首吊り山
月浦影ノ介
首吊り山
それは私が二十八歳で結婚して、二つ下の妻の実家に婿入りしてから、三年目の秋のことでした。
前年には待望の第一子である長女も生まれ、妻の両親との関係も良好で、地元の方たちにも親切にして頂き、まずまず申し分のない生活だったと思います。
私は地域の消防団に所属しているのですが、確か九月下旬頃だったと記憶しています。地元に住む男性が行方不明になり、その捜索のために、我々消防団に出動要請が掛かったのです。
男性の年齢は四十代前半。前日の夕方五時頃、家族に「ちょっと出掛けて来る」と言い残し、そのまま帰って来ないのだそうです。
たまたま男性を目撃した人の話によると、地元の山にふらふらと入って行ったらしく、時刻は夕方五時半ぐらいだったと言います。
男性がそんな遅くに何のために山に入ったのか分かりませんが、おそらくはそのまま遭難したものと見て、捜索を行うことになったのでした。
その山は「
標高百五十メートルほどの低山ですが、南北朝時代にはお城があったそうで、その頃に作られた登山道が今でも使われています。山の麓には小さな神社があり、年に何回か地元の人たちが集まって、祭事が行われていました。
正直に言うと、私はこの山にあまり良い印象を持っていませんでした。それは私がこの町に移り住んですぐの頃に体験した、ある出来事が理由なのですが、しかしそれは後で記すことにして、まずは話を進めましょう。
捜索が始まってすぐ、呆気ないほど簡単に男性は見つかりました。山の中腹辺りに昔の城跡があるのですが、そこの杉の木にロープをくくりつけ、首を吊って死んでいたのです。
私は運悪く、その光景を見てしまいました。そして無意識のうちに「ああ・・・・まただ」と呟いていました。
というのも私がこの町の消防団に所属してすぐの頃、同じように地元の男性が一人、久美木山で行方不明になり、警察と消防団による捜索が行われたのですが、やはり首吊り死体となって発見されたことがあったからです。
そのときも私は、現場で首吊り死体を見てしまいました。風の強い日で、太い木の枝にロープでぶら下がり、振り子のように死体が揺れる様はひどく陰惨で、何かとても冒涜的であるようにさえ思えました。
男性は婿養子として奥さんの実家で暮らしていたのですが、普段から家族と折り合いが悪く、口論の末に飛び出して山で首を吊って自殺したという話で、それは同じく婿養子として、妻の実家で暮らし始めたばかりの私にとって他人事とは思えず、なおさら強い印象として記憶に刻まれているのです。
そして今回、久美木山で首を吊って自殺した男性も、やはり婿養子だったそうで、白い布を被せられ担架で運ばれて行く亡骸を見送りながら、私はその奇妙な偶然の一致に、何か不気味なものを感じずにはいられませんでした。
残念な結果とはいえ捜索が終了し、私たち団員は消防小屋へ戻りました。装備を片付け、二階の休憩室に皆で集まって簡単な慰労会をして解散です。その席上、ある団員がこんなことを口にしました。
「・・・・やっぱりあそこは“首吊り山”だな」
皆が一斉に発言主に顔を向けました。発言したのは野崎さんという四十代前半の男性で、酒癖が悪いのが偶に傷ですが、普段は陽気で冗談好きな面白い人です。
場の空気が一瞬静まり返ったのに気付き、野崎さんは気まずそうな顔をしました。
「あの・・・・なんですか? “首吊り山”って」
場の空気を余計に悪くさせるかも知れませんでしたが、“首吊り山”というあまりに不穏な名称に、私はそう質問せずにいられませんでした。
野崎さんは困ったように周囲を見回しましたが、誰も何も言わなかったため、私に向き直ってこう教えてくれました。
「・・・・あの山は昔から、何故か首吊り自殺が多いんだよ。俺が子供の頃から知ってるだけで、毎年数人は必ず首吊りがある。それで付いた
「へえ・・・・あの山にそんな謂われがあるとは知りませんでした」
