り巡らされた水路。水路のギリギリにまで、ひしめき合うように建つ建物群。
テレビの画面に映った街は、わたしの記憶にあるものとほとんど変わらず、そのままだった。まるで、この二十年ものあいだ、完全に時が止まっていたかのように。
記憶と違うのは、画面のどこにも火の手が見えず、街全体がしとしとと降る小雨に濡れ、濃い灰色をしているところくらいだ。
わたしの記憶にあるその街は、赤い炎に照らされている。故郷のことを思い出すとき、まず印象に浮かぶのはいつも、炎の赤だった。
その街には、炎の女の子がいた。
名前はブレイズ。
燃える赤髪の、ひょろりと手足の長い、ちょっとツリ目がちな綺麗な子だった。
ブレイズも生まれたときは普通の赤ちゃんだったらしいのだが、二歳を過ぎたくらいの頃からだんだん火になり、学校にあがる頃にはすっかり燃え盛る火炎になっていたそうだ。つまり、わたしが彼女を見知ったときには、すでに彼女は炎だった。
入学直後、わたしはクラスメイトとなったブレイズに「ハイ」と挨拶をした。彼女はそれに返事をせず、仏頂面で目をそらしただけだった。どうやら、わたしはあまり彼女に好かれてはいないようだった。だから、わたしはあまりブレイズとは口を利かなかったし、なるべく近づきもしなかった。だいたい、あまり炎に近づくと、自分が燃えてしまう。
炎の彼女には、彼女の両親ですら触れることができないらしく、そのことを彼らはとても悲しんでいるのだと、いつだったか母親がわたしに教えてくれた。
わたしたちが通う小さな学校はすでに定員以上になっていて、一人分の席を二人で使わなければならなかった。今では信じられないような話かもしれないけれど、当時のあの街では、それはとくに珍しくもない当たり前のことだった。
何百人という子供たち――かつて子供だった今の大人たち――に使い倒されて傷だらけの机の天板をふたりで分け合って、肩や肘をぶつけ合いながら文字を書いたり計算したりするのだ。
でもブレイズは炎だったから、彼女と席を分け合う子はいなかった。ブレイズと肩や肘をぶつけたら自分が燃え上がってしまうし、肩や肘をぶつけずに席を分け合うのは難しい。
ある朝、教室に水の女の子がやってきた。
「みなさん、この子はウェンディ・グレゴリー」スウィフト先生が、まるで聖書の一節のように宣言した。「今日からみなさんと一緒に、この教室で勉強します」
ウェンディはちょっと不定形で透けてて、びちゃびちゃしていたけれど、優しそうな印象の、綺麗な子だった。声を揃えて「おはようございます」と挨拶するわたしたちに、おっとりとした微笑みをかえしてくれた。
「さて、ウェンディの席を探さなくてはね」
そう言って、スウィフト先生は教室を見回したけれど、ぎゅうぎゅうづめのそこには新しい子が座る余裕なんてどこにも残っていなかった。ブレイズの隣以外には。
スウィフト先生はあごに人差し指をあて、ちょっと首を傾げて、ブレイズに言った。「えっと、ブレイズ。ちょっと席を詰めてもらえる?」
言われたブレイズは三秒くらいスウィフト先生を見つめ返してから、黙ってお尻を椅子の真ん中から横にスライドさせた。
それから、ウェンディに顔を向け『自分でもそんなことができるなんて信じてはいないんだけど、でもいちおう試しに訊いてみようかしら?』みたいな調子で、言った。「ではウェンディ。ブレイズの隣でどうかしら?」
ウェンディはスタスタと歩いていって、ブレイズに右手を差し出した。
「ウェンディ・グレゴリー」
ブレイズはウェンディの差し出した右手を三秒ほど見つめてから、おしりの下にしまっていた右手をゆっくりとあげた。
「ブレイズ・カッブ」
ふたりが握手を交わすのを、教室中の子供たちがジッと見ていた。
ウェンディがブレイズの手を握ると、びょおびょおと燃え上がっていたブレイズの炎はスルスルと引っ込んで、おまけにびちゃびちゃだったウェンディの輪郭が急にしゃっきりと、くっきりとした。
その瞬間、ふたりは炎でも水でもなく、ただのふたりの女の子になっていた。
