赤いブランケット

久道進

 突き刺さるような視線を感じた。それはまさにナイフのように鋭い視線で、背中に走った鈍い痛みは、とても錯覚とは思えないものだった。

 顔をしかめ、振り返る。だがわたしの視線の先、そこにいた女はわたしを見てなどいなかった。頬を紅色に染め、薄く開いた唇から喘ぎ声混じりの息を吐き出している女の視線は、赤いブランケットで隠された己の下腹部に向けられている。どこか定まらないような瞳で、それでも自分の快楽の源泉を確認しようとするかのように、そこに視線をやっていた。いくら待とうとも、女の顔がこちらを向くことはない。半分目蓋に隠された瞳はまるで動かず、涙に潤みながらも僅かに揺らぐことすらなかった……当たり前だ。女は絵画の中の住人なのだから。油絵の具で描かれた女が動くわけがないではないか。

 ため息をつきながら、わたしはイーゼルの上に置かれた絵に背中を向けた。書棚に手を伸ばし、中の本を取り出そうとする……そこで、また感じた。鋭い視線。鋭利な刃そのものの視線が、また背中に突き立てられた。

 唇を噛みしめ、わたしは振り向きたくなる衝動をこらえた。振り向いたところで、そこにいるのは絵の中の女だけ。しかもその瞳は、わたしの方には向けられていないのだ。だからこの視線は、気のせいだ。ただの錯覚、気にすることはない。そう自分に言い聞かせながら、わたしは書棚の本を段ボール箱に詰める作業を続けていった……いや、続けていこうとした。しかしそれは、不可能だった。

 たったの三冊。それが限界だった。四冊目を手に取ったとき、わたしはどうしてもこらえることができずに、手の中の本を投げ捨てながら絵の方に向き直っていた。黴に表紙を占拠された古い辞書が、中の紙束を床にぶちまけた。つられるように込み上げてきた吐き気に口元を押さえながら、絵の中の女に視線を向けた。

 ……女は、わたしの滑稽な様子など眼中にないのだろう、独り己の快感に酔っていた。わたしの方に一瞥をくれることもなく、両手を頭の上に投げ出して、快楽に耽溺している。露わになっている両の乳房、その先端は確かに尖っていた。では、赤いブランケットの下はどうなっているのだろう……その想像に、性的な興奮よりもおぞましさを感じたわたしは、女から逃げるように絵に背を向けていた。床に置かれた段ボール箱を飛び越えるようにして跨ぐと、そのまま書斎を飛び出す。勢いを持て余してつんのめるわたしの背後で、錆び付いた蝶番が音をたてながら扉を動かし、書斎と外界を隔てようとする。その寸前、僅かな透き間をくぐり抜けて飛来した視線が、深々と背中に突き刺さった。それが追い打ちとなり……今朝胃の中に収めたコンビニ弁当を、わたしは残らず廊下に吐き出していた。


 ずっと忌避していた祖父の書斎に入る羽目に陥ったのは、田舎の家を取り壊すことが親族会議で決まり、その前に祖父母の遺品を整理しなければならなくなったからだった。

 なんでも一周忌の法要を終えたところで、田舎の家を処分してしまおうという話が、親戚の間で上がったらしい。祖母はとうの昔に他界し、祖父も亡くなった今、田舎の家に住む者も、田畑を耕す者もいない。このまま放っておいても荒れていくだけなのだから、その前に売ってしまった方がいいのではないか、というのである。特に反対する者もなく、その話はまとまり、家は取り壊して田畑ごと土地を売ることが決まった。そしてその取り壊しの前に、祖父の遺品を整理して欲しいと、父に頼まれたのである。わたしに白羽の矢が立ったのは、親戚の中で暇そうだったのが、失業したばかりのわたしぐらいのものだったからだ。

 わたしは最初、父の頼みを断ろうとした。祖父の家にはあまり良い思い出がなく、特に書斎は、わたしにとって鬼門とでも言うべき場所であったからだ。だが失業中という立場のため、結局断ることはできず、梅雨のじめじめとした最中に、わたしは祖父の家に向かわなければならなくなったのであった。

