『あなたを忘れない』
「これ全部お花なのっ!?」
「ええ、あくまでも造花、ではありますが」
店を閉じた次の日のこと、店主とリザは店の片付けをしていた。
「それでも……こんなにいっぱい!?」
「この辺りはあまり花が咲きませんから。造花くらいでしか様々な種類の花には触れられないのです」
店主は一輪ずつ、丁寧に箱へと詰めていく。
本来ならばこのままにしておきたい気持ちもあったが、長時間日に晒すと劣化が早くなってしまうのだ。
それに対して、リザの行動は非常にゆったりとしたものだった。
一輪手にとっては、しげしげと眺め、店主に花の名前を尋ねる。
「ねえねえ、お人形さん。このお花は何ていうの?」
「……それは、『カーネーション』です。白ですと確か……ごめんなさい。少しばかり思い出せません」
しかし、店主の記憶も少しずつ、抜け落ちてきていた。
一輪、手にとって名前を、花言葉を思い出そうとしても、まるでぽっかりと穴が空いてしまったかのように。そこには、何も記されていない。
——せっかく、お姉様から教えて頂いたものだというのに……。
少しばかり手に力を込めてしまったせいか、手にとっていた花はくしゃくしゃになってしまった。
ずっと見ているのがあまりにも苦痛だったために、店主はなるべく視線を逸らしながら、それを箱へと詰めた。
* * *
「……終わっちゃったね」
一切の造花が片付けられて、がらんとした店内を眺めながら、リザはポツリと呟いた。
「ええ、これでもう……店じまい、です」
作られて、ここに来た時からずっと。花はそこにあった。
だからこそ見慣れないその景色は、何とも不思議な気分にさせるものだった。
「……お茶にでも、しましょうか」
その場から早く離れたくて。店主は客間へと歩き出し、リザも慌ててその後を追った。
「……ねえ、一つだけ聞いてみたいことがあったんだけどさ」
客間にて腰掛けたソファ。
机の上に挿された薄紫色の一輪は、唯一残された造花だった。
それを興味深げに眺めながら一つ、リザが尋ねようとした時だった。
「ええ、どのよ……っ……」
言葉は最後まで続かず、小さく悲鳴をあげると、唐突に店主はその場に崩れ落ちた。
「お人形さんっ!?」
すぐさま駆け寄って、店主の様子を確かめようとした時、一瞬だけかち合った瞳は虚ろなもの。
けれど、唇だけが小さく震えていて。
彼女は自分の耳を近づける。
「……あな、たは……?」
声もまた、無機質なものだった。それはまるで、自分のことなど忘れてしまったかのようなもので。
一瞬、脳裏をよぎったのはその時の光景。
そして、それが蘇るのは彼女にとってはこの上なく耐え難いことだった。
「いやあっ……!」
寝室へと逃げ込み、ドアを閉めてしゃがみ込む。
目から滴り落ちる雫を止めるために。
リザは深く目を瞑る。
反射すらせずに、二度と何も映すことのない黒。
瞼の裏に映ったのはそんなもの。
そして、その先に逃げ場はない。
『おねえちゃん、あそぼ!』
『いや。だって……あたしのおやつ食べちゃったんだもん』
——もっと、遊んであげればよかった。
『おねえちゃん、さびしいよ……』
『お母さんも、お父さんも遅いんだからしょうがないじゃん……。早く寝るよ』
——もっと、抱きしめてあげればよかった。
『おね、え、ちゃ……』
——せめて、あの時だけでよかった。
「……聞いてあげられたらよかったのにっ……」
目を逸らした、たったその一瞬。
次に見た時には、もう瞳は虚ろになっていて。
もう二度と、その唇が音を発することはなかった。
——全部、全部、あたしのせいだ。
あの子が死ぬのを見たくなかったからって、そんな一つのワガママのせいで。あの子の最後の言葉を聞くことすらできなかった。