「俺もそんなに詳しく知ってる訳じゃないんだけどね。なんせだいぶ昔の話だし」
驚く私に、野崎さんはそう言って誤魔化すように笑いました。
「二人とも、その話はまぁその辺で・・・・」
確かに自殺の名所など、町にとっては不名誉なことで、地元の人々がその話を忌避するのも当然でしょう。私は場の空気を察して、それ以上は尋ねませんでした。
その後、皆それぞれ適当な雑談になり、頃合いを見て解散となったのですが、“首吊り山”という不気味な名称は忘れがたく、私の脳裏に深く刻み込まれたのでした。
「最近、変な夢ばかり見るのよねぇ・・・・」
お昼の休憩室で私にそう話し掛けて来たのは、七歳年長の飛田さんという女性でした。
実は私は、地元に誘致された、とあるお菓子メーカーの工場で働いているのですが、飛田さんはその職場の先輩でした。余所の県からこの町に嫁いで来た、小学生の二人の男の子を持つお母さんです。
それは前述した、“首吊り山”こと久美木山で、奥さんの実家に婿養子に入った男性が首吊り自殺を遂げてから、半年ほど経った春先のことでした。
「変な夢って何ですか?」
私がそう尋ねると、飛田さんは「それがねぇ・・・・」と顔を曇らせました。
「このところ、首を吊る夢ばかり見るのよ」
「・・・・首吊りですか」
“首吊り”という言葉を聞いた瞬間、私は心臓を何か冷たいもので撫でられたような気がしました。
「具体的に、どんな夢なんですか?」
「そうねぇ・・・・。だいたいのシチュエーションはいつも同じなんだけど、深い霧の中を一人で彷徨っていて、途中で見つけた木の枝を眺めるのよ。ああ、この枝振りはロープを掛けるのに丁度良いなぁ、なんて思いながら。それから踏み台や脚立もないのにどうやったのか、高いところにある木の枝にロープを掛けて、丸い輪っかに首を通すの」
その日は暖かい陽気にも関わらず、飛田さんは寒さに震えるように自分の左の二の腕をさすりました。
「前にも似たような夢は見たことあったんだけど、最近は頻繁に同じ夢ばかり見るの。何か心の病気かしらね」
口調は冗談めかして軽いものの、その声にはどこか不安が滲み出ているようでした。
飛田さんは普段、決して弱音や愚痴を吐くような人ではありません。真面目なしっかり者で面倒見も良く、工場から新人の教育係を任されています。失礼な言い方かも知れませんが、少し太めの体型も合わさって「肝っ玉母さん」という呼び名がピッタリな人でした。
その飛田さんが、どうにも不可解な夢に頭を悩ませ、後輩である私に不安を吐露している。それだけで何か異常な事態だと認識せざるを得ませんでした。
「何か原因とか心当たりはないんですか?」
「まぁ、あると言えばあるんだけどねぇ・・・・」
少し迷うように沈黙を挟んで、飛田さんはこう切り出しました。
「でも、もう十年以上前の話よ。この町に嫁いで来たばかりの頃、ご近所で親しくしてた人がいたんだけど、その人はそれからすぐ亡くなってしまって」
「ご病気か何かだったんですか?」
飛田さんは頭を横に振ります。
「それが・・・・首吊り自殺だったの」
飛田さんの話によると、亡くなったのは近所に住む六十代のご婦人ということでした。
それまで東京で生活していたのですが、旦那さんがこの町の出身で、定年退職したのを機に、今では空き家になった実家に越して来たのでした。引っ越しの理由は、旦那さんが最近になって肺を患ったため、空気の良い田舎で生活することを希望し、それに奥さんも同意したからです。
傍目にも夫婦仲は悪くなく、ご近所付き合いも良好だったといいます。それがあるとき突然、旦那さんを置いて自殺してしまった。遺書もなく、まさに青天の霹靂でした。
「・・・・その奥さんは、どこで亡くなられたんですか?」
私は自分の声が微かに震えるのを自覚しました。どうしてもあの“首吊り山”を連想せざるを得なかったからです。
「この町の北側に久美木山ってあるでしょ。その山の中で亡くなってたの」
私は、氷の刃で胸を刺されたような気分になりました。
