運命の釣り糸で


 耳元で波が弾ける音がして、目が覚めた。

 眩しくて細めた瞼の隙間から、青い夏の空が覗く。全身が磯臭いのは、あぁ……そういえば、俺は大物に引っ張られて海に――。


「目が覚めましたのね。ごきげんよう、わかめ頭の音楽家さん」


 ふと、瑞々しい果実を思わす明るい女の子の声が聞こえた気がした。潮騒のなかでもはっきりと聞き取れる、気持ちのいい声だ。色で言えば……オレンジ。

 状況からしてこの女の子が溺れた俺を見つけた、あるいは助けてくれたのだろう。

 自慢の素敵パーマをイジられたのは気に食わないが、ここはお礼を述べるべきだろうと上体を起こして周囲を見渡す。場所はさっきの玉手堤防だけど……。


「ん……どこだ」


 海風の吹きつける堤防の上には誰の姿もない。見えるのは俺の荷物と干乾びた海藻くらいだ。

 なんだ、聞き間違いだったのか? それにしては随分はっきりと聞こえたけれど。


「あら、私をお探しですの? 下ですわ、下――地面じゃないですわっ。あの土臭い地底人と間違えられるのは勘に触りますの」


 と、トゲのある声がしたあと、海の方に向けていた背中がくいっと引っ張られた。何事かと振り返って、俺ははっと息を呑んだ。

 海面からひょっこりと女の子の頭が出ていた。美しい金色の髪が宝石箱を広げたみたいにきらきらと海面を漂っている。

 そんな金色の海の下には、ゆらゆらと揺れる鱗の尾ひれ。そして尾ひれは、

 その姿は絵本で見たままの、人魚そのものだった。

 

 ……これは今際のきわの走馬灯なのだろうか。

 それにしては随分とファンタジーな気がするけれど、まぁ、人魚に看取られるってのも悪くは――。


「ウミウシみたいに青い顔なんかして、どうなさったのです? わたくし急いでますの。早く新曲の打ち合わせをしたいのですけれど」


 金髪の人魚は華奢な手首に巻かれた時計をこつこつと指して言った。夏のこたつ、冬の水着と並んでなんとも噛み合わせの悪い光景だった。


 「いったい何が起こっているのでしょうか」脳内アナウンサーがスタジオで困惑の表情を浮かべながらカンペを読んでいる。

 「釣りをしていたら人魚に出会った」

 ……誤報じゃないですかね、それは。SNSの記事をそのまま持ってきちゃあダメよ。


「あの、聞いてまして? もし?」


 海の中から手を振られる。

 手を振り返すべきか、いやまずここは一分で自己紹介を……ええと、C大学文学部の――。

 その時、ピコリンとポケットから人工的な着信音が響いた。

 その音に引っ張られて、ようやくまともな思考カンペが俺の頭に帰ってきた。

 「現場からの中継です」画面に波間から頭を出した少女が映し出される。


「えぇと、俺のことですか?」

「あなた以外いないでしょう? 私は竜宮城次期女将の音姫おとひめですわ。あなたに竜宮城で流す曲を作曲していただきたいのですけれど。お代は新鮮な海産物一年分で」


 トイレに居そうな名前の人魚は、立て板に激流を流すような勢いで自己紹介と依頼とツッコミどころを寄越してきた。自信ありげににんまりと口角を上げたその表情は、拒絶されることを想定していないと見える。

 

「その、新鮮な海産物一年分は三六三日分を残して腐ってしまうというか……いやそうではなく、作曲? 俺が?」


 人魚――音姫は鷹揚おうように頷く。魚に鷹とは、これまた不似合いな例えになってしまったが。


「えぇ。以前、ここの浜辺であなたの演奏を聴きましたの。素晴らしい音楽でしたわっ。それで今回スカウトしましたの。質問がありまして?」


 確かに一度ここの海水浴場で演奏したことはあるけれど……それを人魚が聴いていて、作曲依頼をしにきたということらしい。

 浦安以外にも夢の国はあったんだなぁ。

 ……そんなくだらない感想はともかく。

 俺の答えはハナから決まっていた。


「……い,いやその、俺音楽辞めたんですよ。就職するから髪も黒染めして……だから、その、すんません。わざわざ海から来てくださったのに」

 

 俺は音姫に頭を下げた。音姫の方が低い位置にいるので、百度くらい角度をつけて謝罪した。

 音楽はもうやらない。俺の望んだ音楽は、最初から手の届かない場所にあったから、諦めた。

 俺の中の音楽はこの一年で、表現の手段から就活のネタになり下がったのだ。それを今更どうしろと。

 

 音姫は口角を上げたまま固まっていた。申し訳ないけど、お帰りいただくしかない。あぁ、でも――。


「そうだ、代わりに他の奴紹介しますよ。登録者数十万人超えてるくらいには有名だし、良い曲作りますよ。だから――」


 ――俺を逃がしてください。

 そう言いかけた時、音姫がばしゃんと海面を叩いた。


「断るのを断りますわ~っ! わたくしはあなたを釣ったんですの! 絶対に逃がしませんわっ」


 むっと眉を寄せて凄む音姫。目鼻立ちが整っているせいで怖くはないのだけれど、迫力はあった。

 しかし俺の立場は譲れない。


「そう言われても、俺はもう曲作れないんで。今度そいつ誘ってここくるんでその時に。それじゃ、また……」

 

 俺は言い切って、釣り竿の分軽くなった荷物を背負って港の方に一歩踏み出す。

 一歩、また一歩と歩みを進めて、進めて……あ、あれ。一向に陸が近づいてこないぞ?

 よく観察してみると、一歩分進んだところで一歩分後ろに引っ張られていた。人生初のランニングマン。いったいなぜこんなことに。


「行かせませんわ~っ! わたくしはあなたを釣ったのです! この釣り糸とあなたの背中に刺さった釣り針が証拠ですわ~!」


 音姫の方を見ると、その指先から細い糸が伸びているのが分かった。その糸を辿っていくと、それは俺の方に伸びていて――。


「うぉわ!? は、針が背中に、背中に刺さってる!?」


 釣り針らしきものが、背中――というか頸椎の辺りにぶっ刺さっていた。痛みはないけど、外れる気もしない。これで引っ張られていたのか!

 冷汗が止まらない俺を見て、音姫は手を口元に沿えて高笑いをした。


「おほほほほっ! これは人魚が一生に一度使える必殺技! 私とあなたを結ぶ赤い糸ならぬ釣り糸なのですわっ!! さぁ、曲を作るのです! 竜宮城経営改善のために!」

「経営改善のために必殺技使うのはアンタくらいだろうなっ!」


 かくして俺は、人魚に脅され曲を作ることになった。

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乙姫音頭をあなたといっしょに 麺田 トマト @tomato-menda

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