 行きの電車の中、脳裏にはある絵のことが浮かんでいた。祖父のお気に入りの一枚であり、わたしが書斎を忌避している原因にもなっている絵だ。

 それは、一人の女が描かれている絵だった。ベッドの上に横たわり、赤いブランケットで下半身を隠しながら、快感に顔を歪めている女の絵。無防備な姿勢が却って挑発的だった。構図だけ見れば、ゴヤの「裸のマハ」に似ていないこともない。だがその絵からは、芸術性のかけらも感じることはなかった。見ていると、まるでひどく猥雑なポルノ写真を突き付けられているかのような気分になってくるのである。絵の前にいるだけで落ち着かなくなり、なにか後ろめたいような気分に襲われ、下半身には重たいものが溜まっていく……そんな絵だった。

 あの絵を初めて見た五歳のときのことを、わたしはよく覚えている。まだオルガスムスどころか、性的興奮というものすら分かっていなかったわたしだったが、あの絵は、そんな幼児であるわたしをも確かに刺激していた。しかし、その刺激がなんなのか理解することのできないわたしは、ただただ戸惑い、怯え、しまいには泣き出してしまったのだ。

 そんなわたしをあやすこともなく、祖父は買ったばかりのその絵に見入っていた。大声で泣くわたしを完全に無視して、まるでポルノ雑誌を食い入るように眺める少年のように、祖父は絵を見つめていた。瞳をギラギラと輝かし、荒く浅い呼吸を繰り返しながら。そんな祖父の雰囲気は、幼いわたしをさらに怯えさせるには充分なものだった。絵から与えられる得体の知れない刺激と、異常な祖父の態度に翻弄され、わたしは癇癪を起こしたように泣き続けた。駆けつけてきた母の手で書斎から連れ出されるまで、休むことなくずっと泣き続けていたのだ。

 それが、初めてあの絵を見たときの記憶だった。淫靡な女の絵と、それを見て興奮する祖父。年甲斐もなく鼻息を荒くする祖父の姿は、今思い返してみても異常であった。そしてその異常性は、年々ひどくなっていったのだ……。


 吐瀉物で汚れた雑巾をゴミ袋の中に放り込むと、わたしは台所を後にし、寝泊まりしている居間へと向かった。時刻はとうに昼を過ぎていたが、なにも食べる気はしなかった。空腹感よりも吐き気の方がずっと強い。今ものを食べたとしても、また吐き出してしまうだけだろう。

 居間に向かう途中、廊下の最奥にある書斎の扉が、嫌でも目に入った。自然とあの絵のことを思い浮かべてしまう。艶めかしくもおぞましい女が描かれている絵。喘ぐ女の表情に吐き気がひどくなり、わたしは逃げるように居間に飛び込んでいた。

 敷きっぱなしの布団に倒れ込むと、大きく息を吐き出した。それから体を回転させて、仰向けの体勢になる。やけにきれいな天井を見つめながら、わたしは不快感の消えない腹を撫でさすった。

 わたしが祖父の家に来てから、今日でもう五日目になる。もともと物の少ない家のため、他の部屋の整理はあらかた終わっていた。いらない家具の廃棄も、専門の業者に頼んでおり、残っているのはあの書斎だけだった。そしてその書斎が、一番厄介であったのだ。なぜなら書斎には、あの絵があるのだから……。

「少しはましになっていると思っていたのだがな」

 午前中の自分の醜態を思い出し、わたしは自嘲の呟きを漏らしていた。あの絵を初めて見てから、もう二十年になる。最後に見たときからも、十年の時が流れていた。わたしは成人し、もう幼児でもなければ、思春期の少年でもない。性的な興奮に戸惑ったり、潔癖性のように性を嫌悪するような年齢ではなかった。あの絵にはろくな思い出がないし、苦手意識が消えるわけもなかったが、それでも昔のように取り乱すことはないだろう。この家に来るまで、わたしはそう思っていたのだ。