「木の枝にロープを引っ掛けて、首を吊った姿で発見されたの。見付けたのは、たまたま朝早く山菜採りに訪れた人だった。その前日、買い物に行くと言って家を出たきり帰らなかったらしくて。旦那さんが警察に通報して、話を聞いた近所の人たちも総出で探したんだけどね・・・・」
何かに悩んでいる様子もなく、普段から親しくしていただけに精神的ショックは大きかったと、飛田さんは話しました。
「お葬式にも出席したけど、最後は旦那さんが棺に取り縋って泣き始めてね。しばらくはその光景が頭から離れなかった。でもあれから十年以上経つのに、最近になって何故かそのときのことを頻繁に思い出すの」
それから間もなく、飛田さんは自分自身が首を吊る夢を繰り返し見るようになったのでした。そのときに受けた心の傷が、今になって蘇って来たのでしょうか。
「カウンセリングとか受けてみたらどうですか?」
私は飛田さんにそう薦めましたが、彼女は「そうね。考えてみるわ」と曖昧に笑うだけでした。
飛田さんが亡くなったのは、それから二週間後のことです。死因は首吊り自殺によるもので、遺書はなく、動機も家族ですらまるで分からないという話でした。
そして現場は・・・・やはり、あの“首吊り山”だったのです。
飛田さんの葬儀のあとぐらいでしょうか。
これまで久美木山で首吊り自殺を遂げた人たちの間に、一つの共通点があることに私は気付きました。
三年前に久美木山で
全員が「この町の外側」からやって来た人たちばかりです。つまりは「よそ者」なのです。
もちろん、単なる偶然と言えばそれまででしょう。そして共通点に気付いたからといって、その事実が一体何を意味するのか、私には皆目見当も付きません。
しかし、それはまるで澱のように、私の胸の奥に、なんとも言えない黒々とした不安を残したのです。
───何故なら私自身が、この町の外側からやって来た、まさに「よそ者」なのですから。
飛田さんの死から半年ほど経った、十月上旬のことでした。
その日は日曜でしたが、私は朝早くから、久美木山の麓にある神社で、祭事の準備に追われていました。
その神社では年に四回ほど、神主と氏子たちが揃って祭事が行われます。その中心となって祭事の準備をするのが、いわゆる「世話人」と呼ばれる人たちです。これは各地区ごとに四名が回り番で担当し、任期は二年間です。
今回は私の住む地区が担当で、義父が去年から世話人に選ばれていたのですが、あいにく腰の調子を悪くしてしまい、今回は私が代理として参加することになったのでした。
それは奇妙な神社でした。
鳥居も拝殿の壁や屋根も、賽銭箱も、全てが黒いのです。
別に黒塗りの神社なら全国に幾つもあるでしょう。私も何度か見たことがあります。
しかしその神社は何というか・・・・言葉を選ばずに言うなら、ひどく禍々しいのです。
初めて境内に入ったとき、私は「ああ、嫌だな」と感じました。久美木山の麓にあって、周囲を黒々とした樹木に囲まれ、陽の光は遮られ、常に湿った闇が辺りを覆い隠しています。
私は霊感などというものに縁はなく、オカルトの類もあまり好きではありません。どちらかといえば、現実的に物を考える人間であると思っています。しかしその私でさえ、この神社には近寄り難いような、何か負の感情を刺激される嫌な気配を感じ取ってしまったのでした。
神社の名前を「久美木神社」と云います。地元の人々は「クビキ様」などと呼ぶことが多いようです。
私は宗教にあまり関心がないので、御神体は何を祀っているのか知りません。おそらく土着の神様か何かなのでしょう。
しかし「首吊り山」と呼ばれる、人が毎年のように縊死する山の麓にひっそりと佇むそれは、神様というより人の命を喰らう魔物めいた存在のように思えてなりませんでした。
祭事の準備に集まったのは、手伝いの氏子さんを含めて十人ぐらいでした。拝殿の格子戸を外して中の埃を払い、畳を雑巾がけします。もちろん境内も草を刈り、綺麗に掃き清めます。
