第1話 初戦





 崖を両足をサーフィンのように使って滑り降りる。ザザァっといい音を立て、軌跡には砂埃が上がった。思いの外崖はあまり高くなかった。振り返って見上げると、それは崖というより、内と外を隔てる土壁に見えた。


 すぐさま視線を燃え上がる村に戻す。

黄色と黄緑色が織りなす牧場の先にはいくつかの家々が不規則に並ぶ大通りがあった。通りを挟んで左右に住宅が並んでおり、それは遠く先の十字路まで続いている。そして大きな十字路の中心には井戸、その周りにはベンチが置いてあった。十字路はちょっとした広場になっており、そこをさらに抜けると日用雑貨や野菜や果物などを売る商店が軒を連ねる。そしてその更に先には村の入り口となる木組みの門があった。


 不思議な事に、男は街を知っていた。どこに何があるのか、直感的にわかった。それは、古いアルバムをめくるような感覚。めくる度に褪せた記憶が色を取り戻す。


 だからこそ、怒りが湧いた。記憶と実態はあまりにも乖離している。


肉が焦げる嫌な臭い。炎上する木造家屋が崩れる轟音。邪悪な笑い声。悲鳴と号泣、怒号と断末魔の叫び。

 ここは、こうじゃない。もっと穏やかで、もっと活気に溢れ、もっと和みある場所だった。誰かの記憶が否応なくそう告げている。


「やめろっ、来るなっ!」


無形の悲鳴と怒号の中に、一つだけ意味のあるものが混入した。単純に、発声源が近かったのだ。それはわずか曲がり角を一ブロック曲がった先から聞こえてきた。


 男は飛び込むように、そこへ駆け込んだ。


薄緑色の肌。禿げた頭、尖った耳。首と肩の境界がわからない程に発達した筋肉の上半身には直にベルトが巻かれていた。巻かれていた。その姿は、創作やゲームでよく見るオークそのものだった。片手には太い木を削っただけのシンプルな棍棒を握っていた。少しクリケットのバットに似ている。オークの正面には尻もちを付きながら後ずさる初老の男が怯えきった声で訴えていた。


 オークが棍棒を振りかぶる。初老とは言え、男に生還しうる希望はもはや残されていなかった。オークが作業的な気だるさで振る舞っているのは、実はそのせいもある。どうせこの獲物は難なくつぶせる、だから焦る必要も急ぐ道理もない。


そのおごりが、明暗を分けた。

初老の男は、依然なにもできない。しかし、背後からの飛び蹴りを受けたオークは前方に躓きながら棍棒の起動を変えた。角度が悪かったのか、地面に激突すると同時に棍棒はオークの腕から弾けるように放り出される。


怒りが判断を鈍らせる。おごりもあっただろう。棍棒を拾うことすらせず、オークは勢いよく背後を振り返った。


「おらっ!」


若い男の声。すでに抜き放たれた剣を両手で握ってオークの腹に突き出した。それは折れた刃だった。不定形にひび割れた断面は奇しくもノコギリのように皮膚を引き裂き、臓腑を断裂させる。とは言え、刃の長さは短剣ほどでしかない。これではオークの腹を貫通するには至らず、屈強な腹筋は刃を捉えて固く膨らむ。たったそれだけでオークには止血になってしまうのだ。


「バケモンかよ・・・」


すぐさま剣を離して背後へ跳躍する。オークは拳を握って反撃の準備を整えていた。


「・・・ティム」


弱々しい声がオークの背後から絞り出された。それは明らかに若い男へと向けられたものだった。

”逃げてくれ”と言いたげだが、最後の一言が喉を通らない。


(ティム?そうか、こいつの名前!なんで今まで忘れていたんだ?)