 だが、実際はどうだろう。感じるはずのない視線に怯え、嘔吐までしてしまうとは……昔よりもひどくなっている有様であった。

「まったく、情けない……」

 ごろんと体を回し、わたしはうつ伏せになった。吐き気が治まってくると、今度は背中の痛みが無視できなくなってきたのだ。有り得るはずのない視線によってつけられた傷が疼き、熱まで帯びてくる。それは刺し傷を連想させるような痛みであった。

「しかし……こんな痛みを感じるのは初めてだな……」

 いつの間にか額に浮かんでいた汗を拭いながら、わたしはそう呟いていた。あの絵を前にすると、いつも居心地の悪い思いはしてきた。性に未熟だった自分はあの絵の女を恐れていたし、怯えてもいた。だが、先程のような敵意むき出しの視線を感じることはなかったように思える。いや、むしろ逆だったはずだ。あの女は、わたしを性の饗宴に誘おうとしていたのではなかったか。その誘惑に怯え、そして性的な興奮を見せた祖父を恐れたからこそ、幼いわたしは泣き出したはずではなかったか。

「じゃあ……あの視線は、いったい……」

 幻想の傷の熱に浮かされてしまったのだろうか、意識が朦朧としてきていた。その中で思い出したのは、祖父の異常な振る舞いの数々だった。

 あの絵を人に見せびらかしながら、他人が少しでも女のことについて触れると激怒した祖父。絵の女に対してなにかをずっと語りかけていたかと思うと、次の瞬間には大声で悪罵を放ち始めていた祖父。絵の中の女をいやらしい目で見つめながら、同時に涙を流し続けていた祖父。そして気がつけば独り、絵と共に書斎にこもるようになった祖父……あの人を惑わす絵に、祖父は完全に魅入られていた……。

 ……そうだ、さっき感じたあの視線は、祖父がいつかわたしに向けたものと同じではなかったか。確かわたしが小学校高学年になったばかりの頃、性に対する興味を人並みに抱くようになった頃のことだ。祖母がまだ健在で、この家に遊びに来ていたわたしは、祖父の目を盗んで、恐る恐る書斎に入った。そしてあの絵の女に、こっそり触れようとしたのだ。丁度思春期の少年が、肉の感触など得られないと分かっていながら、写真の女性を触ってしまうのと同じように。

 だが、わたしは絵に触れることはできなかった。わたしの姿が見えないことに気づいた祖父が、書斎の中に飛び込んできて、わたしを思いきり突き飛ばしたからだ。あのとき、祖父がわたしに向けた視線、嫉妬心と憎悪に満ちたあの瞳から放たれた視線こそ、先程書斎で感じた視線と同じものではなかったか。

「祖父の怨念でも……こもっているのだろうか……あの絵、には……」

 呟きを口にしたと思った。だが実際に自分の耳に届いたのは、吐く息の音だけであった。ピントがずれたように視界がぼやけ、吐息の音ばかりが大きくなっていく。体がやけに重たかった。僅かに手を動かすことすら億劫で、姿勢を変えることなど望むべくもない。息苦しい体勢のまま、浅い呼吸を繰り返し……わたしは、意識を失った。


 一組の男女が体を重ねていた。両腕を頭上に投げ出した女を、男が組み伏せている。まるで血を吸う吸血鬼のように、男の顔は女の首筋に押しつけられていた。男の後頭部に隠されているというのに、その舌が女の皮膚を舐め回し、唾液の跡をつけていく様子が、わたしにははっきりと見えていた。

 男の左手は、ゆっくりと女の脇腹を撫でている。右腕は、忙しなく乳房の上で動かされていた。繰り返し続けられる男の愛撫。それを後ろで眺めながら、なんて滑稽で哀れな姿なんだろうと、わたしは男に同情していた。明らかに無理のある体勢で、女に奉仕し続ける男。そう、男が女に奉仕しているのだ。決して、男が女の体を貪っているわけではなかった。その証拠に、喘ぎ声を上げる女の顔には、まだまだ余裕が見て取れた。艶やかな表情と喘ぎ声で男を挑発し、その手と舌を必死に動かすように仕向けていながら、女の方は我を忘れることもなく、己の快楽を完全に飼い慣らしているのだ。