祭壇に海のものや山のもの、米や日本酒などを供え、人数分の座布団を用意し、参拝する氏子さんたちに配る紅白餅を手配するなど、やることは意外に多く忙しいのでした。
全国的に押し寄せる少子高齢化の波はこの田舎町も例外ではなく、私以外は皆さん父親と同世代の人ばかりで、三十代の私が最年少です。そのため何かと御用を言い付けられるのですが、初めてのことに戸惑いつつも先輩方の指示に従い、なんとか一応の準備は整いました。
祭事は夕方になってからです。一度解散し、夕方四時頃、再び神社に集まりました。神主はまだ到着していません。
特にやることもないので、拝殿に上がって隅の方に座っていると、ふとあるものが目に止まりました。
写真です。縦長の黒い額縁に入れられた写真が、天井近くの壁に飾られているのですが、それを見た瞬間、私は思わず背筋がゾクリとしました。
何故なら、そこに写っているものがあまりにも異様だったからです。
───それは、生首でした。
天頂部は禿げ上がり、耳周りから後頭部にかけて生えた長い髪がザンバラに垂れ下がっています。眉はなく、二つの大きな目玉がカッと見開かれ、瞳は赤み掛かった琥珀色、頬はげっそりと痩せこけ、肌は血の気を失った土色で、尖った鼻は天狗のように高く、口は炎を吐き出すかのように大きく開かれ、その奥に蛇のような赤い舌が見えました。
まず最初に浮かんだのが、昔の罪人の生首だろうか、ということでした。
しかし、そんな写真が神社に飾られているのもおかしな話です。私は隣に座っている松本さんに声を掛けました。近所に住む五十代の男性で、町役場に勤めている方です。
「・・・・すみません、あの写真って何ですか?」
「ああ、あれかい。この神社の神様だよ」
「・・・・神様、ですか?」
「そう、クビキ様だ」
「・・・・クビキ様。あれが」
驚いた様子の私を、松本さんは興味深そうに眺めました。
「もしかして本物の生首ですか?」
「まさか、木で出来た作り物だよ」
「・・・・そうですよね」
私の間抜けな反応に、松本さんはおかしそうに笑います。
「確か昭和の始め頃だったかな。神社の裏手に宝物庫っていう古い蔵があるだろ。そこで見つかったんだ。なんでも三百年以上前に作られたものらしい。一応、重要文化財ってことで、町の民俗資料館で保管されてるよ」
私は改めて、虚空を睨むような生首の写真をしげしげと眺めました。
「いったい何のために、神様の生首なんて作ったんでしょうね?」
「さあなぁ。誰か信心深い人がいて、職人に作らせるか自分で作るかして、奉納したのかもな」
私はこれを機会とばかり、ずっと疑問に思っていたことを、松本さんに尋ねてみました。
「ところで・・・・クビキ様って、いったいどんな神様なんですか?」
その問いに、松本さんは首を傾げます。
「さあ・・・・俺も詳しいことは知らんが、なんでも昔、この久美木山に棲んでいて、山に入り込んだ人間をとっ捕まえ、頭を引っこ抜いてバリバリ食べちまう、それはそれはおっかない神様だったんだと。子供の頃、遅くまで家に帰らず遊んでいると、クビキ様に
「───首を、引っこ抜く」
その昔、久美木山は「首引き山」と呼ばれ、それが訛って「クビキ山」になったという話を、私は思い出しました。
「それだけ聞くと、まるで妖怪みたいだよな。それがなんで神様として祀られるようになったのか、さっぱり分からんが」
「妖怪とは神様の零落した姿だと、以前何かの本で読んだことがあります。それなら逆もまたあり得るのかも知れません」
私がそう言うと、松本さんはうんうんと頷きました。
「一応、豊作の神様とも謂われてるから、単におっかないばかりじゃないんだろう。詳しい話が知りたかったら、あとで神主にでも訊いてみると良い」
「そうですね・・・・ありがとうございます」
礼を述べる私を、松本さんは少し怪訝そうに見つめ、それからこう言いました。