だから、もう一度あの子に会って謝りたかったって。
お人形さんがああなっちゃったのもきっと、そんなもう一つのワガママで迷惑をかけたからなんだ。
「……ごめ……な……い……」
その色は、ひどく虚ろで、冷たい。
許しを乞うたところで遠ざかることもない。
必死に喉の奥から迫り上がってくるものを、歯を食いしばって噛み殺して。
強く閉じた瞼で、雫を止めようとする。
しかし限界は訪れ、徐々にそれは端から滲んでいく。
やがて溜まった雫が頬を伝い、一滴、零れ落ちようとした時。
突然、何かがリザを包んだ。
それは硬くて、冷たい。
けれどかかる力はやさしく、柔らかい。
たとえそこに体温がなくとも、今、孤独な彼女が、何よりも欲していたものだった。
「お……に、ん……え、うぇっ……」
相手を呼ぼうと口を開いても、先ほどまで堪えていたはずの嗚咽が漏れる。
瞼を開けても、溢れ出た雫のせいで滲んだ視界では、相手の姿を捉えることなどできない。
その代わり、だろうか。
せめて縋るように、と少女は、その腕を強く握る。
やがて軋み始めたとしても、涙でシミができたとしても、相手は少女へと何かを望むでもなく。
けれど、決して少女の腕を払うことはなかった。
ただ、側で寄り添うばかりだった。
* * *
「ごめ、ん……な、さい。お人形、さん……」
ようやく嗚咽はおさまり、声はちゃんと言葉になる。
けれど未だに頬を伝っていた雫を、店主はそっと拭った。
「いえ、劣化の影響で記憶が不調だったのが原因ですから。……悪いのは私です」
「……でも、腕が、壊れちゃって……」
結局耐えられなかったせいか、ヒビが生えた関節を気負うように、リザの表情に陰りが差す。
そんな彼女の額を、店主はもう片方の腕でゆっくりと撫ぜた。
「問題ありません。どうせ、もう使わなくなるのですから。むしろ、あと数日というところでようやく寄り添えた。それが今は、たまらなく嬉しいのです」
肌も、髪も、色が抜けきっている彼女の表情は、これ以上ないほどに穏やかなもので。
だからこそ、元々の儚さを更に際立たせていた。
危うげなほどに白い頬へと、手を当てて、リザは小さく口にする。
「……あと、数日……?」
「ええ。私に残された時間です」
「お人形さん、死んじゃうの?」
「与えられた擬似的な人格が消えてしまうだけですので人の死、とは違うかもしれませんが。意味としては正しいかもしれません」
その口調は、もう全てを受け入れてしまったかのようなもので。
「……ねえ、お人形さんは本当に……それで大丈夫なの?」
「大丈夫か、と問われましても回避できるものではありませんから」
「ううん、そういうことじゃなくって……。もう満足してるの?」
「ええ。おそらくは」
溢れた問いに対しても、彼女ははぐらかすばかり。
だからこそ、リザはすり寄るとぎゅっと、頬をできるだけやさしくつまみ、首を振った。
「……ううん、お願い。お姉ちゃんとして、あの子に何もしてあげられなかったから。……だから、あたしがお姉ちゃん代わりとして、お人形さんの最後のお願いを叶えたいの」
真っ直ぐにこちらを捉える眼差しは、この上なく真剣なもの。
そのせいか一瞬口が開きかかったのを、店主は慌ててつぐんだ。
けれど、瞳と瞳が触れ合って、そこに湛えられた光が少しも揺れなかったのを見た時、唇が震えて。
——それは、確かに言葉を紡ぎ出した。
「……欲しい、です」
一瞬、回想したのは遠い日の記憶。
もはや思い出すのすら困難で。
顔もまた、朧げなもの。
しかし、深くに焼きついたその言葉だけは消えることがなかった。
『貴女がたとえ、あの子の代わりになれなかったとしても……貴女が、私にとって、もう一人の妹であることは確かなの』
——“だから、名前をつけましょう?”
