見下ろす目

待居 折

友人の独白

「今思うとさ、初めから少し違和感はあったんだ。上手くは言えないんだけど」


 そう前置きしたあいつは、運ばれてきたコーヒーを一口飲むと話し始めた。




 ほら、こないだ俺、大学の近くに越しただろ?…いやいや、引っ越しの手伝いの件は良いよ。お前ゼミだったんだし、気にしなくて。


 そもそもなんで引っ越そうって話、した事あったかどうか覚えてないんだけどさ…知っての通り、俺、朝が致命的に弱いんだよ。前のアパート、チャリで十五分もかかってたから、午前の講義に間に合わないって事が多くてさ。

 単純に、近くに住んだらなんとかなるだろう…って、ちょっと前から探してたんだ。

 そしたら、「大学のすぐ裏手のアパートに空き部屋がある」って先輩から聞いてさ。

 言われた不動産に見に行ってみたら、なかなか良いんだよ。8畳の1Kでロフトまであって、日当たりは良いし、すぐそこにコンビニあるし。

 何より、民家の間にある石段上ったらすぐ大学なんだよ。徒歩2分は最高の立地過ぎるだろと思って、即契約したよ。



 …引っ越した初日は、ロフトまで布団持って上がるのがめんどくさくて、下に布団敷いて寝ようとしたんだけど、なかなか寝付けなくてさ。

 その時は、枕が変わって眠れないんだと思ってた。


 でも、2日目の夜に寝付けない理由が分かった。どこからかは分かんないんだけど、じぃっと見つめてくる、誰かの視線を感じるんだ。

 3日目に、その視線が上からだって気付いた時は声が出たね。


 …そう、正体が分かったんだ。ロフトの上から、女の顔が俺を見てたんだよ。

 長い黒髪が柵の間から垂れ下がってて…鼻から上しか見えなかったけど、血走った眼でこっちをじっと見下ろしてた。

 もう怖くて怖くてさ…部屋を飛び出して、友達のとこに転がり込んだんだ。



 次の日、そいつに叩き起こされて授業に出たんだよ。


 大学に行ってみたら昼間だって事もあって、怖さもすっかりなくなって落ち着いててさ。割と前の方に座って、友達と無駄話しながら、なんとなく講義室を見回した時、自分でも驚くほど大きな悲鳴を上げたよ。


 後ろにある長机の上から俺を見下ろしてたんだ、あの女の顔が。


 そして、みんながきょとんとした顔をしてるのを見て、あ、これは俺にしか見えないんだなって気付いた。

 なにより、女の顔があるはずの机には、普通にノートを広げた学生が座ってたし。



 その日から、鼻から上しか見えない女の顔は、いたるところで俺を見下ろす様になった。


 ゼミの先輩の家なら、本棚の上。バイト先の居酒屋だと、客席のテレビの上。コンビニだったら、レジ裏の棚の上。

 俺がどこで何をしてても、俺より高い場所から、じっと見下ろすんだ。


 勿論、初めは震え上がってたよ。だけどさ、いつまで経っても実害がないんだ、見下ろしてくるだけ。

 そりゃ、何もないに越したこたないんだよ。ないんだけど、何もしてこないなら、普通に暮らしてても構わないだろ?毎日見下ろされてるうちに、変に慣れてきちゃってさ。

 その顔を見つけてからひと月ぐらいで、もう何とも思わなくなってたんだ。…いや、そういうもんなんだって。お前もこの状況になったら分かるから。



 で、視線に慣れてくるとさ、今度はずっと引っかかってたもやもやが気になった。


 視線を送ってくる女の顔は、いつだって鼻から上しか見れないんだよ。


 例えば、さっき言ってた先輩の家。本棚の上から座ってる俺を見下ろしてたんだけど、立ち上がってみるともういない。

 バイト先もそう。テレビにほど近い席に配膳した時に視線を感じて、見上げるとこっちを見下ろしてるんだけど、テレビから遠い席なんかに行った時には、もう見えない。


 どういう状況でも、その口元を見る事が出来ないんだ。


 一度気になり始めたら、もうどうしようもなくなってさ。なんとかして見てやろうって思って、急に近づいたりもしてみたんだけど、その度にきれいさっぱりいなくなるんだ。これ、結構なストレスでさ。

 …まぁ…お前が言う通り、ちょっと普通じゃなかったのかもしれないけど、自分をずっと怖がらせてくる存在に、ちょっとでも仕返ししたい…みたいな気持ちもあったのかもしれない。



 …で、昨日だよ。


 目が覚めたら、いつもの様にいつもの顔が、ロフトから俺を見下ろしてた。


 夢見が良くなかったのもあって、その視線に、なんだか凄く腹が立ったんだよ。

 だから大股で梯子に近づいて、何段も飛ばしてロフトに上がってやった。で、ようやく鼻から下を見る事が出来たんだ。


 …今はさ、凄く後悔してる。後悔してるし、怖くてしょうがないんだ。


 ロフトにポンって置かれたみたいに、女の頭だけがそこにあった。口元は、なんて言えば良いのかな…普通だったよ。


 それぐらいじゃ、もう驚いたりはしなかった。


 …たださ、その口が動いてるんだ、ずっと。

 小声でぼそぼそ繰り返してるんだ。


おまえはあしたしぬ

おまえはあしたしぬ

おまえはあしたしぬ

おまえはあしたしぬ


 って。


 なぁ、今日泊めてくれよ。こうしてる今も、あいつはお前の後ろにある天井扇から、ずっとこっち見下ろしてんだよ。

 流石に今日一人は無理だよ…頼むよ、なぁ。




 申し出を了承した僕の手を強く握り、あいつは半泣きで感謝を口にし続けた。

 そして喫茶店を出たところで、暴走してきた車に撥ねられて死んだ。


 僕は幸いにも無事だったが、救急車の音にふと顔を見上げると、信号機に、長い黒髪を垂らした女の鼻から上が見えた。



 その日から、もう8年余り。


「パパー、いってらっしゃーい」


 小さな娘を抱きながら、2階のベランダから妻が手を振っている。あの女の顔も、妻の隣から、相変わらず僕を血走った目で見下ろす。


 その視線に長い間見つめられ続け、僕はいよいよおかしくなってきたのだろうか。どうなるのか、結論だって分かりきっている。


 それなのに、僕はあの顔の口元を見たい衝動を、毎日、必死に抑えている。

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