「薄気味悪いだろうが、変な神様を祀ってる神社なんてどこにでもあるさ。それに神様って奴はこっちが失礼な真似をせず、ちゃんと祀っている限り、少なくとも祟られることはないから心配すんな」
どうやら表情を読んで、私が怖がっていると思ったようです。確かに、私は怖がっていたのかも知れません。それは例の首吊りのことが、どうしても脳裏に浮かんで仕方なかったからです。
「でもこの久美木山では、毎年のように人が死んでるんですよね。それも首吊りばかり。それで付いた仇名が“首吊り山”だって、前に教えて貰ったことがあります」
「・・・・“首吊り山”か。まぁ確かにそう呼ばれてるな。この山で首吊り自殺が多いのは事実だが、しかしそれは別に呪いでも祟りでもなく、単なる偶然だろう」
「・・・・偶然、ですか?」
納得の行かない様子の私に、少し困ったような表情を浮かべ、松本さんはこう答えました。
「考えてもみなよ。こんな田舎町、自殺しようと思っても、飛び込む線路もなければ高いビルもない。誰にも邪魔されずに死ぬなら、せいぜい山に入って首でも吊るしかなくなるさ」
「・・・・そうでしょうか?」
自殺する方法など他にいくらでもありそうなものですが、なぜ久美木山で首を吊らなければならないのか、その答えにはなっていないと思いました。
「山ってのは昔から日本人にとって、信仰の場所だって謂われてるだろ。死んだ人間の魂は山に帰る、とも信じられていたしな。それだけ山ってのは、死に近い場所でもあるんだよ。・・・・どうしても死にたいと思ってる奴が、どこか適当な死に場所はないかと辺りを探す。ふと見上げるとそこに山があって、ああ、あそこなら静かに死ねそうだと吸い寄せられるように山に向かう。そんな風になったとしても、別に不思議とは思わんけどな」
まぁ俺は死にたいと思ったことはないから分からんけどな。そう言って、松本さんは声を上げて笑いました。
そうこうするうちに神主が到着し、それでこの話はお終いになりました。
祭事はつつがなく行われ、そのあと神主も交えて軽い慰労会のようなものが始まったのですが、私はなんだかこれ以上知るのが怖い気がして、神主に「クビキ様」のことは尋ねませんでした。
背後で山の木々がザワザワと騒いでいます。いつの間にか陽が落ちて拝殿に明かりが灯り、壁に掛けられた写真の中の「クビキ様」の生首が、そこに集う我々をただじっと見下ろしているのでした。
それからひと月ほど経った頃のことです。私は高校時代の友人の結婚式に出席するため、久しぶりに故郷へ戻りました。
その式場で再会したのが、井上さんという一つ上の先輩で、新郎である友人共々、バスケ部で大変お世話になった人です。
二次会の居酒屋で隣り合った井上さんと私は、それぞれの近況を報告し合いました。井上さんは現在ではフリーのライターとして、東京を活動の中心に、様々な雑誌に記事を寄稿しているとのことでした。
昨今、実話怪談が密かなブームになっているらしく、ここ三年ほどは怪談関係の取材をメインにするようになったそうです。
話の流れで「何か怖い話を知らないか?」と訊かれたので、例の「首吊り山」と“クビキ様”という神様の話をしたところ、それは面白そうだと井上さんは興味を示しました。
「そういう民俗系の怪談は、実はけっこう人気があるんだ。今いくつか仕事を抱えてるから、それが落ち着いたら取材に行かせて貰うよ」
井上さんがそう言うと、私はふと嫌な予感に胸がざわつくのを覚えました。自分から話しておいてなんですが、本当は話さない方が良かったのではないかと思ったのです。
そしてこの予感は、のちに的中することになります。
それからさらに三ヶ月ほど経ったある日、携帯電話に着信がありました。先輩の井上さんからです。二次会の居酒屋で、互いに連絡先を交換していたのでした。
「遅い時間に済まないな。ちょっと良いか?」
夜の十一時ぐらいでしたが、義理の両親は夜寝るのが早く、妻と娘もすでに寝室に行っていたため、リビングにいるのは私一人です。落ち着いて話をするにはちょうど良いタイミングでした。