あの時はまだ、その言葉に素直になることはできなかった。
今でも胸の奥で反響するその言葉に、少しばかり表情は歪み、彼女は俯く。
——結局は紛い物でしかなかった私に、名前など与えられる価値はない、と。そう考えていました。
「私は……名前が、欲しいです」
——けれど、今は違います。今まで感じたことがないほどに強く、それを欲しているのです。
たとえ、そこまで名前に執着する理由がわからずとも。
目の前の少女が、本当の意味で自分の姉ではないことを知っていても。
「わかったよ、お人形さん。だったら、一緒に考えてあげるから……。だからもう、苦しそうな顔をしないで……?」
未だに涙の滲んだ笑みの前で。
真っ直ぐと目の前の少女を捉え、店主は深く頷いた。
* * *
「……お姉様、お久しぶりです」
死後、魂は天へ昇るという。
そんな言葉を思い出し、店主は少しばかり目を伏せる。
——では、魂のない人形はどうでしょう?
そんなことを考えたところで、辿り着いた結論は、精々霧散して消えてしまうだけだろうというところ。
「ここがお人形さんのお姉ちゃんのお墓なの?」
「……ええ。それと、私のモデルになった方も、ここに」
——とすれば……会える機会もこれが最後、でしょうか?
寂しげな表情と共に、彼女はその場に薄紫色の花を置く。
「そのお花は?」
「……お姉様が好んでいたものです。生前、造花専門店を営んでいた時からずっと。あの方はこれをそばに置いていました。あくまでも、作り物ではありますが」
「……そうなんだ。……だったら……」
一度目を瞑り、少し考えるような仕草を見せたのち、少女は高らかに宣言した。
「……私が、いつか本物を持ってきてあげる! そしたらきっと、お人形さんも、お人形さんのお姉ちゃんも嬉しいでしょ?」
「けれど、これは東洋の花ですよ? 本物は貴重なもの……」
「でもでもっ! いつか必ず持ってくるから!」
とん、と自信ありげに胸を叩く少女の気持ちを無碍にするのもあまり良くないことと思ったのか、店主は軽く頷く。
「うんっ! だから、待ってて。絶対だから! 指切りしてもいいもん」
「指切り……ですか?」
「うん、こうやって、小指同士を……」
首を傾げる店主の片手を取ると、リザは小指を絡めてしまう。
「こうやって、指切りするの。約束を守りますって!」
絡めた指を目線の先に持ってきて。
彼女は少しばかり振ると、満足気にそれを解いた。
「そう、ですか。……楽しみにしていますよ。その、いつかを」
それを見つめる店主もまた、微笑んでいた。
* * *
その時が訪れたのは、そんな約束から程なくして、だった。
隣で目覚めた時、店主の瞳からは既に光が消えかかっていて。
何度も彼女の体を揺すり、呼びかけても、それはただ、弱まっていくばかり。
段々と瞳が虚ろになっていく中、最後に唇だけがピクリと動いたため、リザは目を見開き、口元へと自分の耳を持っていく。
それはまるで彼女が、自分にとっての最後の言葉を紡ごうとしているようでもあった。
——抜け落ちていきます。消えゆきます。
視界は仄暗く、ほとんど何も映らない。
——お姉様も、最期はこのような感覚を味わっていたのでしょうか。
けれど、普段のような痛みは感じない。残っているのはただ、安らいでいくような感覚のみ。
『ねえねえ、ついてきてっ! お姉ちゃんが遊んであげるから』
『いいよ、私のおやつ、食べても。だってこれ、あなたも好きでしょ?』
いくつもの情景が、現れては一度瞬いて、消えゆく。
そして、記憶もまた、零れ落ちていく。
——貴女は、とても妹思いな方でした。
きっと、あの方も喜んでいたはずです。最期まで消えてほしくない思い出として、ずっと、残されていましたから。
『——なの? 私のこと……わかる……?』
『ええ。記憶にありますので』
本来の意味で、“初めて”会った時の貴女は、それはもう喜んでいましたね。
容姿はもちろん、口調までもが、ちょうど少し背伸びしたお年頃の妹と同じ丁寧なもの、でしたから。
私に抱きついてきた時、とても力が強くて、関節が軋んだこと。
そして、貴女の笑顔。今までずっと、焼き付いていました。
『……っ……ぅぁぁっ……』
私が妹を模した紛い物にすぎないと気づき、声を押し殺して泣いていたことも知っていました。
……寄り添いたかったのだと気がついたのは、随分と後のことでした。
