第3話『地獄に落ちて』
それから俺は、幾度となく死に物狂いで逃げていた。
一体何からだって?
地獄に居るのは鬼って相場が決まってる。
そのぐらいはガキの頃に聞いてたさ。
そうやって怖がらせて来た連中の話を下らねぇと思っていた俺に対し、母親は、『大丈夫。鬼が来ても、かあさんが助けてあげるからね』と言っていた。
そんなことまで現実逃避のように思い出す。命がけの鬼ごっこ。
足場の悪い岩場を、全速力で駆ける。
途中から、足の裏を激痛が走る。
靴がボロボロになって消えていた。
だから、岩場を素足で走らねぇとならなかった。
初め、足の痛みに蹲ったら、追い駆けて来ている鬼に捕まって叩き殺された。
あの恐怖と痛みと絶望感は、一瞬で俺から虚勢と言う仮面を剥ぎ取った。
たとえ足の裏が血だらけになろうとも、叩き潰されて殺されるよりは断然マシだ。
でもそうやって後ろの鬼たちと足の裏を気にしていたら、
ごおおおおっ
目の前を炎の柱が遮る。
初めのころ、気付かずに生きたまま焼かれた。
アレはあれで二度と体験したくはない。
でも、一つずつクリアしたところで、新しい場所まで来ると罠にハマって命を落とす。
すると、また初めから逃げることになる。
もう何度同じところを逃げて、何度同じ方法で殺されたか分からない。
それでも俺は、逃げ続けるしかなかった。
言われたんだ。あの鬼に。
『地獄は何層にも別れている。その出口をすべて潜り抜けられたら、刑期を終える前に解放されるかもしれねぇがな』
と。
逃げ切る。逃げ切れさえすれば、何度となく叩き殺されたり焼かれずに済む。
そんなことを繰り返さずに済む。
その一心で、俺は何度も殺されながら出口を目指していた。
意味が解らなかった。何故こんな思いをさせられないといけないのか。
俺は、こんな思いをさせられるだけのことをして来たのか。
別に人を殺したわけじゃない。
他人に苛立ちをぶつけるのは、誰だってすることだ。
気に入らなければ気に入らないと口にだってするだろ?
自分に関係がないと思えば、誰だって見て見ぬ振りするだろ?
迷惑かけられたって言ったって、それだけこっちだって不快な思いをしたからやり返しただけだろ?
俺は別に、こんなに殺されるほどのことはされてなんかいない!
そう思えば腹が立って来た。
腹が立って来たから、意地でも出口に辿り着いてやろうと思った。
何度も殺されて、何度も怖ろしい思いをさせられて、心が折れそうになっても、それでも、こんな理不尽なことに負けて堪るかと、その想いで逃げて、逃げて、逃げて、逃げて。
そして、ふと思った。
本当に、そうなのかと。
本当に俺は悪くないのかと。
俺とは違う俺が囁いていた。
知るかと思う。知ったことかと思う。俺は悪くない。
俺は悪くないはずなのに!
何故か、脳裏に母親の姿が蘇っていた。
いつもいつも誰かに謝っていた。
俺が何も悪くないと思っていたことで呼び出しを食らうたびに。
俺が正しいと思って行動したことで騒ぎになるたびに。
いつもいつも母親は謝っていた。
それが、気に入らなかった。
申し訳なさそうな、諦めきったような目をして俺を見る母親の姿が。
なんでそんなものを思い出すのか分からない。
足が痛かった。
確かめなくても解ってた。足の裏が穴だらけになって、血だらけになっていることを。
岩場はごつごつしているだけじゃなく、焼けるほどに熱かった。
実際に足の裏は焼けている。だから、血だらけになってもすぐに蒸発している。
焼けて塞がれた傷を岩肌の凹凸が何度も抉る。
痛かった。
熱風で喉が焼けた。
血の味がした。苦しかった。
眼が痛かった。涙も出て来なかった。
なんで俺が。なんで俺が。
鬼から逃げる。
吹き上げる炎から逃げる。
気の遠くなるほどに繰り返して来た道だった。
もう少しで出口に辿り着くはずだった。
嘘か本当か知らないが、
《こちら出口です》
と書いた派手な電光掲示板と、避難用の、あの人が走っている絵が描かれた緑の非常灯が掲げられた岩壁が見えていたから。
あそこまで逃げきれれば抜け出せる。
そう思って、そう願って、それに縋って逃げ続けて来た。
だから――
ゴール目前にして、そこが崖になっているなんて思っても見なかった。
ただの下り坂だと思っていた。
だから、助走も踏み込みもしなかった。
ただ勢いで落下する。すぐそこに、ちゃんと踏み込んでいたら十分飛び越えられるそこに、出口が口を開けて待っていたというのに。
また俺は、最初からあの苦しみを体験しければならないのかと絶望した瞬間だった。
「――!!」