 男の背中は汗だくだった。まるでオイルでも塗ったかのように光っている。その背を優しく抱きしめてやることすら、女はしようとはしなかった。

 突然、男が身を起こした。両手で女の両膝を割り、その間に己の腰を突き入れようとする。だが、それは叶わなかった。男の腰が前に動く寸前、女が両手で男を突き飛ばしたのである。まるで、そこまでは許していない、最後までやる資格はおまえにはない、そう言っているかのような振る舞いであった。

 それは拒絶だった。奉仕させるだけ奉仕させておきながら、最後の最後で、女は男を拒絶したのだ。

 突き飛ばされた男は、その勢いを消すことができずに、後ろにひっくり返った。頭を下にして、赤いブランケットを足に引っかけたままベッドから落ちる。

 上下逆さまになった男の顔が、わたしの目に映った。

 それは祖父の顔だった。


 目を覚ましたのは翌朝のことだった。

 あまりに寝過ぎたためか、それとも夢の内容がひどかったためか、意識はどこかぼやけていた。疲れも取れるどころか、却って疲労感は増していた。こんな調子では、今日一日まともに体を動かせるかどうか分からなかった。

 考えてみると丸一日なにも食べていないような状態でもあった。昨日の朝食べた弁当は廊下にぶちまけてしまい、その後はずっとこの部屋で意識を失っていたのだ。このまま書斎の整理を始めるのは無茶というものだろう。

「なにか食べないとな……」

 ふらつく体を叱咤して立ち上がり、わたしは廊下に出た。視線を横に向けると、奥の書斎の扉が見えた。あの絵が置かれた書斎の扉。重たく黒い木の戸の向こうに、あの女の絵はあるのだ。

 と――その扉が、僅かに開いているように見えた。閉まりきっていない扉が、前後に小さく揺れている……黒い透き間は人の口腔を思わせた。揺れる扉は震える唇だ……そこから漏れ聞こえてくるのは荒々しい息づかいで、生臭い吐息が確かに吐き出されている……。

 倒れそうになった体を、わたしは反射的に壁に手をつくことでどうにか支えていた。喉の奥が蠕動し、ひどく気持ち悪い。唇を噛みしめながら顔を上向けると、きちんと閉まっている書斎の扉が見えた。

 扉が開いているように見えたのは、ただの錯覚だった……いや、昔のことを思い出したために見た幻だったのだろう。あんな夢を見たために、忌まわしい記憶が甦ってしまい、あのときのことを思い起こさせる幻覚を見てしまったのだ。

 ……あれは十年前のことだった。わたしが十五歳のときのことだ。お盆にこの家を訪れ、泊まったその夜のこと。わたしは見てしまったのだ。祖父が、額から取り出した女の絵を書斎の床に置き、その脇に腰を下ろして、自分の股間のそれを、必死にしごいているのを。そして、絵に向かって吐き出された液体を、両手で塗りたくっているのを。

 あのときの祖父の呟きが、わたしの頭の中で繰り返し響いた……届けてやる、オレの思いを、おまえに届けてやる……呪詛を思わせるような暗い口調でそう呟きながら、祖父は何度も何度も絵に向かって同じ行為を繰り返していたのだ。

 それは吐き気を催す光景だった。あのとき、祖父は七十五歳だったはずだ。七十五の老人が裸婦画を前に自慰をしているだけでも異常だというのに、祖父はその上、自身から吐き出された液体を絵に塗りたくっていたのだから。その祖父の行為に恐怖を覚えたわたしは、叫びたくなるのをこらえ部屋に戻ると、夏の最中だというのに布団を頭まで被って夜を過ごした。翌朝、渋る両親を急かして東京に戻ったわたしは、それ以来、昨年の祖父の葬式の時まで、この家を訪れることはなかったのだ。