ティムと呼ばれた青年の精神を何故か乗っ取った状況になっている男は、名を聞いて初めてそれが自分の呼び名だと理解できた。記憶喪失から段階的に目覚めていくような感覚。この複雑怪奇な状態に戸惑いながらも、オークの所作から目をはなさない。


「ウガァァァアアア!!!」


人間の叫びを大太鼓で奏でたような轟音を喉から吐き出し、オークは鎖鉄球のような拳を振り上げて駆け出す。大ぶりの殴打は軌道が読みやすい。特に、中学から高校卒業まで嫌々剣道を続けていた男にとっては親切にさえ思えるほど、嘘偽りのないわかりやすい攻撃だった。

オークの拳はギリギリで回避した。拳は激突した家屋の石壁を粉砕し、白い砂煙を舞い上げる。

動体視力は間に合うが、体が間に合わないのだ。二メートルを超える巨体からは想像もできない程にスピードで迫りくるオークは、一枚の大きな壁に思えた。犀や像を相手に格闘するような感覚。両拳を握って構えるが、勝ち目がないのは一目瞭然だ。

 オークの二撃目。両腕を大きく開いてプロペラのように半転する。振り返りざまの攻撃ではあったが、集中して構えていた男には当たらない。三撃、四撃、徐々になれてきた男は避けながら反撃の糸口を探す。


(周りにあるのは・・・木箱とクワ、あとは木箱の中の干し草か。なんとかなるか?)


オークを見る。見上げるほどの屈強な肉の塊は、農具で殴った程度ではどうにもなりそうになかった。何かやつに通用する方法はないものか。眉間にシワを寄せて考える男の目にはあるものが飛び込む。


(腹の剣、少しだけ血がにじみ出ている。別に治った訳じゃないのか。あの剣さえなんとか取り返せれば・・・)


「はっ!」


男は今までの戦い方から一転して、オークの懐に飛び込む。オークの知らない武道的な足さばき。いきなり現れたような錯覚をオークに植え付ける。

 男の拳はオークの顎を直撃し、反対側の手は腹に刺さった剣を握っていた。


オークにダメージはない。しかし、苛立った目がギロリと男を見下ろす。


「クソ、抜けな・・・」


男は迷わず剣を腹から引き抜こうとした。拳で殴ったのも意識をそらしてなんとか引き抜くためだった。しかしオークは全く動じないばかりか、剣も未だに抜ける気配すらない。


「グルルル、ウガァァ!」


オークは怒りの声を上げながら男の肩と背中の衣服を万力のような腕で捕まえると、おもちゃのように持ち上げて頭上に掲げる。その力は凄まじく、男が握っていた腹の剣が簡単に抜けてしまう程だった。


「うぐっ、離せよっ!」


男はもがくが、オークの握力Ñ前には何の抵抗にもならない。怪物はわずかに仰け反ると、男を軽々と放り投げた。宙を舞う男は家屋の屋根に激突し、そこからくの字に軌道を曲げて石畳に沈む。


「がはっ、ゴホゴホっ・・・」


衝撃のあまり咳き込むが、オークから目は離さない。オークは勝ち誇るように咆哮を上げて両拳を天高く突き上げた。


(何て力だ、この防具が無けりゃここで終わってたぞ・・・でも、剣は取り返した!)


トドメを刺そうとオークが跳躍する。拳を振り上げ、降下と同時に振り下ろす。

男は前転して跳躍するオークの足元をすれ違うと、激突の轟音を背中で聞いた。


 オークの視界は唐突に暗転する。混乱しながらも直立するオーク、頭から外して初めて木箱をかぶせられていたことを理解する。激しく頭を左右に振って顔に掛かった干し草を振り払うと、怒りといら立ちに顔をしかめながら振り返った。


「食らえっ!」


振り返りざま、オークは無防備な顔面にクワの一撃を受ける。鋭利で頑丈な金属部は刃物のようにオークの顔面を引き裂き、深く頭蓋骨を挫滅させて切り込む。


「もう一発っ!」


間髪入れずに、もう一発クワによる殴打を叩き込む。二撃目には、元々武器ではなく農具でしかなかったクワは耐えられなかった。木製の柄は音を立てて弾けるように折れてしまい、金具は錐もみ状態で空を舞ってから一だ民にバウンドする。