その光景は、わたしの目には、あらゆる運命が調和しているように見えた。
「あらあらあら。お互いがお互いの性質を打ち消し合ったのかしら」と、スウィフト先生もびっくりしていた。それから、にっこりと微笑んで「これは、ずいぶんと楽になるわ。ブレイズがいつもめらめらと燃えているのには、ちょっと困っていたところだったから」と、呟いた。
よろこんだのはスウィフト先生だけではなかった。
もちろん一番よろこんだのは、ブレイズとウェンディの、それぞれの両親だ。いつも燃え盛っているブレイスには、そもそも誰も触れることすらできなかったし、ウェンディには触れることじたいはできたけれども、不定形でばしゃばしゃしているから、抱き締めることはできなかった。
ブレイズとウェンディが手を繋いでいるあいだは、彼女たちの両親も、自分の娘をしっかりと抱き締めることができた。
スウィフト先生が電話で連絡したのだろう。放課後、校庭に駆けつけたそれぞれの両親は、数年ぶりに娘を抱き締め涙を流した。
ブレイズが両親に抱き締められているあいだ、その右手を握っていたウェンディはちょっと居心地が悪そうにしていたし、同様に、ウェンディが両親に抱き締められているときには、その左手を握っているブレイズは露骨に不機嫌そうな顔をしていた。
まあ、たしかに。感動的な家族の抱擁がくりひろげられているすぐ横で、まったく見ず知らずの人間が、その当人と手を繋いでいないといけないというのは、どういう顔をしていればいいのかよく分からないかもしれない。
「ありがとう、ブレイズ」ウェンディの父親が言った。「私たちは、もう何年も、こうして娘を腕に抱いたことがなかった。またこうして、しっかりと触れることができるなんて、考えてもいなかった。本当にありがとう」
「また、娘と手を繋いでもらえるかしら?」ウェンディの母親が、ブレイズに訊いた。
「まあ、べつに」ブレイズは顔をそむけて、唇をとがらせた。「ときどきなら、別にいいですけど」
そのようにして、炎の女の子と水の女の子は、それぞれの両親の求めに応じて、たびたび手を繋いでは、それぞれの両親に抱き締められた。たとえば誕生日だとか、復活祭とか、新年のお祝いだとか、あるいは、とくになんでもない日曜日の朝なんかに。
教室では、ふたりはひとつの席で肩をぶつけ合いながら一緒に勉強していて、だからブレイズもウェンディも、席についているあいだは燃え上がってたりばしゃばしゃしてたりせず、まるっきり普通の女の子のようだった。
それで、ブレイズとウェンディが仲の良い友達どうしになれたなら、なにも問題はなくすべては丸く収まっていたのかもしれない。でも世の中なんだって、そんな都合よくいくものでもない。
だいたい最初から、かたや炎で、かたや水なのだ。ふたりの性格はまるっきり正反対で、気の合う要素がどこにもなかった。
おまけに、炎の女の子だろうと水の女の子だろうと、女の子である以上、思春期はくる。思春期には、両親に抱き締められることじたいを避けようとするようなパターンもある。
ブレイズはそういうタイプの思春期を迎えた。ちょっと反抗期っぽいやつだ。
それで、ウェンディの両親に呼ばれても、なにかと理由をつけて、あまり出向かないようになった。
上の学校にあがるころにはブレイズとウェンディはわりと疎遠になっていて、すこし広くなった教室の端っこでブレイズはめらめらと燃えていたし、反対側の端っこではウェンディがばしゃばしゃしていた。
ときどき、たとえば理科の実験で火気厳禁の薬品を扱うときなんかに、先生が「ブレイズ、ウェンディと手を繋いでいなさい」と声を掛けることもあった。そういうときはブレイズも、いかにも渋々という雰囲気ではあったけど、ウェンディと手を繋いで炎を引っ込めた。でもしばらくすると手をはなし、まためらめらと燃え上がった。
「どうして、手を繋いでいないの?」
わたしが訊くと、ブレイズは普通に驚いたみたいな顔をして、答えた。
「だって、ずっと手を繋いでいるってわけにはいかないでしょ?」
いかないのだろうか?