「お前から教えて貰った例の話なんだが・・・・」
そう言って、井上さんは話を切り出しました。
「調べてみると色々面白いことが分かったぞ。まず厚労省のサイトで市町村別に自殺の単純集計を調べたんだが、その地域ではお前の住んでる町だけ自殺が突出して多い。戦後だけでも三百人近くが死んでる。年齢や性別、職業、家族構成、未遂歴などは様々だが、場所は大多数が山で、しかも首吊りによるものがほとんどだ」
私は思わず息を飲みました。こんな小さな田舎町で、この自殺者の数はあまりに異常です。戦後だけで三百人近くもいるなら、戦前のそれと合わせたら、いったいどれだけの人数になるのか見当も付きません。
「自殺場所に関してだが、残念ながらデータには山と記されてるだけで、それが久美木山を指しているのかは不明だ。自殺者が町外の出身なのか否かも特定は難しいな。そして動機だが、病気や借金などの理由が多少あるものの、大部分が不詳・・・・つまり分からないってことだ」
動機不明の自殺。私は飛田さんやその親しくしていた婦人のことを思い出しました。彼女たちの自殺の動機もまた不明だったはずです。そんなにも多くの自殺者が、動機不明のまま命を絶っているという事実に、私は戦慄を覚えました。
「それから久美木山の元々の名称についてだが・・・・」
「ええ、確か昔は“首引き山”と呼ばれていて、それが訛ったものだとか」
「いや、それが違うんだ。“首引き山”こそが仇名で、本来の名称は“クビキ山”で間違いない。ただ、漢字が違う」
「そうなんですか。いったい、どんな字を書くんです?」
私の質問に少し間を置いてから、井上さんはこう答えました。
「・・・・
───
その漢字を頭に思い浮かべた瞬間、私は背筋がゾワリと寒くなるのを覚えました。
「久美木山が元々、“
久美木神社で見た写真の中の生首を、私は思い出しました。落ち武者のようなザンバラ髪に、カッと大きく見開かれた赤み掛かった琥珀色の目、痩せた土色の頬、高く尖った鼻、炎を吐き出さんばかりに開かれた口・・・・まさに異形です。あれこそ“鬼”に違いないと、私は今さらになって思うのでした。
「・・・・その鬼が、なんで神様になったんですかね?」
「さあな。俺なりの仮説はあるが・・・・まぁ、それは後にしよう」
それから・・・・と、井上さんは話を続けました。
「お前の住んでる地域な、そこも戦前までは“
「・・・・そうでしたか」
自分が住んでいるこの地域も、かつて“頸鬼”の名を冠していたという事実は、私の胸を少なからずざわつかせました。それは久美木山だけでなく、この地域全体が“クビキ様”のテリトリーであることを意味してはいないでしょうか。
「ところで井上さん、肝心の“クビキ様”についてですが、もう少し詳しく教えて貰えませんか?」
「いや、その地方の色々な伝承を調べてみたんだが、資料が少な過ぎていまいちよく分からん。ただ、昭和四十年代中頃、妖怪研究を主に行っていた民俗学者が、“クビキ様”について調べようと、現地を訪れたことがあったらしい」
「じゃあ、その人の著作に何か書かれているかも・・・・」
「いや、それが無理なんだ」
私が言い終える前に、溜め息混じりの井上さんの声が聞こえました。
「その学者さん、現地を訪れた直後に死んでるんだ。・・・・久美木山で首を吊ってな。遺書はなく、動機も分からん」
私は今度こそ絶句しました。そんな祟りのようなことが本当にあり得るのかと、信じられない思いです。
「“クビキ様”は、よっぽど自分を知られたくないんだな。なんとしても存在を隠そうとするような意志の強さを感じるよ」
井上さんが冗談めかして答えます。しかしその声音には、どこかある種の緊張感が感じられました。
「・・・・井上さん」
「なんだ?」
「こんなことを言うのはあまりにオカルトめいていて、現代人として抵抗を覚えるのですが・・・・久美木山で毎年のように亡くなる自殺者と“クビキ様”の間には、やはり何らかの因果関係があると思いますか?」