 激痛、そして脳震盪。さすがのオークも弱点の顔面に耐えがたい傷を受けると、その患部を両手で抑えたまま背後へ倒れてしまった。


「おりゃ!」


畳み掛けるように男は昏倒したオークを片足で跨ぐと、ささくれて尖ったクワの柄をオークの口内に突っ込もうと振り下ろす。


「グルル、ルルル・・・」


オークは突きこまれたクワの柄を規格外の咬合力で噛みついて止めると、片手で柄をつかんで口から抜いていく。力勝負になっては男よりオークの方に分がある。口内を複雑に切り裂いて血まみれになった際の柄がじわじわと抜かれる。

 手を離す男、勢いあまって遠くへと柄を投げ捨てるオーク。怒涛のような男の攻撃はまだ終わらない。


「終わりだっ!」


膝を折って全体重を落下に乗せると、ついさっき取り返した折れた剣をオークの喉に突き立てる。

ビクンと全身を震わせるオーク。力強く、より深くへと凶刃を喉へ押し込む男。

一撃でなければ二撃、二撃でダメなら三撃、それでも届かねば届くまで手を伸ばす。真摯なまでの殺害への執念が、遂には巨人の命すらも串刺しにした。


「はぁ、はぁ・・・」


 初めての殺し合い。初めての殺害。現代日本で育ってきて、家畜すら屠った事のない男にとってはあまりに非現実的な感覚。足元には、剣を抜かれて喉から咳き込む血まみれのオーク。今更になって両手がガタガタと震える。振り返ると、そこにはもう初老の男はいなかった。死闘の中で周りが見えていなかった男は、その鬼気迫る光景に恐れをなして逃げ出した一部始終を見逃していたのだ。


 戦火の臭いは未だに消えない。火事の白煙は霧のように充満し、呻き声や叫び声はやまびこのように木霊する。爆発の破裂音や猛獣のような咆哮も鳴りやまない。これほどの戦いをしても、未だに大局は変わらない。

 

 傾向として、多くの避難民は石造りの教会に大挙していた。それは村中央の井戸を起点に正門から判定側で、正門側には不幸にも魔族たちに気に入られて連れ去られようとしていた人々が引きずられる。


「痛い、離してっ!」


オークに髪を掴まれ、膝や手のひらを擦り切りながら引きずられる少女。彼女のような被害者はオークの典型的な獲物だ。オークという種族にはメス個体が存在しない。その代わりオークは魔族、人間、亜人など様々な種と交配できる。その特異な生態により、オークたちは定期的に人間の少女を狩りに来る。ほとんど確実に手に入る上に数が多く、しかも用が済めばちょうどよい食料にもなるので、好んで人間の少女は狙われるのだ。


「痛いよ・・・」


消え入りそうな声で、少女は訴える。横目に映るのは、こちらを見て見ぬふりをして教会へ逃げる村人たち。


「誰か助けて・・・」


かすれた声で助けを乞う。

望みはない。期待もない。もはやこの結末に納得している自分さえいる。

それでも、せめて口に出すだけでも。

何か、一つでも、抵抗を。

 ささやかな抵抗の声は、その実、地を擦って皮膚を擦り切る音に掻き消されてしまっていた。


 もうだめか。

諦めて目を閉じる。もはや何も見るべきものは無いと言わんばかりに。


「その娘を離せっ、デカブツ!」


予想だにしなかった声。言葉。

自分を引きずる手が止まり、何か生暖かいものが顔に掛かる。

少女は目を開けた。何が起きたのか、確認せざるを得なかった。何が何でも見たいと思った。


 それは血に濡れた折れた剣を構える若い男と、指を切り落とされて握り込んでいた金髪ごと鮮血を手放すオークの姿。切断の激痛に喉を鳴らして大気を激震させる巨躯と、ナイフのように静謐な殺意を向ける男の対面。


・・・しかし、この男はこんな顔ができる人間じゃなかったはずだ。

少女には、不本意ながらも、感謝より大きな違和感が心に巣食ってしまっていた。


(ティム兄・・・じゃない。あなたは、誰?)






つづく





 












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