本音を言えば、わたしはふたりにずっと手を繋いでいてほしかった。同じ教室にめらめらと燃えてる女の子がいるのは、率直に言ってちょっと迷惑だったし、ウェンディがばしゃばしゃしているのは迷惑っていうほどでもなかったけれど、でもブレイズと手を繋いでいれば、ウェンディだってくっきりするのだ。ばしゃばしゃしているよりは、くっきりしていたほうが、わたしたちもなにかとやりやすい。
なにより、ふたりが手を繋いだときの、あの、あらゆる運命が調和したような完成された光景は、とても素敵だった。ひょっとしたら、わたしはたんに、あのすべてが調和した完璧な光景をもう一度見たいという個人的な欲望を抱えていただけなのかもしれない。
だけど、もしも自分がずっと誰かと手を繋いだまま生活しなきゃならないってことになったら、たしかにすこし面倒だなとは思う。実際にそんな立場に追い込まれたことがないから具体的にイメージはしづらいけれど、当事者としては、ずっと手を繋いでるわけにもいかないものなのかもしれない。
ブレイズはそんな感じで、ちょっととがってるというか、なにかと反抗的な態度をとりたがるような子だったから、わたしはウェンディにも言ってみたことがある。「ウェンディのほうから、ブレイズと手を繋ぐようにすることはできない?」と。
「どうして?」
ウェンディもブレイズと同じように、普通に驚いたというか、本心から不思議でならないという風に首を傾げた。
「どうしてって……だって、ブレイズもウェンディも、手を繋いでさえいれば普通の女の子でいられるのに」
「普通の女の子でいたほうがいいの?」ウェンディは言った。「わたしは、とても特別なのに? みんな普通は嫌で、特別になりたいものなんじゃないの? わたしにとって、わたしが水であるというのは、わたしに与えられた特別な要素なの。捨て去りたくなんてないし、そうするべきでもないと思う。わたしが水であることは、いろいろな人の助けにもなっているし」
「癒しのちからのこと?」
「そう。あなたのことも、助けたことがあったはず」
たしかに。わたしも一度、ウェンディに助けられたことがある。
作付けされたばかりの畑のふちを歩いていて、グラウンドホッグの巣穴にはまり、ひどく足首をひねってしまったのだ。しかたがないので足を引き摺りながら歩いていると、通りかかったウェンディが傷めたところを冷やしてくれた。
しばらくそうしていると、わたしはもう普通に歩けるようになっていた。どうやらウェンディの水には、人の身体を癒す効果があるらしい。
「マルグリッドの顔にあった、生まれつきの大きなアザだって目立たなくなったし、肺炎にかかった子が助かったこともある。最近は、わざわざ遠くから訪ねてくる人だっているのよ。わたしの助けを必要としている人がいるのだから、このちからを失うわけにはいかない」
「そうね」と、わたしも頷いた。「そういうことなら、うん。そうなんだと思う。ウェンディのちからはこの世界に必要なんだわ、きっと」
ウェンディもブレイズも、たしかに、少なくとも特別ではあった。どこからどう見ても、ちっとも普通ではなかった。ウェンディの言葉に、わたしがいまいちしっくりこなかったのは、たぶん、わたし自身に「特別でありたい」という願望があまりなかったからだろう。でも言われてみれば、彼女たちのように特別であることは、それじたいは、べつに悪いことではなかったのかもしれない。
ウェンディのちからは人を癒すことができたけど、ブレイズはただ燃えているだけだった。
ブレイズが触れると、あらゆるものが燃え上がった。あるていど火力を調整することはブレイズにもできたみたいだけど、基本的に、完全にオフにすることはできない。彼女の火が完全に消えるのは、ウェンディと手を繋いだときだけだ。
ブレイズに触れるのは不可能ではなかったけれど、それはチンチンに熱くなったアイロンに触れるのと同じくらい危険なことだった。一秒未満の接触であれば、まあ、一週間ほどヒリヒリするだけで済んだかもしれない。
誰も彼女に触れることはできず、だから、ブレイズはいつもひとりだった。
わたしたちが16歳になった春に、微笑みの男の子、ホルダーが現れるまでは。
ホルダーは大戦の影響で首都から疎開してきた男の子だった。ふわふわの金髪に鮮やかなブルーの瞳の、このへんではあまり見かけない雰囲気の子で、いつでも淡く微笑んでいた。服装から話し方、立ち方や歩き方まで、なにもかも都会的が垢ぬけて見えた。
