乙姫音頭をあなたといっしょに

麺田 トマト

人生最後の夏休み

 湘南の海は磯臭くってかなわない。

 薄汚れた海水が、お天道様の熱でむわっと蒸発して香る海の匂いは、どちらかというと“ニオイ”って感じで、海の汗を嗅いでいる気分になる。いやまぁ、日焼けで黒光りするサーファーの汗が混じっているだろうことを考えるとこの比喩はあながち間違いでも――って気持ち悪いなぁ。考えるんじゃなかった。

 テトラポッドの上に座って釣り竿を構えること三時間。

 氷の詰まった箱の中には、劇毒でも含んでいそうな真っ青なワタリガニと、栄養にもならなそうなほど小ぶりなイワシが二匹だけ。

 もうだいぶ日が昇ってきたし、早起きのせいでいい加減眠い。ここらで終いにしようかとクールボックスの蓋を取る。

 一応こいつらが俺の昼飯兼夕飯になる予定なんだけど、イワシはともかく、カニの方はいかにもヤバめな感じ。こいつの調理方法はクックパッドには無さそうなので、近くにいたおじさんに、

 

「……すいません。このカニ食べられますかね」


 と聞いてみる。

 おじさんは箱の中をじろりと覗くと、「食べる気になんのが不思議だな、ガハハ」なんて皺をくちゃくちゃにして言った。


「なら出汁だしにはなりますかね」


 と返すと、おじさんは可哀そうなものを見るような目で俺を見て、それきり目を合わせてくれなくなった。おじさんの箱の中にはイワシがたくさんと、美味そうなアジが三匹。

 ……俺の方が長くいたのに。世の中不公平だ。


 世の中、結局運が全てだ。

 どれだけ良いものをつくろうと、運がなければ人の耳に留まらず、名曲めいぶつになることは決してない。

 努力は報われない。

 それはテトラポッドに押し寄せる波にように、いずれはバラバラになって、平らになる。まるで何もしなかったかのように。


 なんだか悔しくなった。

 せめて自分の食う飯くらいは、努力が報われたっていいだろう。

 俺は釣り道具を肩にげ、以前から気になっていた、とある堤防に向かった。

 

 そこは『玉手たまて堤防』という。

 玉手堤防はいわゆる、いわくつき、の場所だった。ここで何人もの釣り人が行方不明になっているらしい。

 ――それも今日のような波の穏やかな日に、だ。

 それ故、誰も寄り付かなくなってしまったという。

 そんな場所にこそ、今晩のおかずが泳いでいるに違いない。

 俺はこの世の理不尽に抗うロック魂を燃やし、まっすぐ海へと伸びた堤防に足を踏み入れる。ちなみに、ロック魂の別名は食欲というらしい。

 吹き付ける生ぬるい風に乗って、堤防打ち付ける波の音が聞こえる。かつては自然の音楽だと感じたこともあったけれど、今ではただの環境音にしか聞こえない。

 俺の耳は腐り落ちてしまったのだろう。ピアスを通した痛みでさえ、今はもう思い出せない。


 そんなくだらないことで心に波紋をつくりながら釣り竿を振るう。カシャ―と鋭い音を立ててリールが回り、針が落ちる。

 そして、待つ。

 差すような日差しを全身に受け、噴き出る汗をぬぐって時折竿を上下させたりリールを巻いたりして、待つ。

 祈るように、待つ。

 ――どうか、ヒットしますように。

 何度も裏切られた祈りの言葉を吐く。

 誰にも届くことがないと思っていた、その祈りは――


「――っ!」


 ふと、誰かに手を掴まれたような気がした。

 プールの水に手を付けたようなひんやりとした感触に、全身がぶるりと震える。

 何事かと慌てて釣り竿を見ると、竿の先端が海面に触れてしまいそうなほどたわんでいる。

 

 ――ヒットだ。


 そう自覚した瞬間、ものすごい力で海に引っ張られた。まるで逃げ去る車を引っ張っているような気分だ。出力が違う。生きようとする力が違う。

 ざりざり、と音を立てて靴が滑る。体が海へ海へと引きずり込まれる。

 死ぬ。死んでしまう。

 今が二十二年の人生の中で一番、地獄に近いと思った。

 心臓が痛いくらいに拍動して全身の筋肉に酸素を送る。歯を食いしばって、全体重をかけて竿を引っ張る。背中が地面に着いてしまいそうなのに、それでもまだ海が近づいてくる。

 大人しく竿を離せば、これ以上苦しい思いをしないでいいと分かっていた。この竿の値段はよく覚えているけれど、命以上に高いものはないと教わってきただろう。


 賢くなれよ、とスーツ姿の俺が言う。

 ギターテレキャスターを担いだ俺は黙って頷いた。


 俺は、熱くなった竿から指を離す。生死の間際で本能が見せるコマ送りになった世界で、解放された竿がゆっくりと手のひらを滑って海に発射されていく。

 竿が手から離れていく様子をぼうっと眺める。釣り針には何がかかっていたんだろう。俺は、一体何を手放したんだろう。

 

 これから俺は、何を失ったかも不明なまま、喪失したことさえも喪失し忘れて生きていくのだろうか。

 そう考えると、もう、耐えきれそうになかった。


 竿が宙を舞う。

 空は海のように青く、白い雲が波のように流れる。

 

 手が届かないものを諦めるのはいい。

 ――でも、この手に握ったものを手放して生きていくのは、もうイヤだ。

 たとえ誰かがぶら下げたエサだと分かっていても、俺は、美味いもん前にしてそっぽ向くようなお利口な生き方はしたくないと思った。あるいは、ずっと思っていたのかもしれない。

 それを表現する機会を喪失していただけで。


 ――だから、俺は地面から跳ねた。

 一本釣りのマグロのように落ち着きなく節操なく、空飛ぶ釣り竿を目掛けて跳んで、。俺はエサに釣られた魚だった。

 もはや俺を支えるものはなく、全体重を歯列に託し、両足をヒレにして宙を泳ぐ。

 そんな空中遊泳もつかの間、竿は海面に向かってぐぐっと加速し始める。急激に海面が近づいてくる。入射角九十度の直角ダイブ。竿を噛んでいるものだから、当然顔面からの入水になるだろう。

 覚悟を決めて目をつぶろうとした、その直前――限界まで近づいた海面の奥に、きらりと光る何かを見た。太陽の光を浴びて、七色に煌めく鱗とヒレ。それはまるで人魚の尾ひれのようで、そんなバカなと視線を獲物の上半身の方に泳がせる。


 ……見間違いかと思った。

 そいつは、くっきり二重瞼ふたえまぶたの大きな目で、海の中から俺を見ていた。

 まるで、大物を釣り上げた漁師のように、ご機嫌そうにはにかんで。

 

 直後、俺は海面に激突した。


「――ついに見つけましたわっ。

 貴方が、我が竜宮城の救世主ですのね!」

 

 

 

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