 あの異常な光景を見て、普通の人なら認知症の発症を疑うことだろう。だがわたしは、そうは思わなかった。祖父のあの絵に対する執着を知っていたから、決して認知症などとは思わなかったのだ。祖父は確かに、あの絵の女に欲情し、自慰をしていたのだ。それもまた異常な行為ではある。しかしそれは、病気によるものなどでは決してなかったのだ。

 嫌な記憶を振り落とすように頭を振ると、わたしは壁から手を離した。書斎に背を向け、台所の方へと歩き出す。食欲はまるでなかった。だが、このままではさすがに体がもたない。無理にでもなにか食べておく必要があった。

 体の中で痛いほどに縮こまっている胃の辺りをさすりながら、わたしは歩を進めた。


 冷蔵庫に入れておいたコンビニ弁当を無理やり胃に詰めたわたしは、己の意思を総動員して、書斎の扉を開けた。一瞬、股間に手をやる祖父の幻影が見えたが、その幻はすぐに消えた。代わりに瞳に映ったのは、乳房を惜しげもなくさらけ出し、恍惚に顔を歪める女の絵であった。イーゼルの上に載せられたその絵は、丁度入口から真正面のところにあり、視線を逸らす暇などなかった。

 胃が嫌な音をたてて蠢いた。車酔いをしたときのような目眩に体が揺れる。書斎の中に入る前から、気分は最悪であった。

 自分の体に起きた変調に、これではまるで呪いだなと、わたしは思った。祖父が亡くなり、その魂を啜ったことで、この絵は本当に呪いの絵に変わったのかもしれない……そう考えながら絵を見つめてみれば、ああ確かに、絵のおぞましさは昔よりも増しているではないか。快感に歪む女の顔、その頬の紅はより濃くなり、乳房の間の皮膚はブランケットにも劣らないほどの赤みを帯びている。額には玉のような汗が浮かび、首筋では幾つもの滴が流れ落ちていた。膨らんでいる乳輪に尖った先端。女の視点は定まらず、喘ぐ唇からは舌が覗いていた。ああ、本当に昔とは違う……鑑賞者を快楽に誘おうとしていた昔とは違い、今、絵の中の女は絶頂を迎えようと……。

 自分の内心の声に、体が震えた。絵を見つめ、その特徴を上げていき、気づいた事実に背筋が寒くなった。

 絵は、変わっていた。確かに絵の中の女の様子は、昔とは変わっていたのだ!

 縋るようにドアノブを掴み、頽れそうになる体を支えた。

 ああ、そうだ……なんでその食い違いに気づかなかったのか。記憶の中の女は、いつもわたしを挑発し、誘っていたではないか。そして性に未熟だったからこそ、その誘惑に幼いわたしは怯えていたのではないか。だが昨日は違ったのだ。絵の中の女はわたしに注意を向けることなどなかった。ただ快楽に夢中になり、快感に溺れ、わたしなど眼中になく喘いでいたのだ。だというのに、敵意に満ちた視線もまた同時に感じたからこそ、わたしは戸惑い、怯え、嘔吐したのではないか。

 逃げ出したくなる気持ちを抑えながら、わたしはいつの間にか俯けていた顔を、絵の方に向けた。落ち着けと自分に言い聞かせながら、絵を、その周りを観察する。

 ……ああ、よく見てみるがいい……絵はどこにある? 昔のように額の中ではなく、イーゼルの上に載せられているではないか。絵を描くための画架の上に、あの絵はあるのだ。ならばきっと、油絵を描くための他の道具もあるはずだ。昨日は目を逸らし続けていたから気づかなかったが、探せば絵筆やパレットナイフ、それに油壺や油絵の具も見つかるはずだ。

 ああ、そうだ、そうなのだ……女の様子が違っているのはきっと当たり前のことなのだ。あの絵に不満を抱いた祖父が、自分の好みにあうように絵を描きかえたに違いない。今思い返してみれば、祖父は絵に魅入られながらも、同時にどこか満たされないものも抱えていたではないか。そう、自分が興奮しているほどには、絵の中の女は快感を感じていない。そう言ってぼやいていなかったか……だから祖父は、自分の手で絵の女を感じさせるために、絵に手を加えたのだ。イーゼルの上に絵が置かれているのがその証拠だ。きっとそうだ、そうに違いない……それ以外、考えられないではないか。