もちろんホルダーは女の子に人気があったけれど、誰に言い寄られてもホルダーはやっぱり淡く微笑んでいるだけだった。
夏休みに入る前には、そのホルダーとブレイズが付き合っているのではないか? という噂が立っていた。根拠はかんたんで、ホルダーの服の袖や前髪が、よく焼け焦げていたからだ。
ホルダーもべつに隠す気はなかったようで、問い詰められるとすぐに認めた。
「だって、燃えてる女の子って素敵じゃないか」
ほとんどホルダーの一目惚れだったらしい。ホルダーのほうからブレイズにずいずいとアプローチしていったそうだ。彼の直線的なアプローチは、長らく一匹狼を貫いていたブレイズさえも、あっという間に攻略してしまった。
あるいは、ブレイズがずっと孤独だったからこそ、彼の真っ直ぐな好意が素直に届いたのかもしれない。誰だって、ひとりぼっちは寂しいものだから。
その夏、下校途中に丘の上で、めらめらと燃えるブレイズと、その隣に佇むホルダーの後ろ姿をよく見かけた。ホルダーがブレイズを抱き締めているのも遠目に見たことがある。ほんの数秒ほどで離れたけれど、それでもきっと、ホルダーはものすごく熱かっただろう。勇敢だなと思った。
あるとき、ホルダーの唇が真っ赤に焼けただれていたので、ふたりがファーストキスを交わしたことが分かった。ホルダーは真っ赤に腫れた唇で、それでもやっぱり淡く微笑んでいた。
ひょっとしたら、あの夏のほんの短い期間だけは、ブレイズはブレイズのまま、ウェンディはウェンディのまま、ホルダーはホルダーのままで、みんながみんな、ありのままの自分で共存できた、幸福な時間だったかもしれない。
でも、そんな時間はそう長く続かなかった。
夏が終わるころには、大戦の影響がわたしたちが住む街にも及んでいた。大人の男たちが戦争のために出征していき、街では反戦を叫ぶ勢力が若者たちを中心に成長して、戦争反対を叫びながら火をつけて回るという、よく分からない事態になっていた。
小競り合いは、すぐに街を二分する大きな抗争に発展した。
燃える炎に照らされ、街は赤く染まった。
反戦を叫ぶ若者たちの最前線に立っていたのは、微笑みの男の子、ホルダーだった。
口元にはやはりいつもの微笑みがはりついてはいたけれど、その表情のまま、驚くべき声量で若者たちを扇動し、率いていた。ホルダーが扇動していたので、ブレイズはもちろん、こっちの――非常に好戦的な――反戦勢力についた。
ブレイズは燃えて燃えて燃えまくった。ホルダーのために。反戦勢力の仲間たち、多くの人たちに求められて、たぶん生まれてはじめて、持って生まれた才能を思うさまに発揮していた。
ウェンディは反-反戦勢力――彼らからは「体制側」と呼ばれていた――の病院で、傷病人たちの治療にあたっていた。ブレイズのせいでつぎからつぎへと火傷をした人が運びこまれてくるので、癒しのちからを持つウェンディはひっぱりだこだった。
ブレイズはあらゆるものを燃やしまくり、街の半分の人たちからは頼りにされ、街の半分の人たちには激しく憎まれていた。
ウェンディは人々の火傷を癒し、街の半分の人たちから感謝をされた。反戦勢力のほうは、怪我人を癒す彼女の存在をちょっとやっかいだと考えていたかもしれないが、別に憎んではいなかった。
ふたりとも、それぞれの才能を生かして、かつてないほどに輝いてはいた。
彼女たちは使命感でとても凛々しい顔をしていた。そんな彼女たちのまわりに、怪我人ばかりがどんどん増えていく。
わたしにはどうしても、それは盛大なマッチポンプのようにしか思えなかった。だって、最初からふたりが手を繋いでさえいれば、ブレイズは街を燃やさず、人々は火傷を負うこともなく、ウェンディの癒しのちからだって必要とはされないのだ。
どちらの勢力とも距離をとっていたわたしが、とんでもない火傷を負ったホルダーを保護したのは、ほんとうにただのたまたまだった。声も出せないほどの大火傷だというのに、彼の口許だけはやっぱり微笑んでいた。
わたしはホルダーを納屋に隠し、ブレイズを呼んだ。
「ホルダー!」
叫んで近づこうとするブレイズに、わたしは「彼に近寄らないで」と、言った。なにしろ、感情的になった彼女はそれはもう、びょおびょおに燃え上がっていた。
「もうすでに致命的な大火傷なのよ。これ以上火傷を負ったら、本当にただちに死んでしまう。ちゃんと感情をコントロールして、なるべく炎を引っ込めて。でないと、この納屋も燃えてしまう」
ブレイズは眉根を寄せ、口をへの字に曲げて、でも呼吸を整えて、なるべく炎を小さくしてくれたようだった。