名前を呼ばれたような気がした。
無意識に手を虚空に向かって伸ばしていた。
まさか、その手を掴まれるとは思ってもみなかった。
痩せた細くて小さな手だった。
艶もなく、ボロボロにひび割れた硬い手だった。
その先に見えたのは、涙を流して愛おしそうに俺を見て来る母親の姿だった。
『大丈夫。鬼が来ても、かあさんが助けてあげるから』
その口が言っていた。
その声が届いていた。
そして、小さく細い体のどこにそんな力があるものか。
俺の母親は、力の限り俺の手を引っ張って、放り投げた。
体の位置が入れ替わる。
俺の体は放物線を描いて浮き上がり、かあさんは、満足げな顔をして奈落の底へと落ちて行った。
刹那、俺は母さんに向かって手を伸ばして叫んでいた。
「かあさん!」
視界が歪んだ。
涙が溢れた。
いつもいつも、俺のせいで周りに頭を下げていた。
罵られて責められても、言い訳一つせずに謝っていた。
家族や親族の中でも鼻つまみ者の俺が家を出てからも、通帳に毎月仕送りをしてくれていたのは母だった。
週に二つのバイトを掛け持ちして、その殆どを俺に仕送りしてくれていた。
家族は辞めろと言っていたのに、父親や兄弟たちから放っておけと、あんな奴のために無理して働くことはないと。俺たちが十分に食わせているだろと、いくら説得をしても聞き入れずに働いて働いて。
そして、体を壊してあっけなくこの世を去った。
あんな奴のために無理をするからと、妹が詰ったとき、かあさんは言っていた。
『私が見捨ててしまったら、本当にあの子は独りになってしまうから。私ぐらいは味方でいないと』
そう言っていたと、通夜に出たとき言われていたのに、どうして今の今までそのことを忘れていたのか。
堪らなかった。
喉が、胸が、締め付けられた。
どれだけ迷惑を掛けても、生んだのはお前らなんだから、お前らが育てる義務もってるだろうと、一度として感謝したことなどなかった。
それどころか、いつも不平ばかりを口にしていた。嫌みをぶつけた。金だけ巻き上げて、忠告なんて聞いたことすらなかった。
それなのに、かあさんは唯一俺を見捨てたりしなかった。
そして今も、身を挺して守ってくれた。
これまで見向きもしなかった後悔が溢れ出た。
嗚咽が漏れた。
人生で何度呼んだか分からない。
かあさん。かあさんと、叫んでいた。
辛くて苦しくて、自分が情けなくて。
それでも鬼は追い駆けて来る。
俺は、かあさんの気持ちを無駄にするわけにはいかなかった。
かあさんの行動を無駄にするわけにはいかなかった。
涙を拭って、俺は立ち上がった。
靴もズボンも上着も服もボロボロだった。
手も顔も火傷や土埃で汚れ切っていた。
それでも、俺は、出口に向かった。
馬鹿みたいな自動ドアが開いて、ファンファーレが鳴った。
そして俺は、眼が覚めた。
ファンファーレの音は、スマホの目覚ましの音だった。
だとしても、すぐに止めることは出来なかった。
呆然としていた。
そこがどこなのか理解するのに時間がかかった。
俺が寝泊まりしている安アパートの天井だ。
自分ベッドの上にいることが分かって、ようやく自分が夢を見ていたのだと理解する。
でも、俺は起き上がれなかった。
あれが夢だとは到底思えなかった。
何度あの夢で殺されただろう。
どれだけ長い間あの世界に居たのだろう。
最期に見た母親の姿が忘れられなかった。
再び視界が滲んだ。涙が溢れて止まらなかった。
嗚咽が漏れた。
今までのままじゃ駄目だと思った。
すぐには変われないかもしれない。変われるはずがないとも思う。
それでも、少しでもマシになったと思われなければならない気がした。
さもなければ、
『また、残りの地獄を体験してもらうよ』
耳元で囁く声に、心臓が止まりかけた。
涙が止まって体が硬直する。
動けなかった。
気のせいかと思い込もうとしたが、その声は妙に生々しく聞こえた。
残りの地獄が待っている。
たとえ夢だとしても、冗談ではなかった。
◆
そう心を入れ替えようとしている男を見て、鬼はセルフレジに寄り掛かりながらぼやいた。
『ほんとにさ。人口減ってるくせに地獄に来る奴多過ぎて、堪ったもんじゃねぇよ。このセルフレジのお陰で地獄ツアーの体験できるようになって、少しでも地獄行きが減ってくれりゃァ、こっちも楽できるんだけどな』
そんなことを鬼がぼやいているなど、生きているものには知るよりもなかった。
『完』
『セルフレジはこちらです』 橘紫綺 @tatibana
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