少年と触手

海沈生物

第1話

 これは僕がまだ小学生の時に経験したことだ。仕事で忙しかった両親は、夏休みまで一人孤独にマンションの一室に残される僕を憐れんだ。僕は別に一人でも気にしていなかったのだが、そこで、二人は母方の祖父の家に僕を預けることに決めた。


 マンションの前まで迎えに来てくれた祖父の車に揺られ、数時間。山の中にある大きなお屋敷の前に駐車したかと思うと、「下りろ」と鋭く尖った声で言った。その言葉に「なんだか刺されそうっ!」と怖くなった僕は、指示通りにさっさと車を降りた。そのまま、祖父の背中を追いかけた。


 祖父の家は、当時の僕にとって「ロマン」そのものだった。その頃、ちょうど忍者を題材とした人気アニメにハマっていた僕は、それに影響されてか、いわゆる「忍者屋敷」というものに対して強い憧れを持っていた。そんな僕にとって、まさに祖父の巨大なお屋敷はアニメで見た「忍者屋敷」そのものに見えた。今改めて見たのなら田舎によくある家にしか見えないのかもしれないが、少なくとも、当時の僕にとって祖父の家は、「ロマン」そのものだったのだ。


 そんなロマンの中に一人孤独に祖父は住んでいた。彼はとにかく無口だった。最初の内は何も言わなかったら嫌な子と思われるかな、と思って「普段何しているんですか?」とか「山の中に住んでいて楽しいですか?」みたいなことを聞いていた。だが祖父は「知らん」とか「普通だ」みたいな素っ気ない返事しかしなかった。


 そんな祖父の態度に僕も感化されてくると、徐々に僕も祖父も最低限の会話しかしなくなった。ただそれは気まずさを伴った無言ではなく、むしろお互いにとってちょうど「良い距離」であるように思えた。今風に言うなら「社会的距離」というやつだろうか。……ともかく、僕と祖父は「良い距離」を掴むことができたのだ。

 さて、長い前置きはこのぐらいにしよう。そんな祖父との一夏の暮らしだが、とにかく退屈の極みだった。いつものようにスマホでゲームをしようと思ったが、山の中なので電波が届かない。ついでに祖父はいわゆる「古い人間」だったので、テレビすらなかった。「新しい人間」である僕にとって、それほど娯楽のない空間に一夏も居続けるというのは地獄で、正直日が経てば経つほど「マンションのクーラーがよくきいた部屋の中、スマホのゲームの周回をする生活の方がまだ楽しいな」と後悔していた。

 だから、時間は有り余っていた。とはいえ祖父と一緒に遊ぼうにも、彼は足が悪く、まともに遊ぶことができなかった。であるのなら、退屈な家の中にいつまでもいるわけにはいかない。僕は一人孤独に外へ出るしかなかった。


 祖父は僕が外へ出ようとする度に


「森の奥の方へは絶対に行くな」


 と珍しく感情のこもった声で忠告してきた。普段無口な彼がそのことだけは毎回家を出る時に言ってきた。当時反抗期に入りかけていた僕は、心の中でイライラしていた。わざわざ、森の奥に行って迷子になるような馬鹿なこと、僕がするわけがない。そう高を括って、森の中へと足を踏み入れていた。

 

 しかし、夏休みも終盤になってくると、そんな安全に満ちた森の入り口付近もすっかり探索し尽くしてしまった。そうなってくると、あとは森の奥しかない。暗闇に満ちた森の奥を一瞥すると、なんだか無性に不安と興奮が心の中で沸き立った。やがて僕は何かに導かれるようにして、祖父から「行くな」と感情のこもった声で言われた森の奥へと足を踏み入れた。



# # #



 森の奥に一歩入ると、周囲の空気がガラッと変わった。空を見上げると、さっきまでは木漏れ日が射しこんでいた緑の天井は、すっかり日が差さぬ黒の天井へと変わっていた。その変化のせいか、今まで心の中でバランスの取れていた不安と興奮の天秤が、大きく不安の方へと傾いてしまった。もしかすると、突然奥の方から熊がやってくるのではないか。あるいは、突然宇宙人がやってきて、僕を光線銃で殺してしまうのではないか。そんな不安に身を包み込まれながらも、僕の足が進む方向は矛盾していて、奥へ奥へと進んでいた。


 だが、そんな時のことである。ふと足に違和感を覚えた。まるで犬の糞でも踏んだのではないか、という気持ち悪い感触を感じたのだ。僕は思わず足を退けると、すぐに足元を見た。


 そこには赤色の触手が揺れていた。その触手は地面から生えていて、身体からローションみたいなぬめりを出していった。これは……えっちな展開になるのではないか。男なのに? 急いで逃げようとしたが、かえってローションのようなぬめりに足を取られ、すってんころりんと転んでしまった。やがて僕は地面に腰を叩き付けられると、僕のおへそのあたりを愛撫してくれる触手に、思わずビクッと身体を動かした。


「こ、このっ! ど、どっか行け!」


 なんとか身体をくねくねとさせて触手を追い払おうとした僕。しかし、そんな僕の姿を煽るようにして、触手もくねくねと動いてきた。僕はそんな触手を気味悪く思いながら、いつの間にか両方の足首が掴まれていることに気付いた。これは……やっぱり僕に対してえっちなことをするつもりなのか。少年だから? 同人誌でもあるまいし、どこにそんなニッチな需要があるのか。それとも、実はこの森のどこかにカメラがセットされていて、僕みたいな愚かな少年を捕らえてはポルノ画像を取っているのだろうか。なんて邪悪なんだろう。なんておぞましいのだろうか、この世界は。