背中を嫌な汗が流れました。自分はもはや、“クビキ様”という神様だか妖怪だか分からないような存在を、ほとんど信じかけていたのです。
「・・・・ある。俺はこれを“
「贄・・・・ですか?」
「あくまで怪談ライターの妄想として聞いて欲しいんだが・・・・」
しばしの沈黙のあと、井上さんがそう話し出しました。
「いつの時代か分からないが、おそらく“頸鬼村”の住人と“クビキ様”の間で、なんらかの契約が行われたんだ」
「・・・・どういうことです?」
「頸鬼村は元々貧しい寒村だ。農作物の収穫が少なく、飢饉で村人の半数近くが死んだという記録もある」
「ええ、それは義理の両親から前に聞いたことがあります」
「───妖怪とは神の零落した姿、だったか。それなら逆もあり得るはずだよな。頸鬼山に潜む人喰い鬼に、村人はこう願った。これからは神様として祀り、贄を捧げる代わりに、どうかこの村を救ってほしいと。“クビキ様”が豊作の神とされているのも、そんなところに理由があるのかもしれん」
「・・・・首吊りの自殺者は、その代償ということですか?」
「そうだ。そして贄は村の外から連れて来る。入り嫁や入り婿、旅の商人や行者、その他諸々さ。そしてそれは現代においてもなお続いている・・・・」
「・・・・そんな」
私は目の前が暗くなるような気がしました。それなら町の外から婿養子として移り住んだ自分もまた、贄になり得るということです。
「・・・・そんなことが許されるんですか? この現代社会で生きた人間を贄にするなんて、人権侵害どころの騒ぎじゃない!」
「落ち着けよ。まだそうと決まった訳じゃない。あくまで怪談ライターの妄想だと言ったろ。仮に事実だとしても、記録すら残ってないような話なんだ。今の町の住人がそんなことを知ってる訳がないし、彼らには何の罪もない」
「・・・・ですが」
「分かってるよ。町の住人たちが忘れ去ったとしても、契約自体が消えた訳じゃない。“クビキ様”の方はしっかりと覚えてるさ。なんせ
私は言葉を失いました。確かに井上さんの言うことは仮説に過ぎません。しかし大勢の動機なき首吊り自殺者の存在が、その仮説を裏付けているように思えてなりませんでした。
「ところで、来週の日曜空いてるか? 実際にそっちへ行って取材しようと思うんだ。町を案内してくれると助かる。それと出来れば、久美木神社の神主にも話が聞きたい。すまないが連絡を取ってくれないか」
「ええ、それは構いませんが・・・・でも大丈夫なんですか?」
この町を訪れ“クビキ様”について調べようとした学者が、久美木山で首を吊って死んだという話が、どうしても頭に浮かびます。
「心配すんな。こう見えても半グレや中華系マフィアを相手に、ヤバい潜入取材をしたことだってあるんだぜ」
携帯電話の向こうでシュボッという音が聞こえました。おそらく煙草にライターで火を付けたのでしょう。ふう・・・・っと煙を吐き出す息遣いがしました。
「本当に怖いのは人間の方さ。そんな化け物相手に負けるかよ」
頼もしい言葉ですが、しかしやはり一抹の不安は拭えません。
「分かりました。ですが、くれぐれも気を付けてください」
それから日曜当日の待ち合わせ場所や時間を決めて、私たちは電話を切りました。
しかし次の日曜、井上さんは待ち合わせ場所に現れませんでした。携帯電話に掛けても繋がりません。
黒々とした不安が胸の中で渦を巻きました。都合が悪くて来られなくなったのなら、必ず連絡があるはずです。それが携帯も繋がらないのは明らかにおかしい。何か不測の事態が起こったに違いないと思いました。
───井上さんが久美木山で首吊り死体となって発見されたのは、その翌日のことでした。
警察の捜査によると、井上さんは約束の日曜ではなく、何故かその前日の土曜に、私の住む町に来ていたのでした。井上さんらしき人物を見たという複数の目撃証言があり、コンビニの防犯カメラにも井上さんと思われる姿が映っていました。