「ウェンディの助けが必要よ。彼女に癒してもらわなくては、ホルダーは死ぬ」
わたしの説得に、最終的にはブレイズも応じた。
「ウェンディを呼ぶわ。もう一度、彼女と手を繋いで。炎を引っ込めて、普通の女の子になるのよ。ブレイズ」
ウェンディは来た。学校の教室で初めて会ったときと同じように、スタスタとまっすぐにブレイズに近づいた。
「久しぶりね、ブレイズ」
「久しぶり」そう返事をしたブレイズは、腕をしっかりと組んで、隠していた。「絶対に余計なことはしないでね。癒すだけよ」
「もちろんよ」ウェンディは応え、ホルダーの傍らにかがみこんだ。「そもそも、わたしには癒すことしかできないわ」
ウェンディが水の手で触れ、冷やすと、早かったホルダーの呼吸がだんだんと落ち着いた。
「あまりにひどい火傷だから、完全に癒すことはできないけど、もう命に別状はないわ。いずれ回復するでしょう」
そう言って、ウェンディは立ち上がった。
「ありがとう」
ブレイズが言った。
「どういたしまして。わたしの役目だもの」ウェンディが言った。「さあ、握手を」
ブレイズはウェンディの右手を三秒ほど見つめてから、組んでいた腕をほどき、右手をゆっくりと差し出した。
ふたりが握手をする。その瞬間、ブレイズの炎は引っ込み、ウェンディの輪郭はくっきりとして、ふたりはただの女の子になっていた。
そして、銃声が轟いた。
ブレイズはゆっくりと横に倒れ、納屋の床に仰向けに転がったときには、もう死んでいた。遠くから飛んできたライフルの弾が、的確に彼女のこめかみを撃ち抜いていた。
「どうして……?」
呟くわたしに、ウェンディが言った。
「火を撃ち殺すことはできない。本質が炎そのものである彼女を止める方法は、ほぼなにもないのよ。でも、普通の女の子ならライフルで簡単に殺せる。これでもう二度と、誰も彼女の炎に焼かれずにすむ」
「でも、なにも殺さなくたって」
「あなたがいなければ、彼女を殺すことはできなかった。ありがとう。あなたのおかげよ」
ウェンディに感謝されても、わたしはぜんぜんうれしくなかった。
どれだけホルダーが反戦を叫ぼうと、ブレイズが燃え盛ろうと死んでいようと、そんなことは結局、ちいさな街のちいさな出来事でしかなく、世界を巻き込む大戦の大勢に影響を与えることはなかった。大戦の影は着実に近づき、わたしたちの家族は別の国に住む叔父をたよって、街を出ることになった。
街を出るとき、丘のところでホルダーを見かけた。わたしは荷物を置き、丘のうえまであがってホルダーに声を掛けた。
「街を出ることになったの」
わたしが言うと、ホルダーはただ一言「そう」と、返事をした。遠くを見つめたまま、やっぱり淡く微笑んでいた。頬のあたりから首筋まで、皮膚が焼けただれて赤黒く変色していた。
「痕が残ってしまったのね」
「いいさ」言って、ホルダーがこちらに視線を向けた。「これだって、彼女が残してくれたものだ。君にはただの醜いケロイドにしか見えないかもしれないけどね。僕にとっては大事なものなんだ。失いたくない」
「そう」
もうそれ以上、彼にかける言葉はなにひとつ思い浮かばなかった。だから「それじゃあ」とだけ声を掛けて、わたしはふたたび丘を下った。
それから、わたしは海を渡って別の国で暮らし、そこで主人と出会い結婚して、子供もふたり生まれた。幸いなことに、子供たちはどちらも今のところ燃え上がってはいないし、ばしゃばしゃしてもいない。
だからわたしは、もしも自分の子供が炎だったら、思うさまに燃え上がらせてあげたほうがいいのか、それとも、どうにかして普通の子として生きたほうがいいのか、といった問題については、結局のところ深く考えたことはない。幸運だったのだ。
そして、わたしはそれでよかった。
いまいちど、考えてみる。
燃えているほうがいい、なんていうことは、たぶんない。それは確実なことだ。誰だって、なんだって、燃えないにこしたことはないのだから。
だけど、テレビの画面に映る、雨に濡れた濃い灰色のかつての故郷はどうにも、わたしの記憶にある赤く燃える街よりも、じめじめとした陰気な印象に見えた。
でも、そんなことを考えていたのもワイシャツにアイロンを掛けおわるまでのことで、結局どんな結論も下さないまま、次にわたしは夕食の準備にとりかかった。
もうすぐ、子供たちが帰ってくる。
手をとりあって 大澤めぐみ @kinky12x08
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