 僕の無限に広がる被害妄想ワールドの一方、触手はまだくねくねとしていた。僕は一向に襲ってこない触手にクエスチョンマークを抱きながらも、おもむろにそのくねくねしている触手に触れた。触手は僕が触れたことに気付くと、そのくねくねをやめた。そうして、「ぬちょり」と僕の左手を覆い包んできた。


 「わぁ!」と僕が声をあげたが、触手は気にせずに「ぬちょ、ぬちょ」と僕の左手を覆い包んできた。恐ろしい。おぞましい。きっとこのまま僕を骨ごとドロドロに溶かして、にしてしまうつもりなのだ。どうにか触手を引き剝がすことができないか。僕は激しく身体をジタバタしてみると、触手は不意に僕から手を離してくれた。一体何が起こったのか。そう思っていると、隣にいた触手は「しゅん……」と腰(触手に腰はないが)を曲げて落ち込んでいた。


 今まで僕を捕らえてきていたやつだ。また捕まることがあれば今度こそドロドロに溶かされるかもしれない。僕はそのまま去ろうと思ったのだが、あまりにも落ち込んでいる様子に、どうにも放っておけなくなった。


「な、なぁ触手さん、どうしてそんなに落ち込んでいるの?」


「|縺雁燕縺ィ莉イ濶ッ縺上@縺溘>。|縺励°縺玲拠邨カ縺輔l縺ヲ縺励∪縺」縺……」


「ご、ごめん。できるなら、分かる言葉で話してもらえない?」


「……あっ、すいません。人間に合わせて、日本語で話した方が良かったですか?」


「し、触手なのに日本語話せるんだ……」


「はい。それはもう。今の時代、触手は人間の言語を操って、積極的にコミュニケーションを取っていかないと死滅する一方ですので。まったく、時代の流れというものは嫌ですね。昔は触手も一部地域では〝恐ろしいもの〟として信仰されていましたが、今ではただの〝美味しいもの〟です。それもこれも、〝ぐろーばる化〟なるもののせいです。許すまじですよ、〝ぐろーばる化〟」


 溜息をつく触手の姿に、なんだか不安も興奮もどこ吹く風と消えてしまった。代わりに奇妙な落ち着きが僕の心を支配した。


「あの、さ。それじゃあ、そんな触手さんはどうしてこんな山の奥にいるの?」


「もう聞いちゃいます? はぁー仕方ないですね。特別に教えます。まずは――――」


「そういう長話は良いから、結論だけ教えてくれない?」


「これだから、最近の動画も二倍速しちゃう世代はダメダメですね。まぁこれも時代の流れとして諦めますが。……要点を一行で話すのなら、”好きな人をずっと待っているから”ですね。その人はそろそろ来てくれる予定なんですが。怖がっているのか知らないんですが、全然来てくれないんですよね。どうしてだと思います?」


「いや知らないですが……むしろ、触手さんの方から言ってあげた方が良いんじゃないですか?」


「それは……そう、ですね。私たちは相思相愛なんですから、こちらから行ってもなんら問題はないですよね。なんなら、あの人の子を産んだこともあるんですから」


「……そ、その見た目で産んだんですか?」


「はい。この見た目で産みました。元気なの男の子を」


 いくら現代が多様性の時代とはいえ、触手なんて未知の生き物が人間の子を産むなんてこと、あり得るのだろうか。ただ目の前に「ぬちょ、ぬちょ」と鳴らす触手以上、そのような未知の出産だって十分に有り得ないわけではない。ただ、僕の認識が酷く拒絶反応を起こしていた。

 まるでそれが事実であるとでは「理解」しながら、されどが「拒絶」しているような、そんな奇妙な感覚がしていた。


 僕が疑問を浮かべていると、その触手は「あー」と叫んだ。


「そろそろ、お時間みたいですね。あの人を迎えに行く必要があるので、君との話もここまです」


「そうなんですね。なんていうか……邪魔して悪かったですね、ごめんなさい」


「いえいえ、私の方こそ勝手に足掴んですいません。なんだか私の好きな人と似ているような気がして来てくれたのだと勘違いしたのですが――――と、新しい人間は長話を嫌うんでしたね。それでは、また!」


 触手はそれだけ言い残すと、森の外の方へと走り去っていった。僕はポカンとその後を見送ると、急に力が抜けたのか、その場に倒れてしまった。


 それから祖父の家に帰ると、なんだか騒がしかった。どうしたものかと家に戻ると、祖父の友人らしい人たちが僕に近づいてきた。


「○○くん、キミのおじいちゃん、みーひんかったか?」


「い、いえ。家を出る時に会ったきり、会ってないですか……どうかしたんですか?」


「いやな、変な話やねんけど……キミんとこのおじいちゃん、突然消えてしまってんねん。それで村中の皆で探しているんやけど、奇妙なことにな、部屋の中がべっとべっとしとってん。スライムで遊ぶような人ちゃうし、なんやキミ覚えないか?」


 僕は首を横に振ると、「そうかぁー」と言ってその人は去っていった。


 森の奥の方に耳を澄ますと、どこからか「ぬちょ、ぬちょ」という音が聞こえたような気がした。

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