そして久美木山へと向かい、そこで木の枝にロープを掛け、首を吊って死んだのです。事件性を疑わせる要因が何もなかったため、警察はこれを自殺と断定しました。
しかし私に言わせれば、あの井上さんが自殺などするはずがないのです。
“クビキ様”にやられたのだ。“クビキ様”は自分の正体が暴かれることを、決して許さなかったのだ。私はそう確信しました。
井上さんの葬儀は東京の斎場で行われました。
彼には奥さんと四歳になる娘がいました。同じく幼い娘を持つ私にとって、それは胸を切り裂かれるように悲痛な思いがしました。
“首吊り山”や“クビキ様”のことなんて話すんじゃなかった。私は強く後悔しました。考えなしの自分の言動が、井上さんを死に追いやってしまったのです。
葬儀から帰る車の中で、私は「逃げよう」と決意しました。もはや一刻もあの町にいてはならない。何故なら、次の贄はこの私かも知れないのです。
自宅に帰ったら今夜のうちに手近な荷物だけまとめてしまおう。そして明日の朝早く、町を出るのです。妻や娘には申し訳ないと思いましたが、自分の命には代えられません。おそらく離婚することになるでしょうが、娘の養育費はきちんと払うつもりでした。
自宅に着いたのは夕方遅くでした。駐車場に車を停止させ、玄関に向かう途中で、私は思わず足を止めました。
玄関の前に四人の人影が立っていたからです。それは義理の両親と妻、そして今年二歳になる娘の姿でした。
「お疲れさま」「お帰りなさい。大変だったわね」「お風呂沸いてるから、ゆっくり休んで」
皆、それぞれに優しい言葉を掛けてくれます。私は戸惑いました。今までそんな出迎えを受けたことがありません。
玄関の明かりが逆光となって、彼らの顔を影の中に隠しています。私にはそれが、何か家族の皮を被った得体の知れないモノのように思えてなりませんでした。
幼い娘がトコトコと私に近付き、たどたどしい言葉で「パパ、おかえりなさい」と言って、私の足にしがみつきました。
───ああ、とても逃げられない。
絶望的な気持ちで、私はそう思いました。
娘の傍らにしゃがみこみ、その小さな身体を抱き締めると、思わず涙が溢れます。
私は馬鹿でした。こんなにも可愛い、自分の命よりも大切な娘を捨てて、いったいどこへ逃げようというのでしょう。
人目も憚らずに泣く私を、義理の両親と妻が励ましつつ立たせました。そしてゆっくりと玄関へ誘導します。
玄関ドアを開け、明るい光の灯る我が家の中へ。
私の背後で、絶対に逃がさないとでも言うように、玄関ドアのガチャリと閉じる音がしました。
───最近、よく夢を見ます。
それは、私が首を吊る夢です。
夢で私は深い霧の中を彷徨っています。その白い闇の奥から現れるのは、太い幹と枝葉を持った立派な木々です。
そのいずれにも、ロープで首を吊った人の姿がぶら下がっていました。
ああ、私も早く自分の木を探さねば。体重が掛かっても簡単に折れたりしないような、しっかりした枝を持つ木が良い。
そうして物色するうちに、申し分のない立派な木が見つかります。
脚立もないのに私はその枝にロープを掛け、輪っかを作ります。
首を吊ってぶら下がった人々が、皆こちらを見ている。
そして私はロープの輪っかに首を通し、彼らに微笑むと、思い切って宙に飛んだところで目が覚めるのです。
・・・・きっと“クビキ様”に呼ばれているのでしょう。
おそらく近いうちに、私は死にます。あの“首吊り山”で、皆と同じように自ら首を吊って。この町に昔からずっと続く“クビキ様”への贄として。
私は決して自分の意思で死ぬのではありません。この手記が確かな証拠です。
───いつか、この忌まわしい死の連鎖が止まりますように。
そう願いを込めて、私はこれで筆を置きます。
(終)
首吊り山 月浦影ノ介 @tukinokage
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