 乾いた笑い声を上げながら、わたしは書斎の中に入った。途端、昨日と同じように、鋭い視線を感じた。ナイフのようなそれが、深々と腹部に突き刺さった……違う、これは錯覚だ。臆病な自分が作り出した幻の痛みに過ぎない……そう自分を説得しながら、ゆっくりと絵に近づいていく。自分を安心させたくて、祖父が絵を描きかえたという更なる証拠を求めたのだ。探せばきっとあるはずだ。油絵を描くための道具が。服を汚さないためのエプロンや、油絵の教本だってあるかもしれない……。

 痛む腹を押さえながら、わたしはイーゼルの下に視線を這わした。そこになにも落ちていないことを覚ると、書棚を見回し……そこにも古い本以外なにもないことに気づくと、今度は自分で持ってきた段ボール箱や、昨日落としてバラバラにしてしまった本の下などを探した。だが、なにもなかった……油絵を描くための道具は、なに一つとしてなかったのだ……。

「絵の道具は……捨て……たのかな……」

 震える唇をそれでも動かし、願うように声を言葉にした。ああ、そうだ。きっと絵の道具は捨ててしまったのだろう……そうに違いない。そうでなければ、ここに絵の道具がないことの説明がつかないではないか……。

 荒く息を吐き出しながら、わたしは絵の前に立った。

 女の顔は、深く快楽に沈んでいる者のそれだった。絵の外にいる者のことなど、まるで眼中にない。きっとその存在にも気づいていないだろう。

 だのに、確かに鋭い視線を、敵意に満ちた意思を、わたしは感じていた。誰かがわたしを見ていた。睨み付けてきていた。その視線は告げていた。この女はオレのものだと。他の誰にもやらないと。絵の外のおまえは、この女に近づくな、と……。

 そして、わたしは確かに見た。絵の中のブランケットが、女の下半身を覆う赤いブランケットが、まるで風に巻き上げられたかのように動くのを。その下にいたモノの姿が、わたしの目に映った。嫉妬心と憎悪に満ちた瞳でわたしを睨んでいたのは――

 わたしは悲鳴を上げ、絵をイーゼルに叩きつけていた。何度も両腕を振り上げ、勢いよく振り下ろす。木材がカンバスを突き破り、絵は千切れ、汚れた布切れへと変わった。

 だが、赤いブランケットの下にいたモノの姿は、わたしの目にしっかりと焼き付いてしまっていた。

 十年前のあの夜のことが思い出された。おぞましい祖父の所行。絵の前で自慰をし、吐き出された体液を絵にかけ、両の手の平で塗りたくる……ああ、吐き気を催すあの行いを、祖父はあの晩以降も何度も行っていたのだろう。イーゼルの上に絵を置くようになったのは、自分の行為を気づかれないようにするための、祖父なりの考えだったのかもしれない。だがこの画架の周りに、絵筆や絵の具はなかった……いや、祖父が死んで、無くなったというべきか。絵筆は祖父の手。そして絵の具は、祖父の体液なのだから。そして、そこに込められた祖父の情欲と執念は、祖父の死の後に、この絵の中で実を結んだ……オレの思いを、おまえに届けてやる……そう、絵の中の女に、祖父の思いは、呪詛は、届いたのだ……。

 ブランケットの下には、おぞましい生物がいた。そいつは、まだ生まれて間もない赤児の姿をしていた。そいつはその小さな手で、女の足を押さえていた。真っ白な腰を女の股間に押しつけ、千切れたへその緒を女の下腹部に垂らしていた。顔を女に負けないほど快感に歪ませ、だがぎらついた瞳で絵の外の者を威嚇することも忘れていなかった。

 そのおぞましい赤児の顔は、確かに祖父のものだった。

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赤いブランケット 久道進 @susumukudou

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