今となってはもう、この後悔すら消え去ろうとしています。
そして……それが何故か、たまらなく恋しいです。
『貴女が、私にとって、もう一人の妹であることは確かなの』
たまらなく胸が痛んだ次の日、貴女が頭を撫でてくれたおかげで、その痛みは癒えました。
それは、とても温かで。きっと、私がずっと求めていたもので。
——だからこそ、貴女がいなくなった後でも、貴女がどんな感情を持って、生きていたのかを知りたくて。人の思い出に——感情に触れるために、私は人形師になったのです。
辛かったものも、楽しかったものも、最後までなんと例えればわからなかったものですらも。
人形師としての記憶は、元々与えられていた記憶の上に積み重ねられていき、やがて生まれた温もりが、『私』を形作っていきました。
——全部、私にとってかけがえのない思い出でした。
だからこそ、ずっと、消えないように守ってきたはずなのに、消えてしまうこと。
本当に、嫌で嫌で仕方がありません。
——けれど、そんな感情すらも全て消えゆきます。
『あたしがお姉ちゃん代わりとして、お人形さんの最後のお願いを叶えたいの』
刻まれたばかりの大切な記憶も、貰ったばかりの名前も。
全てが零れ落ちていき、形作られていた『私』は少しずつ崩れ始めます。
もうきっと、自身が何者かすらも、わからなくなってしまうのでしょう。
だからこそ、強く焦がれていた貴女へ。決して忘れたくないあなたへ。
「……おね、え……」
さいごに、とどけたくて……。
「あり、がと、う……」
だれかが、なでてくれています。
わから、ない、けど……とても、あんしん、です。
きっと、しあ、わせ、です。だから。
ひとつ、きかせて、ください。
——わたしは……ほんもの、ですか?
* * *
ある日の夕方のこと。
小さな港町にある集合墓地を、大きな鞄を背負った一人の女性が訪ねた。
「こんにちは。そして、久しぶり」
——もう、語りかけてもあなたが答えてくれることはない。
だって、見届けてしまったから。
あなたの瞳から光が消える瞬間を。
「……ねぇ、あたしね。やっと、あなたの言っていたことがわかったの」
——“あり、がと、う……”
あの日、あなたは最期に言葉を届けてくれた。
「確かに、人形を作ってもらう必要なんてなかった。だって——」
最後のお願いを口にした時の真っ直ぐな眼差しも。
指切りをした時の笑顔も。
撫でた時に浮かべた穏やかな笑みも。
あなたが、それを見せてくれるたびに、あたしも嬉しくなった。
やっと……やっと、“お姉ちゃん”になれた気がした。
もちろん、“あの子”との間に残してしまった悔恨が完全に取り除かれることはなかったけれど、あなたとの日々は、それを癒してくれた。
「——時を隔てても、あなたが、“あの子”の言葉の続きを、届けてくれたから」
この墓石の中では一番新しいものである『シオン』という名前をなぞりながら、女性は続ける。
「——ねえ、だから、あたしにも伝えさせて」
そして、鞄から一つの花束を取り出すと、彼女はその場に置いた。
「……ありがとうって。だからね、約束してたもの、持ってきたんだ」
薄紫色の花がいくつも集まって出来上がったそれは、ふわりと風に揺れる。
「遠くから手に入れてくるの、大変だったんだから。……喜んでくれると、嬉しいな」
微笑みかけたのち、女性は目を瞑ると、心より彼女へと、一つの言葉を届けた。
——あたし、あなたを忘れない。あなたが側で寄り添ってくれたから、今のあたしがいるんだってこと。いつまでも、いつまでも。
その時、一際強い風が吹いて、
夕焼けの滲む空を、花弁はどこまでも高く昇っていき、やがては沈みゆく陽に触れたのを最後に、少しずつ舞い降りていく。
ひら、ひらりと、そうして行き着いたのは空を映して、鮮やかな赤へと染まる海の上。
けれど、たとえ水に触れても、紫苑色のそれが、沈みゆくことはなく。
それはきっと、証明でもあった。
——花弁が、布でできた紛い物ではないことへの。
ただ揺蕩い続けるそれの隣を、ブオンと蒸気を吐き出して、港へと戻りゆく船が通り過ぎた。
“紛い物”より手向けの花を。 恒南茜(流星の民) @ryusei9341
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